中村彝アトリエの復元Click!と同期して、新宿歴史博物館Click!では今年の3月17日(日)から5月12日(日)まで、地元では初の個展となる「中村彝―下落合の画室(アトリエ)―」展の開催が予定されている。同展では、中村彝の展覧会ではおなじみの作品が陳列されるのと同時に、中にはめったに実物を観ることができない作品も出展が予定されている。
 そのうちのひとつが、1919年(大正8)の暮れの降雪日(降雪の様子や光線の具合から、おそらく12月17~18日の午前中)に制作されたとみられる、当時は中村彝アトリエClick!の北側30~40mほどの位置に建っていた、一吉元結工場Click!の建屋をモチーフに描いたパステル作品『雪の朝』Click!だ。同作は、ほどなく成蹊学園の中村春二Click!に贈られ、同学園が発行していた機関誌『母と子』(第9巻第2号/編集長・厚見純明)の表紙にも採用されている。
 この時期の一吉元結工場は、彝アトリエの西側にある現在の接道(制作当時はまだ正式に道路として敷設されてはいなかった)を目白通りへ向けて北上すると、道の右手(東側)にあたる位置に建っており、路地をはさんで左手(西側)の区画には一面の広い干し場と、その北側には干し場に沿って東西に細長い職人長屋が建設されていた。中村彝は、その干し場の中に入りこんだり、あるいは近くの路地から落合福音教会(彝の時代は目白福音教会)の宣教師館(メーヤー館)Click!を、都合4点のタブローに仕上げている。すなわち、『目白風景』Click!(1919年)と『風景』(1919~1920年)、『目白の冬』Click!(1920年)、『下落合風景』(仮題:1919年ごろ)だ。
 この中で、最後の『下落合風景(仮題)』は日動美術館が収蔵していたものでタイトルさえ付いておらず、おそらく今回が史上初の出展になると思われる。わたしとしては、この作品にはぜひ中村彝の『下落合風景』ないしは『宣教師館(メーヤー館)』という作品名を付けていただきたいのだが、はたして彝はどのようなタイトルを希望していたのだろうか? ちょっと余談だけれど、日動画廊のご厚意で一昨年に拝見した、佐伯祐三Click!が渡仏直前に描いた『下落合風景』Click!に、昨年、ついに買い手がついたらしい。購入したのは東京の方なので、もし佐伯展の企画があれば貸し出しの許可をいただけると思われる。『下落合風景』シリーズClick!の中でも、佐伯のサイン入りで特に出来がいい本作は、ぜひ佐伯展でもう一度、他作品と並べて観賞してみたいものだ。
 また、もうひとつのテーマとして『目白の冬』に描かれた建物規定と制作年の訂正を、ぜひ地元で展示されるのを機会に実施してほしいと思うのだが、それには作品貸し出しの際の規定があって、簡単には修正できない可能性があるようだ。これは、茨城県近代美術館が『目白の冬』に描かれた建物を「元結工場」だと誤って規定(特に年譜表現)してしまい、制作年を中村彝『芸術の無限感』Click!に所収された書簡をもとに、元結工場の記述が登場する1919年(大正8)12月に繰り上げてしまっている課題だ。それまでは、同作は1920年(大正9)の制作とされていたはずであり、彝の死後間もない『芸術の無限感』でもそのように規定されている。しかし、同じ茨城県近代美術館の出版物には、従来どおりに1920年制作と規定する年譜も存在しているのだが・・・。
 
 
 下落合に長くお住まいの住民なら、あるいは彝アトリエの周辺にお住いのみなさんなら、すぐにも気づくはずだが、『目白の冬』に描かれているのは他のタブローと同様に目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)であり、一吉元結工場ではない。元結工場の建物は、屋根上に換気用の小屋根がもうひとつ乗る、『雪の朝』に描かれた当時の町工場然とした仕様の建物であり、彝が死去してから数年後、おそらく大正末から昭和初期に、彝アトリエの北西側(旧・干し場の南側)に職人長屋ともども移築されて建っていた。それが幸いして、1945年(昭和20)5月25日の空襲にも焼け残り、戦後もアトリエ周辺にお住まいの方々の記憶にも強く残る建物だ。
 また、中村彝が12号キャンバスに描いた一吉元結工場作品が存在するのも、『芸術の無限感』の書簡から明らかなので、わたしは相変わらずタブローをはじめ、その下描きや習作も含めてあちこち探しつづけている。ひょっとすると、戦争で焼けてしまったのかもしれないが、写真に撮られた画像がどこかに残っていないか、ずっと気になっているのだ。
 ちなみに、わたしがいま“指名手配”をしている画面は3点あり、彝の12号「一吉元結工場」作品(そのスケッチや習作の画面を含む)に、曾宮一念Click!が戦後に目にしている佐伯祐三の40号(!)「曾宮さんの前」Click!、そして下落合の西端を描いた佐伯祐三『下落合風景』の1作「洗濯物のある風景」Click!でイーゼルを据えた佐伯の背後、野方町上高田358番地界隈に建っていた、『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフ探しにからむ桜ヶ池・不動堂の1954年(昭和29)以前の写真だ。同年に、大正期からつづく古い堂がリニューアルされていることが判明した。
 特に、最後の桜ヶ池・不動堂が『堂(絵馬堂)』に描かれた建物と同一であった場合、美術史上においては非常に重要な意味をもってくることになる。それは、上高田92番地Click!に建っていたとされる「吉薗周蔵」の自宅とケシ畑、そしていまも上高田に住む地付きの人々の記憶に残る、同じ地番の区画で先日その実在をつきとめた、小池鶴吉が開業した居酒屋「つる店」(=つる屋)に、佐伯の描画ポイントが限りなく接近することになるからだ。「つる店」(つる屋)は、小池とめ(小池鶴吉の妻ないしは娘)の時代には居酒屋と旅館とを兼ねた営業をしていたと思われる。
 
