名古屋の洋画家グループである「サンサシオン」Click!の松下春雄Click!が下落合へとやってきたのは関東大震災Click!の混乱が収まりはじめた1924年(大正13)のことだった。震災前にも東京で暮らしており、浅草近辺に住みオペラ館で書割の仕事をしながら絵の勉強をしていた。大震災を機に一時的に名古屋へ帰省し、再度東京へと引っ越してきたのだ。
 名古屋から再び上京した松下春雄は、すでに多くの画家たちが集まりはじめていた下落合を生活の場に選んでいる。最初に下宿したのは池袋大原1382番地の横井方だが、ほどなく「八島さんの前通り」Click!から少し西へ入った下落合1445番地へと転居している。佐伯祐三Click!のアトリエから、わずか100mのところだ。
 この下宿には、未亡人と若いふたりの娘が暮らしており、画家たちが数多く集まる大きめな屋敷だったらしい。1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!を参照すると、下落合1445番地に鎌田邸が採取されており、松下春雄は鎌田邸の1室を借りて下落合生活をスタートした。同地番の北側は、箱根土地が1924年(大正13)に販売をスタートした第三文化村のエリアに近い。
 余談だけれど、この下落合1445番地には昨年、女性専用の低層マンションが完成し、偶然にも下のオスガキのガールフレンドが暮らしはじめており、ときどき彼女のもとへ行きっぱなしになっている。下落合の画家ゆかりの街角なので、近々、厳重でガードがかたい同マンションへ彼女に入れてもらい、同敷地を撮影したいと思っているのだが・・・。w
 同下宿の様子を、先日、「杏奴」Click!でお会いした柳瀬正夢研究会の甲斐繁人様からいただいた資料、1988年(昭和63)に出版された『幻の画家 松下春雄展』図録(藝林)に収録された、名古屋出身の詩人・春山行夫の「野バラの丘 松下春雄君の思い出」から引用してみよう。
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 松下君の寄宿していた家庭は、生垣をめぐらした新しい平家で、未亡人の女主人と、結婚期の娘二人で暮していて、屋敷の一部に一部屋があって、近い将来に娘の一人に婿を迎えて、そこに住ませる(ママ)という魂胆だということが、わかりました。/この下宿の近くには、女子美術(私立)の油画科を出た未婚の女性があつまっていて、その人たちとの交流がはじまりましたが、それらの女性たちは郷里から仕送りをうけて学校時代の生活を延長しているようにみえました。これらの女性たちのなかに、コーダさんという日本画の卒業生がいて、相手をキミ、ボクと呼んでいたのには、おどろかされました。/ここでの生活には、じきに名古屋から軍人の息子の大沢海蔵君(のち光風会の重鎮になった)と、大阪からでて来た小柄の油画の学生が仲間にはいって来ました。
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 近隣には女子美術学校(現・女子美術大学)を卒業した、画家のたまごたちも集まっていた様子が記録されている。また、この松下春雄の下宿・鎌田邸を頼って、筆者の春山行夫をはじめ「サンサシオン」の大澤海蔵などが転がりこんできている。
 でも、下落合1445番地の鎌田邸は未亡人の賄いつきだったので賃料が高く、松下と大澤、春山、そして大阪からでてきた画学生の4人は、自炊生活ができる下落合1385番地の第二府営住宅Click!に隣接した、天理教集会所の敷地にある借家へと引っ越している。目白文化村Click!北辺の二間道路に接した、三角のかたちをしたエリアの一画だ。ちょうど、竹田助雄Click!の写真製版事務所や「やよい児童遊園」の真裏にあたるエリアだ。松下春雄は、この家を拠点に『下落合風景』シリーズClick!を制作していくことになる。同図録から、再び春山行夫の文章を引用してみよう。
 
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 その後、私たちのグループは、目白の奥の天理教の小さい集会所の別室に移動しました。静かな場所で、町へでるのに便利な土地というのが移動の理由でした。この別室というのは、それを貸すことで、集会所の経費を助けるのが目的で、出入口は集会所とは別になっていました。/この集会所を出ると、なだらかな丘陵で、そのむこうに野バラの垣根がありました。そのあたりには人影はなく、静かな環境でした。集会所の別室では、我々は共同で炊事を分担していたので、それの道具や、各人の日常の生活用品が雑然と散らばっていて、絵を描くスペースはなかったのですが、松下君はなんども野バラの垣根をスケッチに行き、それをもとにした水彩画を描き上げ、それをその年の秋の帝展に出品しました。ところが、それが入選になり、好評だったので、それにより画家としての地位はかたまったといえましょう。
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 下落合1385番地の借家群にも、やはり画家たちが集まっていた気配が濃厚だ。帝展の中出三也Click!と二科の甲斐仁代Click!のカップルも一時期ここに住んでいて、吉屋信子Click!がときどき甲斐のオレンジを基調とした「色彩の魔術師」作品を観に訪れている。でも、吉屋は中出三也に逢いたくて通っていたのが、のちに門馬千代の証言Click!で明らかになっている。
 なお、下落合1385番地の家を「文化村の借家」としている資料が多いけれど、目白文化村(松下表現では「下落合文化村」)の区画ではない。第一文化村とは二間道路を隔てて接した敷地で、むしろ落合府営住宅エリアの一画としたほうが実情に近いだろう。
 ひとつ前の下宿より目白駅から遠くなっているにもかかわらず、春山行夫が「町へでるのに便利な土地」と書いているのは、おそらく駅へ向かうダット乗合自動車Click!の「文化村」停留所に近い(100m弱)のと、目白通り沿いには商店が密集していて、江戸時代から「椎名町」(現・山手通りとの交差点界隈)と呼ばれていた“町”が形成されていたことによるのだろう。
 春山の書く、「なだらかな丘陵で、そのむこうに野バラの垣根」があった場所というのは、箱根土地本社ビルClick!の前庭である「不動園」Click!と、落合尋常小学校Click!とにはさまれたあたりの情景で、松下春雄『五月野茨を摘む』Click!(1925年)に描かれているように、南を向いた遠景には背の高い第一文化村の水道タンクが見える草原だ。同作が描かれた年、箱根土地はこの草原と小学校西側の谷をひな壇状に開発し、第四文化村として販売しはじめている。
 
