松下春雄Click!は1932年(昭和7)4月末、落合町葛ヶ谷306番地に自宅兼アトリエを建て、阿佐ヶ谷520番地のアトリエから引っ越してきている。これは、名古屋の画会「サンサシオン」の仲間だった鬼頭鍋三郎Click!のアトリエClick!建設と同年であり、両者のアトリエはわずか50mほどしか離れていない。およそ2年ぶりの、落合地域への帰還だった。そして、松下は翌1933年(昭和8)12月31日に急性白血病で急逝Click!するまで、西落合のアトリエで精力的な仕事をこなしている。
 松下春雄が急死した翌年から、柳瀬正夢Click!が松下アトリエを借りて仕事をスタートしている。松下春雄が建てたアトリエは、落合町葛ヶ谷306番地すなわち淀橋区の成立Click!とともに西落合1丁目306番地(現・西落合4丁目)であり、柳瀬正夢の借家は西落合1丁目303番地と記録されていたため、わたしは自宅を303番地に借りた柳瀬は、306番地の松下アトリエのみを借りて使用していたのではないか?・・・と想定していた。
 ところが、西落合の地番変更は複雑で、落合町葛ヶ谷から西落合へと変化するとき旧地番に丁目がふられ、さらに1935年(昭和10)の大規模な地番変更のとき、もう一度大きな見直しが加えられるという、短期間で二重の地番変更が行われていることが判明した。すなわち、西落合1丁目306番地にあった松下春雄の自宅兼アトリエと、同1丁目303番の柳瀬正夢アトリエは、実は同一の建物でありアトリエだったのだ。松下春雄アトリエの地番を時系列で記すと、以下のようになる。
 1932年(昭和7)4月29日・・・落合町葛ヶ谷306番地(松下春雄アトリエの建設当初)
 1932年(昭和7)10月~1933年(昭和8)12月・・・西落合1丁目306番地(松下春雄急逝)
 1934年(昭和9)初春~12月・・・西落合1丁目306番地(柳瀬正夢が借りはじめた時期)
 1935年(昭和10)~1965年(昭和40)・・・西落合1丁目303番地
 1965年(昭和40)~現在・・・西落合4丁目(以下略)
 1929年(昭和4)に作成された「落合町市街地図」を見ると、東西道路の南側が葛ヶ谷306番地であり、北側が同303番地なのだが、306番地の一部が北側へ少しはみ出ているのがわかる。ちょうど、松下春雄邸の門から玄関、母屋東側の一部に相当する区画だ。つまり、このはみ出した306番地の部分を、改めて303番地に修正したのが、淀橋区成立後の1935年(昭和10)に行なわれた、再度の地番変更だった。したがって、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、東西道路の北側は303番地のみとなり、道路の南側では306番地が南へ下がり、かわりに305番地が旧・306番地のエリアまで食いこむ大きな変化が見てとれる。
 
 

 この裏づけが取れたのは、柳瀬正夢研究会の甲斐繁人様が柳瀬の遺品の中に、「西落合1丁目306番地」と「西落合1丁目303番地」の双方に宛てた郵便物を確認してくださったからだ。そしてもうひとつ、松下春雄の長女・松下彩子様(現在は山本和男様と結婚して山本姓)ご夫妻が、地番の変更についてそのように記憶していたからだ。山本(松下)彩子様へ取材することができたのは、ナカムラさんClick!の調査によるものだ。わざわざ名古屋画廊まで、遺族のお住まいを問い合わせていただき、なんと西落合4丁目におられることが判明したのだ。
 そして、ナカムラさんよりご教示していただいた地番をみて、わたしはパソコンの前で愕然としてしまった。まさに、西落合4丁目の住所が旧・西落合1丁目306番地(のち303番地)の敷地にピタリと一致したからだ。松下春雄のご遺族は、西落合のアトリエを動いていない!・・・、偶然に鬼頭鍋三郎のアトリエを発見Click!したときと同様に、全身鳥肌が立ってしまった。
 さっそく、旧・松下春雄アトリエへ取材にうかがって、山本和男・彩子夫妻にお話をうかがう。今回の取材には、ナカムラさんと甲斐様がいっしょだった。玄関を入ると、壁には松下春雄の作品が架けられている。いや、玄関ばかりでなく居間や寝室などにも、油彩や水彩の作品類が数多く見られる。わたしにはお馴染みの、第一文化村Click!の水道タンクを描いた『五月野茨を摘む』Click!の習作や、『木の間より』Click!のバリエーション作品など。西坂・徳川邸のバラ園を描いた『下落合徳川男爵別邸』Click!を、資料から初めてカラー画像で拝見することもできた。
 今年83歳になる山本彩子様の証言によれば、1933年(昭和8)12月31日に父・松下春雄がわずか30歳で死去すると、自宅とアトリエを知り合いから紹介された柳瀬正夢(内田厳→大河内信敬→小林勇→柳瀬と伝わったらしい)に貸して、1934年(昭和9)の早春、遺された淑子夫人は子どもたちを連れ、池袋の渡辺家(夫人の実家)へと移った。そして、1944年(昭和19)に池袋界隈が空襲の脅威Click!にさらされはじめると、夫人と子どもたちは再び西落合の松下邸へともどっている。
 