 
 中村彝アトリエの復元工事も、スムーズに進捗している。工事中、建築学に関連したML(メーリングリスト)で面白い情報をいただいた。彝アトリエの復元には、従来の古い部材をできるだけ活用するコンセプトが導入され、柱や壁板はもちろん屋根瓦まで従来の鈴木誠アトリエClick!のもので使える部材がそのまま流用される予定だと聞いていた。でも、屋根瓦は戦後になって鈴木家が葺きかえたものだ。MLでは彝アトリエの復元に関連する情報として、戦前の古いフランス製で同色系の瓦のストックが見つかったので、それを用いて屋根を復元する・・・というものだった。
 中村彝ファンならご存じのように、1916年(大正5)に彝がアトリエを建てたとき、用いられた赤い瓦はベルギー製のものであり、ほぼ同時期のフランスで造られた同色系の屋根瓦が入手できたとすれば、より初期の屋根に近いものが復元できると思われるので、このニュースが事実だとするとたいへんうれしい。大正期に所沢の陸軍飛行隊が、東京市街地へ向かうときに目印にしたという彝アトリエの赤い屋根は、よりリアリティの高い復元ができそうなのだ。
 今度の「中村彝」展には、残念ながら『エロシェンコ氏の像』Click!(1920年)は出品されない。このところ、東京近美から外部展への貸し出しがつづき、作品が少し「疲れ」ているようなので「休ませる」必要があるようだ。確かに、新宿区では一昨年の「新宿中村屋に咲いた文化芸術」展でも同作が展示されていた。そのかわり、彝アトリエで『エロシェンコ氏の像』と同時に制作された鶴田吾郎Click!の『盲目のエロシェンコ』Click!は、新宿中村屋Click!から出品される予定になっている。

 
 
 さらに、完成した自身のアトリエを描いた『落合のアトリエ』Click!(1916年)、アトリエの庭を描いた『庭の雪』Click!(1919年)、『目白の冬』と同様にメーヤー館を東側から描いた『風景』Click!など、大正期の下落合風景作品が同展に出品される。もちろん、彝の代表作も多く展示される予定だ。ひとつ残念なのは、同じ新宿中村屋の娘でも長く彝アトリエの壁面に架けられていたとの証言があり、また彝アトリエをときどき訪問していたとみられる相馬千香Click!のプロフィール、1912年(明治45)制作の『帽子を被る少女』Click!がないことだ。わたしは一度、姉の俊子Click!とはちがって頬が“ぶんどう色”Click!をしていない、可憐な千香の肖像画をじかに観てみたい。もうひとつ、できれば青地に白い水玉模様の大正カルピスClick!が展示できると、もう言うことはなにもないのだが。w

◆写真上:2013年3月17日(日)~5月12日(日)で開催される「中村彝―下落合の画室―」展。
◆写真中上:上左は、1916年(大正5)にアトリエが完成した直後に描かれた中村彝『落合のアトリエ』。上右は、1919年(大正8)の暮れに制作されたと思われる『雪の朝』。下は、戦災にも焼け残り1947年(昭和22)の空中写真にとらえられたメーヤー館(左)と一吉元結工場(右)。
◆写真中下:いずれも同展へ出品される作品で、上は相馬俊子を描いた『少女』(1914年/左)と田中館愛橘Click!を描いた『田中館博士の肖像』Click!(1916年/右)。下は、いずれも目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)を描いた『風景』(1919~20年/左)と『目白の冬』(1920年/右)。
◆写真下:竣工が間近な、1916年(大正5)現在の復元による中村彝アトリエ。工事の方によれば建物は内装まで含めておおよそ完成しており、あとは周囲の造園工事が残るだけとなっている。さて、屋根上に載るフィニアル(飾り立物)がどのようなものか、ワクワクしながら待っている。