 松下春雄は、同じ帝展の画家である有岡一郎Click!とも、この時期に知り合っている。なぜなら、1926年(大正15)に名古屋の愛知県商品陳列所で開かれた「サンサシオン」第4回展に、下落合800番地に住んでいた有岡一郎も出品しているからだ。また、松下と有岡は1926年(大正15)秋に連れだって、西坂にある徳川邸の西洋館と前庭を描いていると思われることでも、下落合におけるふたりの親密さがうかがえる。
 ちなみに、有岡一郎が住んでいた下落合800番地のアトリエには、少し前に鈴木良三Click!が住んでいたと思われる。鈴木良三は関東大震災の直後、中村彝Click!と岡崎キイを同アトリエへ1週間ほど避難Click!させている。佐伯祐三が『下落合風景』の1作、「墓のある風景」Click!で描いた画面右手の一画だ。また、同番地には洋画家・服部不二彦Click!も暮らしており、隣接する下落合804番地には新築の鶴田吾郎Click!のアトリエが建っていた。さらに、松下春雄が借りていた下落合1385番地の借家から西へ250m、下落合1542番地の第三府営住宅内に住んでいた帝展画家・長野新一Click!とも、松下は顔見知りだった可能性がある。
 松下春雄は、1928年(昭和3)4月に医師の娘である渡辺淑子と恋愛結婚をしている。松下夫妻はほどなく、落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地)にアトリエと邸を新築して転居している。本記事とは別テーマになるけれど、この葛ヶ谷306番地と西落合1丁目306番地が松下春雄の年譜や資料類では同一敷地とされているのだが、実際には1935年(昭和10)前後に行なわれた地番変更で異なる地番になっているのでは?・・・という可能性がある。でも、それは近々ぜひ柳瀬正夢のアトリエとともに書いてみたい、もうひとつ別の、物語・・・。
 「サンサシオン」のメンバーは、おそらく大正期より入れかわり立ちかわり松下春雄を頼って、下落合にやってきていただろう。彼らは下落合で暮らすのではなく、一時的に滞在しながら仲間たちとタブローを制作したり、帝展や光風会展などの絵画展へ作品を応募するために滞在した。おそらく、「サンサシオン」の代表的なメンバーである鬼頭鍋三郎も、大正期からの常連だったにちがいない。あるいは、1923年(大正12)制作の鬼頭鍋三郎『落合風景』Click!が存在することから、鬼頭のほうが松下よりも早くから下落合へきていた可能性もある。ただ、同時期の鬼頭の住所は名古屋東区千種町元古井29番地であり、下落合における拠点はまったく不明だ。
 
 鬼頭鍋三郎は1932年(昭和7)、西落合へアトリエの建設をスタートしている。松下春雄アトリエから、わずか50mのところだ。鬼頭は、豊島区千川町3丁目4286番地の仮住まいを経て、1935年(昭和10)12月31日に新築アトリエへ移ったとき、すでに松下春雄は1933年(昭和8)、わずか30歳で他界していた。鬼頭が西落合に転居した12月31日は、まさに松下春雄の祥月命日であり、松下アトリエではすでに柳瀬正夢Click!が仕事を開始していたのだが、それもまた、別の物語。

◆写真上:第一文化村の北側に隣接する、下落合1385番地あたりの街並みの現状。
◆写真中上:左は、松下春雄が最初に下宿した下落合1445番地の現状。右は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」にみる下落合1445番地の鎌田邸界隈。
◆写真中下:左は、1926年(大正15)制作の「下落合事情明細図」にみる下落合1385番地あたりの様子。小さな家屋がたくさん描かれているが、このどこかに天理教集会所があった。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1385番地で、同地番が大きく拡大しているのがわかる。
◆写真下:左は、1930年(昭和5)に描かれた松下春雄の『母子』。右は、1929年(昭和4)制作の大澤海蔵『初秋』。状況からみて下落合1385番地周辺の情景である可能性がきわめて高く、同作とよく似た風景画を松下春雄も1927年(昭和2)に『庭先』Click!として描いている。