笠原吉太郎の死去後、下落合における美寿(みす)夫人の活躍はめざましい。美寿夫人Click!が、夫と同じ群馬県の出身であることはすでに記したが、16歳のときに母親の星野はまを亡くしており、長女だった彼女は家事全般や家業である養蚕業を手伝う、てんてこ舞いの青春時代を送っている。22歳になった星野美寿は見合いをすることになるが、その相手がフランスのリヨン国立美術大学の図案科を卒業し、帰国したばかりの笠原吉太郎Click!だった。
 当初は麹町に新居をかまえたが、1920年(大正9)には下落合679番地へアトリエ付きの2階建て自邸Click!を建設して引っ越してきている。当時の下落合679番地界隈といえば、目白通り沿いに落合府営住宅Click!は建ち並んでいたものの、箱根土地による目白文化村Click!の開発はスタートしておらず、森や草原、田畑の拡がる武蔵野の風情を色濃く残した一帯だった。笠原邸の北200mほどのところには養鶏場Click!があり、その西隣りには落合小学校の教員をしていた青柳辰代Click!のいる青柳邸がポツンと建っていた。青柳邸の北側はいまだ家が少なく、佐伯祐三Click!はこの時期、近くで仮住まいClick!をしていたものか、いまだアトリエClick!を建設していない。
 笠原邸の東側に口を開けた、西ノ谷(不動谷Click!)と呼ばれた谷戸には、諏訪谷Click!と同様に近くの農家が野菜を洗う“洗い場”Click!の池が残っており、対岸の丘上は一面の草原で、丘に面した青柳邸にちなんで青柳ヶ原と呼ばれていた。谷戸や丘には家屋がほとんどなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災の際、近くの住民たちは青柳ヶ原へと避難することになる。丘上に聖母病院のフィンデル本館Click!が建設されるのは、1931年(昭和6)になってからのことだ。
 また、笠原邸の南側は道沿いにポツポツと住宅が建ちはじめていたが、西坂の下り口には徳川別邸Click!である大きな西洋館Click!の赤い屋根が、木立ちを透かして見えたかもしれない。笠原夫妻は、転居してきてから毎年のように、徳川邸で公開されていたボタン園「静観園」Click!へ出かけていたにちがいない。笠原邸の西側には、道をはさんで星野邸や小川邸Click!は建設されていただろうか? 少なくとも、1925年(大正14)現在の「出前地図」Click!には両邸が見えている。また、落合小学校へと向かう尾根沿いの斜面に、ポツンと和館をかまえていたのは会津八一Click!だった。

 
 1923年(大正12)を境に、笠原吉太郎は政府(おもに宮内省)の仕事をいっさい断り、洋画家としてデビューすることになる。当然、知名度がほとんどないので生活は一気に苦しくなった。笠原の二男・笠原豊が書いた、「笠原美寿の生涯」という資料が残っている。1994年(平成6)に出版された星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)より、孫引きになるが引用してみよう。
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 この頃から美寿の苦労が始まったのである。自由気侭に生きる芸術家と八人の子供を抱え、美寿は教育と生活の為、骨身を削る毎日となった。子供達にみじめな思いをさせたくないという親心と、プライドから生活を洋式に切替え、子供達には、自分でミシンを踏んで洋服を着せた。食べる為に、昔、覚えた裁縫の腕を活かして、着物の仕立てで夜なべをすることも多かった。
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 この間、8人の子どものうち、娘ふたりを病気で失うという悲劇にもみまわれている。
 1954年(昭和29)に笠原吉太郎が78歳で死去すると、美寿夫人は老後の仕事に新しい手織機の開発をはじめることになる。夫が野外写生用に持ち歩いていた、折りたたみ式の小型イーゼルのかたちがヒントになったという。再び、同書に引用された「笠原の手織機と基礎織」という、同機を普及させるために制作されたとみられる、パンフレットの文章から孫引きしてみよう。
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 私はこれからの老後を何をしておくろうかと日夜迷った末、やっぱり手織が老人に最もよい仕事であると確信しました。しかしその時は以前に使った織機は駄目になりましたので、よし現代の家屋に向くような小型であって何でも織こなせるような織機を作ってみようと考えました。それは画室に架けられた夫の野外写生に使った三脚が目に止まり、その三脚のヒントを得てそれをA字型にして織るに必要な整経のクイを後方の斜面にうえ、また横糸を巻く糸車を取付けてきわめて重宝な立体手織機の試作が私の手で作り上げられました。
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 それまでの手織機は大きく、手軽に住まいの室内へ持ちこめるサイズではなかった。それを試行錯誤のすえ、コンパクト化することによって「笠原手織機」を完成させている。そして「笠原手織会」が誕生し、同手織機は会の拡がりとともに関東一円に普及することになった。