 
 そのころには、柳瀬正夢はとうに転居しており、邸は空き家になっていたのだろう。そして、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で池袋の家は全焼したが、西落合は次の5月25日の空襲でも被害を受けず、松下邸は敗戦後まで健在だった。この間、3人の子どもを抱えた淑子夫人の苦労は、並たいていのものではなかったと思われる。
 空襲の被害を受けなかったので、アルバムには松下春雄の写真類が豊富に保存されており、わたしは狂喜して撮影させていただいた。竣工直後の松下邸の姿や、「下落合風景」の1作と思われる画面を制作する松下春雄のスナップ、亡くなる直前に出かけた伊勢旅行のスナップ、松下アトリエで仕事をする鬼頭鍋三郎の姿、「サンサシオン」展や帝展での記念撮影など、いずれも美術界にとってはかけがえのない貴重なものばかりだ。夫妻のお話しでは鬼頭鍋三郎も一時期、松下アトリエを借りて制作していたらしい。また、「サンサシオン」のメンバーのひとり大澤海蔵Click!も、近くにアトリエをかまえて制作していたようだ。大澤の「落合風景」作品も、これから新たに判明するかもしれない。しかも、彩子様はお母様の淑子夫人から、アルバムの写真について多くのことを聞かされているのだろう、写真1枚1枚について鮮明な記憶をお持ちだった。
 同じ帝展仲間で「サンサシオン」展にも出品している、下落合800番地(現・下落合4丁目)に住んでいた有岡一郎Click!について、夫妻はご存じではなかった。わたしは、松下と有岡は大正末に連れだって、西坂の赤い屋根をした徳川邸の大きな母屋を、南側の芝庭(バラ園のある西側)から描いていると思うのだが、有岡一郎が西落合のアトリエを訪ねてきたご記憶はないそうだ。ところが、山本邸の壁には鈴木良三Click!の作品が架けられているのを見て、わたしはビックリした。関東大震災Click!のとき、中村彝Click!と岡崎キイを避難させたのが、下落合800番地の鈴木良三アトリエClick!であり、彝の死後に鈴木が水戸へ帰ったあと、アトリエを借り受けているのが有岡一郎だと思われるからだ。鈴木良三は、山本和男様の水戸における知人ということだった。

 
 
 松下春雄アトリエや邸内の様子も、貴重なアルバムに残っていたので、ぜひ次の記事でご紹介したいと思っている。また、新宿歴史博物館には目白文化村の箱根土地本社Click!と不動園を描いた、松下春雄の『下落合文化村入口』Click!が収蔵され、ときどき展示されている。松下作品の所在は、山本様ご夫妻や名古屋画廊の資料などでほとんど明らかであり、「佐伯祐三-下落合の風景-」展Click!につづき、ぜひ「松下春雄-落合の風景-」展Click!の企画はいかがだろうか? 特に、佐伯祐三Click!がほとんど描かなかったテーマの作品が多いだけに、大正末のもうひとつ別の落合地域の“顔”を、松下春雄のやさしい水彩画の色彩とともに甦らせることができると思うのだ。お休みにもかかわらず、たくさんのご教示をいただきありがとうございました。>山本和男様・彩子様

◆写真上:落合町葛ヶ谷306番地→西落合1丁目306番地→同1丁目303番地の松下春雄邸+アトリエの現状。1934年(昭和9)から1939年(昭和14)ごろまでは、柳瀬正夢アトリエだった。
◆写真中上:上左は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる葛ヶ谷306番地。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる松下邸(当時は柳瀬正夢邸)。中左は、居間でお話をうかがった山本彩子様(左)と山本和男様(右)。中右は、竣工直後とみられる松下邸の母屋。南側の庭から東を向いて撮影しており、右手が三間道路。下は、1934年(昭和9)春に撮影されたとみられる、30歳で急逝した松下春雄の遺影を前に呆然とする淑子夫人と子どもたち。(左端の少女が彩子様)
◆写真中下:上左は、松下春雄に抱っこされる彩子様。上右は、松下春雄とは池袋の医院(淑子夫人の実家は医者)で出会い恋愛結婚だった淑子夫人。下左は、松下春雄と彩子様。下右は、1932年(昭和7)に撮影したとみられる竣工直後の松下邸門(アーチ)と母屋の東側。
◆写真下:上は、母屋のテラスから淑子夫人や子供たちが遊ぶ南の庭を撮影したもの。庭の背後に見える道路から撮影したのが、記事冒頭のカラー写真。中左は、庭で遊ぶ松下春雄一家だが右端でこちらを向いているのは鬼頭鍋三郎。中右は、淑子夫人と子どもたちで右端が彩子様。下左は、松下春雄の素描『彩子像』。下右は、松下春雄『木の間より』のバリエーションと思われる作品。