先日、わたしのサイトをご覧になった洋画家・笠原吉太郎Click!のご姻戚の方から、手元に1点だけ『下落合風景』Click!が残っています・・・とのご連絡をいただいた。さっそく、お送りいただいた作品画像を拝見したところ、下落合のどこを描いたのかがすぐにわかった。わたしは、この風景を学生時代から延々と見つづけてきているが、惜しいことに画面に描かれた邸は2007年(平成19)の春に解体され、現在は低層マンション風の社員寮が建てられている。
 描かれた場所は、佐伯祐三Click!の「八島さんの前通り」Click!に面した、下落合1436番地(のち1438番地)の小川邸だ。笠原家の自邸とアトリエは、三間道路をはさんだ小川邸の真ん前(東側)に建っていた。笠原吉太郎は、自邸前の道端にスケッチ用のイーゼルをすえて、真向いの小川邸(大正期は医院を開業していた)の門前と、洋館の北側を少し入れて描いている。小川邸については、大正期の文化村の風情が感じられる一画として、すでに当サイトでご紹介Click!していた。ただし、小川邸は第三文化村の範囲ではなく、その南側に建てられていた広い敷地の邸だ。
 おそらく、700~800坪ほどはありそうな小川邸の広大な敷地は、全体を濃い屋敷森におおわれていて、道路側の洋館部(昔の医院部分)と、その奥に隠れた和館部(母屋)とで構成されている。見るからに、大正期のハイカラな生活をほうふつとさせる意匠をしていて、庭先へテーブルやイスを持ち出して午後の茶話会でも開催したくなるような風情だった。敷地の境界は塀ではなく、あえて背の低い生垣をめぐらした昔ながらの懐かしい造りで、樹木や庭などを拝見しながら歩く速度をゆるめ、邸前をゆっくり散歩するのが楽しみな一画だった。
 わたしが小川邸を初めて見たのは、1970年代の半ば、下落合に足を踏み入れた当初のころだから、いまから35年ほど前のことになる。焦げ茶色に塗られた、下見板張りの瀟洒な2階建て西洋館が、大きな樹木に囲まれてひっそりと建つ風情に、いっぺんで惹かれてしまった。屋根はバーミリオン(朱色)の瓦で、窓枠は真っ白く塗られていただろうか。それ以来、たまに両親が下落合へ遊びにくると、よく邸の前を通っては散歩をしたものだ。親父もこの建物が気に入ったらしく、ときどき話題にしていたのを憶えている。学生時代のわたしは聖母坂を通らずに、よく「八島さんの前通り」へ北側Click!から入り、小川邸の前を抜けて西坂へと下っていった。
 
 作品は、戦前に描かれたものだろうか、小川邸の洋館背後にはいまだ空が見えるほどの空間が拡がっている。わたしが初めて見た70年代には、すでに樹木が大きく成長していて、洋館の屋根をおおってしまうほどの鬱蒼とした風情になっていた。1947年(昭和22)の空中写真を見ても、邸の背後にある木々が大きく育ち、家屋全体を囲むようになっている様子がわかる。その状況から類推すると、昭和初期に描かれた『下落合風景』の1作ではないかと思われるのだ。
 ご姻戚の方によれば、「家の周囲には、星野直樹さんや南原繁Click!さん、平尾昌晃さん※の実家などがあり、この作品はご近所の門だった」という伝承が残っているそうだ。笠原吉太郎は、下落合679番地(のち下落合667番地)の自邸から門の外へ出ると、ほんの数メートル右へ(北側へ)と歩き、道端にイーゼルを立てると小川邸の門を正面にすえて描きはじめている。
※平尾昌晃邸は誤伝で、現代音楽の平尾貴四男邸Click!だった。
 1938年(昭和13)に作成された、まちがいだらけの「火保図」を見ると、この通り沿いにあった吉田博邸Click!が「吉岡博」邸に、笠原邸が「小笠原」邸になっていて、いい加減に名前を採取したのが歴然としているのだが、下落合1436番地の小川邸もなぜか「八幡」邸になっている。この時期、小川邸を八幡さんという人に貸していたのかどうかはわからないけれど、「火保図」の記載ミスの可能性が高いように思える。なぜなら、戦後すぐのころの「下落合住宅案内帳」(住宅協会)では、ちゃんと小川邸(当時は地番変更され下落合1438番地)と記載されているからだ。
 
 
 小川邸の洋館部は、外壁の傷みが進んだものか、1990年代の終わりごろに下見板張りの外壁を、ベージュ色のサイデリア方式による外壁に改装してしまった。屋根も、瓦葺きからグリーンのスレート葺きへと変更された。きっと室内の保温が不十分で、冬期にはかなり寒かったのかもしれないが、もともとの意匠が大好きだった小川邸ファンのわたしとしては、かなり落胆したものだ。そして、2007年(平成19)の早春だったろうか、小川邸がすっかり解体され、敷地内の森もあらかた伐採されてしまったのを見たわたしは、心底ガッカリしてしまった。またしても、下落合(現・中落合)から大きな森のひとつが、いともたやすく消滅してしまったことになるからだ。空中写真で当時の様子を比較すると、いまでも少なからず愕然としてしまう。
 作品画面の右下には、初めて見る笠原吉太郎の「K.Kasahara」と描かれたサインが添えられている。画面の色づかいも、わたしが笠原作品に対して想像していたよりもはるかに鮮やかで、また絵の具の載せ方もたっぷりとしていて厚塗りだ。やはり、モノクロの画面写真からだけでは、なかなか実物のマチエールや雰囲気をつかみ取ることができないのを痛感した。ひょっとすると、この作品は1930年協会Click!の展覧会、あるいは自身の個展へ出品されているのかもしれない。
 

 もし、小川邸が現在でもそのまま下落合1436番地(現・中落合2丁目)に建っていたなら、さっそく当作の画像を手にいろいろ取材にうかがうのだが、いまはそれも不可能になってしまった。作品画像の記事への使用を、快く許可してくださった笠原家ご親戚のみなさま、ありがとうございました。

◆写真上:おそらく、戦前に制作されたと思われる笠原吉太郎『下落合風景(小川邸)』。
◆写真中上:左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる笠原邸と小川邸。右は、戦後の1960年(昭和35)に作成された「全住宅案内帳」に記載された両邸。
◆写真中下:上左は、2007年(平成19)の解体直前に撮影した小川邸。上右は、社員寮の低層建築となった現在の様子。下は、2005年(左)と2009年(右)のGoogle空中写真。
◆写真下:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる笠原邸と小川邸。上右は、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮られた両邸。下は、1947年(昭和22)の両邸と作品の描画ポイント。