セミの声がまだ聞こえていた10月17日、わたしの携帯へ島津一郎Click!アトリエを所有・保存されている方からお電話をいただいた。「アトリエが、文化庁の登録有形文化財に指定されました」という、とてもうれしいお知らせだった。
 わたしは、炭谷太郎様Click!からお送りいただいた日動画廊の『下落合風景』Click!画像を見たとき、イスからズリ落ちそうになったのとは逆に、「やった!」とイスから飛び上がりそうになった。新宿区による中村彝アトリエClick!の保存が決まったときと、同じようなうれしさを味わった。島津一郎アトリエは、これまで落合地域に建てられた画家のアトリエの中ではもっとも大きく、また意匠も豪華なものだ。いや、おそらく東京でも最大クラスの洋画家アトリエであり、建設当初の姿をほとんどそのままとどめている貴重な建築だ。設計者は、1920年(大正9)から上落合に住み、国会議事堂などの設計にたずさわった吉武東里Click!だ。おそらく、いまや日本で唯一の吉武東里によるアトリエ建築だろう。ちなみに、吉武は島津製作所東京支社の設計も手がけているが、残念ながら戦災でビルの外郭だけを残し内部が全焼たため、戦後しばらくして建て替えられている。
 島津一郎については、こちらでも何度かご紹介しているが、改めて1995年(平成7)に出版された『島津の源流』(島津製作所総務部)から引用してみよう。(なお、カッコは引用者註)
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 (島津)源吉は、妻トミとの間に一男一女をもうけた。長男一郎、長女鈴子という。/長男一郎は、父の赴任に伴ない東京で育った。東京美術学校西洋画科を卒業、昭和十五年父と共に帰洛した。翌十六年、せっかく芸術の道を志したが時局急変に伴い島津製作所に入社、総務・経理畑を歩み、二十一年取締役に就任。戦後の困難な経営状況の中、よく鈴木社長を助けて功があった。また彼は、昭和四十六年のドル・ショック、四十八年の第一次石油危機の業績低迷時には、専務取締役として時の社長上西亮二を補佐し危機を切り抜けた。その後、五十年監査役、五十六年顧問となり、現在に及んでいる。彼は一男三女をもうけている。/源吉の長女鈴子は、刑部人と結婚した。人は、東京美術学校を卒業、洋画家として著名である。彼女は二男(ママ)をもうけている。
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 島津一郎は、東京美術学校を卒業したあと画家への道を歩みはじめている。東京土地住宅Click!による下落合西部のアビラ村Click!(芸術村)計画では、村長をつとめる予定だった満谷国四郎Click!に師事し、満谷生前には親しく交流していたようだ。また、アビラ村の名づけ親だと思われる金山平三Click!とも交流をつづけ、金山が描く『秋の庭』Click!(1933年ごろ)には、島津一郎と思われる人物が三ノ坂界隈と思われる風景をスケッチしている様子が描かれている。このとき、金山平三とともに描いた作品が現存していれば、同じような風景画とみられるのでとても面白い。「下落合を描いた画家たち」シリーズとして、画面をご紹介できるのだが・・・。島津は、油絵のほかに彫刻にも興味をもっていたようで、絵画のアトリエとは別に、彫刻制作用のアトリエも近接して建設している。
 
 


