わたしは蕎麦が好きだが、1日3食とも蕎麦で100日食わされたら、さすがに見るのもイヤになりギブアップするだろう。すき焼きClick!が大好きな佐伯祐三Click!でさえ、30日間食べつづけてギブアップClick!している。でも、そんな出来事が現実として下落合では起きていた。東京に住む「敵性外国人」(日本が宣戦布告している相手国の欧米人)を駆り集めてぶちこんだ、国際聖母病院Click!(1943年からは軍部命令で「聖母病院」)の強制収容所(ゲットー)でのこと。敗戦の年の1945年(昭和20)になると、配給物資(おもに食糧)が極端に少なくなり、聖母病院には抑留者ひとりにつき、1日に蕎麦1斤(600g)しか支給されなくなっていた。
 同病院の敷地内にあった、おそらく「孤児院」と思われる建物へ、東京に在住していた「敵性外国人」が拘束されて強制収用されたのは、1942年(昭和17)になってからのことだ。1941年(昭和16)12月8日の日米開戦と同時に、東京に住んでいた「敵性外国人」は当初、警視庁の手で自宅あるいは公館に監禁され外出禁止措置がとられていた。この状態がしばらくつづき、翌1942年(昭和17)になると都内に何箇所かの強制収容所が設定され、地域ごとに分散して収容されている。そのうちのひとつが、下落合の国際聖母病院だった。
 目白福音教会Click!のメーヤー夫妻Click!は、開戦当初は教会敷地に建っていたヴォーリズ設計の自宅Click!=宣教師館(メーヤー館Click!)に監禁され、翌年に近くの聖母病院の強制収容所へと連行された。P.S.メーヤー牧師が表現するところの「孤児院」(おそらく修道院の付属施設に孤児院Click!があったものと思われる)でしばらく暮らしたあと、翌1943年(昭和18)には捕虜交換船「帝亜丸」で米国へ強制送還されている。でも、同教会のクレイマー牧師のように、日米開戦のあと地下へ潜行して日本にとどまりつづけた欧米人も、同病院に隠れていた。★ また、「敵性外国人」といっても直接戦闘の相手ではないフランス人などは、帰国せずにそのまま日本にとどまりつづける人たちもいた。国際聖母病院は1931年(昭和6)、フランスからの多大な援助によって建設された病院だ。
★その後、クレイマー宣教師(女性)が「聖母病院に潜伏した」というのは、地元の誤伝ないしは“伝説”である可能性がきわめて高いことが判明Click!している。
 
 太平洋戦争がはじまると、食料を含めたすべての生活物資が配給制となり、当局が配布するもののみが生活の糧となった。戦争も末期が近づくにつれ、強制収容所の抑留者へまわす物資も貧弱化していった。そんなとき、中立国だったスイスの公使館員が、聖母病院の収容所を視察したのだろう。抑留者たちが、1日に蕎麦600gしか食べていないことがわかり、さっそく日本政府外務省に待遇改善を求める要望書(口上書)を提出している。以下、1945年(昭和20)7月2日に外務省へ提出された、当時は空襲Click!で焼け野原になった東京を離れ軽井沢に移転していた、スイス公使館の口上書 (原文フランス語/国立公文書館蔵)を引用してみよう。
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 在京邦 瑞西(引用註:スイス)国公使館口上書(一九四五、七、ニ付)仮訳
 関口抑留者即チ現在 聖母病院収容抑留者ニ関スル六月二十五日付口上書(訳註、抑留者訪問許可要請ノ件ナリ)ニ引続キ 瑞西国公使館ハ外務省ニ対シ 右抑留者ハ甚ダシク不充分ナル給食ヲ与ヘラレ居ル事 通報スル光栄ヲ有ス 病院ハ事実上抑留者ニ給食スル状態ニアラズ 抑留者ハ官憲ヨリ一日当リ蕎麦一封度ノ給与ヲ受クルノミニシテ 他ノ食糧ハ全然ナキ次第ナリ
 斯シテ公使館ハ 聖母病院抑留者ガ必要ナル食糧ヲ受領シ得ル様 主務官憲ニ斡旋セラレン事ヲ外務省ニ切ニ急請ス 
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 抑留者にちゃんと食事を与えていないことを、「通報スル光栄ヲ有ス」と皮肉たっぷりに書かれているスイス公使館の口上書を受け、外務省ではさっそく聖母病院の実情をあらかじめ下調べしたらしく、内務省営保局長あてに同年7月18日、至急便による最優先の審案として、「聖母病院ニ収容中ノ抑留者ノ給食改善方ニ関スル件」を提出している。同書類の上部に付けられた懸案の付箋には「甲」の欄に印がつけられ、また書類の本文欄外には「急」の文字が入れられているので、外務省では相当な懸念を抱いていたのが見てとれる。
 それは、外務省がナチスドイツの強制収容所と、日本のそれとが同一視されるのを怖れたためだろう。同年4月、すでにドイツは降伏して崩壊しており、ヨーロッパ各地に設けられた強制収容所の悲惨な様子が、次々と明らかになりつつある時期だった。日本の敗色が濃い状況を踏まえ、日本の強制収容所もナチスドイツと同列だと見なされることに、外務省が強い危機感を抱いたのだ。配給されていた蕎麦も、江戸東京では昔からポピュラーで当り前の食べ物のひとつだし、また今日では知らない米国人のほうがめずらしいのかもしれないが、当時の欧米人の感覚からすると、抑留者たちへほとんど食物を与えないで餓死させようとしていた・・・なんてことを、言われかねない状況だったのだ。