 美寿夫人は、なにか道具や調度を手に入れても、それをそのまま使うことが少なかったらしい。一度、それを分解して仕組みや構造を知り、改良を加えてより使いやすくするのが常だったという。洋食好きな夫のために、彼女が発明した家庭でもフランスパンが焼けるオーブンは、新案特許を取得している。このオーブンは群馬県の実家へも導入され、彼女の故郷では初めてフランスパンが焼かれたようだ。また、マフラーやネクタイ、羽織のひも、ハンドバッグなどが自在にすばやく編めてしまう、編み機「あやとり」も発明して特許を取っている。
 雑誌の取材なども受けるようになり、1955年(昭和30)3月13日の朝日新聞には、美寿夫人の投書が掲載された。それは、まさに現代を先取りするかのような「老人会館」の設置を求める、企画書のような内容だった。この投書の波紋は全国におよび、各地で老人会館構想を具現化するための「草の実会」が結成され、美寿夫人はさらに多忙となっていった。地元の下落合では、美寿夫人を中心に「落合木の実婦人会」が結成された。老人会館構想を、同書から引用してみよう。
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 この会は隣人愛を信条とし、家庭の仕事を卒えた婦人が、余生を社会的な良い仕事に捧げようという目的をもっていて、将来は老人会館を建設したいという大きな夢がかくされていた。この老人会館の構想は、まず会館内の一階にホールを作り、若い人たちの会にも使って貰う。老人のための保険相談、研究部、娯楽室、地方から出てきた老人を泊める気持ちよい宿舎、仕事斡旋部、ここでは留守番や、子どもを預けたい家庭から依頼されれば電話一本で派遣できるようにする。手芸その他いろいろな技術を教え、仕事の世話をする技術指導部、楽しみながら働ける室、その他老人が生活するのに快適な設備を十分に加味したものにするというものである。
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 その後、全国各地の自治体が設置することになる、老人福祉会館のベースとなるアイデアが、すでに1955年(昭和30)に笠原美寿の頭の中にはできあがっていた。彼女は新宿区役所へ区長を訪ね、区内への「老人会館」建設を訴えつづけた。
 「笠原手織会」や「落合木の実婦人会」、「草の実会」などの活動に忙殺されていたある日、笠原美寿は立川市にある「笠原手織会」の会合へ向かう途中、新宿駅南口の交差点で転倒し、腰と足の骨を複雑骨折してしまう。それからは、足腰が不自由となって活動ができなくなり、1972年(昭和47)10月27日に死去している。享年90歳だった。
 
 現在、落合地域には「老人会館」あるいは同様の施設が4ヶ所あるが、はたして笠原美寿はこれらの施設で、手織りや編み物を教えることができたのだろうか? 新宿区では、「老人会館」や「ことぶき館」という呼称を最近あまりつかわず、「地域交流館」という名称に改めているようだ。

◆写真上:1920年(大正9)に建てられた、下落合679番地の笠原邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に制作された二科樗牛賞受賞の曾宮一念『冬日』Click!(部分)。諏訪谷から青柳ヶ原ごしに、笠原邸の2階家と南隣りの福田邸が画面右隅にとらえられている。下左は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」にみる笠原邸。すでに姻戚の星野邸が、あちこちに見えている。下右は、群馬県沼田の実家で撮影された笠原美寿。
◆写真中下:1969年(昭和44)に、世田谷区経堂の「すずらん会館」で撮影された笠原美寿。左手にあるのが、「笠原手織会」を通じて広く普及したコンパクトな笠原手織機。
◆写真下:左は、「下落合地域交流館」(通称:ことぶき館/旧・下落合老人会館)。右は、1994年(平成6)ごろに撮影された下落合老人会館における社交ダンス講習会の様子。