 島津一郎は、島津源吉邸Click!から独立すると、今回ご紹介するアトリエで暮らしたほか、下落合ではいくつかの家に転居しているようだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、四ノ坂上の松本竣介アトリエClick!の隣りに、島津一郎の自邸が採取されている。
 では、吉武東里が設計した落合地域はおろか、東京でも最大クラスと思われる島津一郎アトリエを拝見していこう。ただし、同アトリエの所有者の方のご要望により、あくまでも私邸内に残る建築なので、記事にするならアトリエの所在地は伏せてください・・・とのご要望をいただいている。一度にたくさんの方が見に来られても対応できないし、近所のご迷惑にもなるのでとりあえずナイショに・・・というお約束なので、ご了承いただきたい。
 アトリエの建築時期は、1932年(昭和7)以前ということで、ハッキリした建築時期の特定はできていない。これまで、島津邸とその周辺域のことを調べつづけている感触から、また昭和最初期の地図類を参照しながら合わせて考察すると、刑部人アトリエClick!が建設された1931年(昭和6)より少し前の建築ではないかという感じがしている。わたしは最初、刑部昭一様Click!にご案内されて島津アトリエにお邪魔をしたのだが、玄関からではなく南側の広大な間口のベランダ(テラス)から入れていただいた。これまで、わたしはいろいろなアトリエを拝見し、また資料類でも数多く調べてきているが、これほど巨大なアトリエは初めてだ。

 
 
 島津アトリエの大きな特徴は、アトリエに和館などの母屋が付随した建築ではなく、アトリエの中に応接室や書斎、風呂場などの必要な生活空間が併存している、規模の大きな建物であるという点だ。第一印象はとてつもなく大きく、また豪華な意匠であるという感想だった。アトリエというよりは、高原に建てられたロッジの大きなラウンジといった趣きをしている。これほどの広さがあれば、たとえ500号の大作を制作するにしても、キャンバスを設置する位置や空間などまったく気にせずに済みそうだ。むしろ、500号キャンバスがそれほど大きくは感じないだろう。
 赤い瓦屋根に煙突が3本建っている外観から、相当な大きさのアトリエを想像していたのだけれど、実際に目にすると改めてケタ外れの大きさに驚き、ていねいに仕上げられたアトリエの内装に見とれてしまった。わたしがご案内いただいたテラスの上部には、佐伯祐三アトリエClick!や刑部人アトリエと同様に、アトリエ全体を見下せる中2階が設置されている。そして、反対の北側には、わたしがかつて見たこともない大きな採光窓がうがたれていた。佐伯アトリエや中村彝アトリエの、ゆうに倍以上はありそうなサイズだ。採光窓の外側の柱には、彫刻を横に何段もほどこした、いわゆる「飾柱」が設置されていて、細部までデザインにこだわった造りをしているのがわかる。
 

 
 いや、外壁まわりの装飾は柱ばかりでなく、板壁や切妻の部材などにも、木彫りのさまざまな装飾が見てとれる。それらデザインの多くは、亀甲型あるいは矢羽型をしていることに気づく。玄関のタタキや暖炉の床面に敷かれたタイルなども、矢羽型をしていてたいへん美しい。気がつけば、わたしはアトリエ内のドアや窓などにほどこされた、モダンなデザインの木彫りに目を奪われていた。
                                                <つづく>

◆写真上:島津一郎アトリエの北側面で、落合地域では最大と思われる採光窓が目を惹く。
◆写真中上:上左は、1936年(昭和11)に撮影された満谷国四郎一周忌座談会で撮影された島津一郎。上右は、島津アトリエを設計した吉武東里の『自画像』。中左は、1947年(昭和22)に撮影された戦後すぐのころの島津製作所東京支社。中右は、神田錦町にある同社の現状。下は、アトリエ所有者の方が保存されている北面立体図(上)と1階・中2階平面図(下)。
◆写真中下:上は、1933年(昭和8)ごろに制作された金山平三『秋の庭』(部分)で、島津家の方々によればスケッチをしているのは島津一郎だと思われる。中左は、文化庁からとどけられた登録有形文化財プレート。中右は、南側ベランダ(テラス)の庭に面した入り口。下は、いままで見たこともないほど大きな、わたしのカメラでは入りきらない採光窓(左)とその西側のコーナー(右)。
◆写真下:上は、アトリエの天井(左)と西側に設置された玄関(右)。玄関の床面には、タイルが矢羽型に貼られている。中は、テラス側からアトリエの南側面を見たところで、横長の窓ガラスはアトリエ中二階のもの。下左は、テラス側の壁面に刻まれた矢羽模様。下右は、テラス天井の梁。