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 聖母病院ニ収容中ノ抑留者ノ給食改善方ニ関スル件
 聖母病院ニ収容セラレ居ル 警視庁抑留所抑留者ハ蕎麦一斤(引用註:600g)ノミニシテ 全然他ノ食物ヲ給与セラレザル趣ヲ以テ右至急改善方 今般在京邦瑞西国公使館ヨリ別紙仮訳ノ通申出タリ 就テハ同病院実情御取調ノ上 右果シテ事実ナリトセバ 敵側ニ悪宣伝ノ材料ヲ与フル虞(おそれ)モ有之 至急少クトモ最低限度ノ給食ヲ与フル様御配慮相成 結果何等ノ儀御回示相煩度
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 その後、聖母病院抑留者の食事が改善されたかどうかまでは、国立公文書館にも資料が残っていないので判然としない。おそらく、改善したくても日本じゅうで食糧自体が絶対的に不足していたため、蕎麦以外にはあまり増えなかったのではないか。あるいは、「最低限度ノ給食」を手配しているうちに、8月15日を迎えてしまったとも思われる。
 1943年(昭和18)に強制送還されたメーヤー夫妻、あるいは公使館を通じてスイス政府から聖母病院の抑留者情報を把握していたと思われる米軍は、おそらく蕎麦がどのような食べ物かまったくわからないまま、下落合の「孤児院」または病院と思われる大きな建物めがけて、片っぱしからドラム缶に詰めた救援物資Click!を投下しはじめた。でも、抑留されていた米国人はともかく、フランス人たちは米国の食いもんなどマズくて食えるかと、相変わらず日本の蕎麦を料理して食べていたのかもしれないけれど。w 余談だが、“フランス村”の神楽坂では、いまでも蕎麦あるいは蕎麦粉を活用したフランス人の経営するレストランが目につく。
 聖母病院の強制収容施設(ゲットー)は、内務省警視庁の管轄だった。下落合には、憲兵隊が同病院を包囲していたという住民の証言も、またシスターたちの証言もあるので、警官の都合がつかなくなった戦争末期には、憲兵隊が出動して監視にあたることもあったのだろう。下落合では、聖母病院の強制収容所については“負の記憶”になるのだが、戦後から今日にいたるまで、その実情がどのようなものだったのかが語られることはきわめて少ない。
 
 わたしは蕎麦が大好きClick!だけれど、毎日3食とも蕎麦ばかりはさすがにカンベンだ。強制収用された抑留者の中に、蕎麦アレルギーを発症した人はいなかっただろうか? いちおう病院の敷地内なので、医師や看護婦が近くにいるのだから手当てはできたのかもしれないが、医薬品も極度に不足していた戦争末期、アナフィラキシーショックまでの治療はとてもできなかっただろう。下のオスガキが、5~6歳のころまで蕎麦アレルギーだったのだが、かかりつけの医者が聖母病院というのも、なんとなく蕎麦つながりでおかしな因縁だ。

◆写真上:全館リニューアルとともに、聖母坂に面して設置された国際聖母病院の巨大レリーフ。軍部によって強制的に「国際」を外された「聖母病院」ではなく、1931年(昭和6)のフィンデル本館の建設以来、ようやく本来の「国際聖母病院」の名称にもどった。
◆写真中上:左は、1945年(昭和20)6月25日にスイス公使館によって作成された外務省あての口上書。右は、外務省が受領した仮訳「在京邦瑞西国公使館口上書」(7月2日)。
◆写真中下:外務省が内務省営保局あてに送った、1945年(昭和20)7月18日の審案「聖母病院ニ収容中ノ抑留者ノ給食改善方ニ関スル件」。欄外に、最優先の付箋と「急」の文字が見える。
◆写真下:いずれも国際聖母病院で、聖母坂(左)とフィンデル本館(右)の現状。