1939年(昭和14)に出版された、下落合2丁目を中心とする『同志会誌』Click!(下落合同志会・編)を読んでいると、結成当初の同志会Click!は地域の互助と親睦とを目的とする、純粋な自治組織としてスタートしており、大正期から昭和初期を通じて地域の互助や福利厚生に力を入れていたものが、日中戦争が本格化するころから自治組織というよりも、政府いいなりの出先機関ないしは末端組織としての役割りが濃厚になっていく。
 ナチス・ドイツは、その政策や思想を末端にまで浸透させるため、各地域へ党の出先機関であるさまざまな「地区委員会」を新設し、ファシズム的な政治的ないしは社会的な基盤を新たに形成しなければならなかったが、日本では各地の自治団体をそのまま「利用」するだけで、組織化がきわめて「円滑」かつ「迅速」に進んだことがわかる。昭和10年代になると、各地の自治団体は次々に解散して町会へと併合されるが、国民精神総動員体制さらには国家総動員体制のもと自由な言論や表現、行動が急速に圧殺され、防空・防諜の防護団や連帯責任と相互監視の「隣組」Click!の形成が容易だったのも、このような自治団体が率先して行政当局へ組みこまれていったことに起因している。今日のように、区や市と地元の町会とが地域への施策をめぐり、ときに対立するような図式は、当時はありえない姿だった。自治団体を名のりながら、徐々に軍国主義体制の出先機関へとなり果てていく同志会を見るのはつらい。
 1931年(昭和6)の「満州事変」以降、町内へ召集令状(赤紙Click!)がとどいて入営する住民が徐々に増えていくが、盧溝橋事件が起きた1937年(昭和12)を境に日中戦争が本格化すると、同志会による入営歓送会は急増する。「満州事変」ののち、初めて下落合住民の戦死者が記録されるのは、1935年(昭和10)2月19日のことだ。このときは、戦死者を小滝橋まで出迎えている。
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 二月十九日 名誉の戦死者故高橋三大二氏が無言の凱旋をされたので役員外会員多数小瀧橋まで迎へた。/二月二十六日 故高橋三大二氏の区民葬が第一小学校に於て執行せられ本会からも会長外多数参列した。
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 この記述を皮切りに、町内の戦死・戦傷者は激増していくことになる。同時に、同志会ではその出迎え行事が頻繁になり、会長以下の現役役員たちがそのつど全員出席することが困難になったものだろうか、各地区の幹事や元役員たちが戦死者の「無言凱旋」や、葬儀出席を代行するようなケースも見られるようになる。1937年(昭和12)度の同志会記録から、少し引用してみよう。
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 十一月十九日 宇田川三郎君の遺骨無言凱旋をなし役員及会員多数出迎ふ。/十二月三日 宇田川四郎君無言の凱旋せられたので役員多数出迎へた。/十二月六日 九一六地久会員(ママ)加藤利一君の無言凱旋を役員多数出迎へた。戦傷者、西田定次郎氏を同志会役員、及国防婦人会員は夜中東京駅へ迎へた。/十二月十一日 第一小学校に於て故藤井少尉他三上等兵の聯合区民葬挙行せらる、本会より会長以下役員及び会員多数参列す。/一月十日 潗日出夫氏の無言凱旋を迎ふ同志会より会長外十六名参列す。/一月二十六日 故歩兵伍長田村新樹氏の無言の凱旋を迎ふ。/二月一日 小泉寿太郎氏令息無言の凱旋を役員多数出迎ふ。/二月二十七日 名誉の戦死者故渡邊二郎氏無言凱旋を出迎ふ。/三月二十二日 下落合四丁目無言凱旋勇士太田倉吉氏 及羽場精一氏の英霊を出迎ふ。/三月二十六日 野萩会長、木村、和田両副会長は出征軍人家族二十七軒を見舞ふ。
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 下落合2丁目の界隈だけで、毎月、数名の戦死者を迎える凄まじい状況だが、その事務的で淡々とした記述のせいだろうか、よけいに無惨さや残酷さ、虚しさが伝わってくるようだ。もちろん、太平洋戦争の開始とともに、こんな死傷者の数では済まなくなっていくのだが・・・。たとえば、同年に下落合2丁目界隈から出征・応召した住民数(もちろん若い男子)は実に37名、翌1938年(昭和13)は31名にものぼっている。街から、若い男たちがどんどん消えていく時代だった。


 さて、政治的な祝いごとや中国戦線で日本軍の勝利が伝えられると、「旗行列」や「提灯行列」が下落合の自治団体によって都度企画された。旧・下落合2丁目界隈で、初めて同志会による旗行列および提灯行列が行なわれたのは、1932年(昭和7)10月1日のことと思われる。このときは「市郡併合記念会」、つまり豊多摩郡が廃止され新たに淀橋区が成立して、落合町が東京市内へ編入された記念の祝賀だった。ちなみに、この祝賀行列が計画されたのは同年9月10日の評議員会であり、このとき落合町議会も淀橋区議会Click!へと移行するために解散している。
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 一、旗行列
 午後一時菊池邸裏空地に青少年集合し、落合長崎郵便局前、氷川神社、四十五号線、浅川邸を経て最初の集合地に帰つた。菓子を配與して散会
 二、提灯行列
 午後六時前、落合長崎郵便局前に集合一丁目相馬邸から氷川神社に至り、更に徳川邸、福室邸、落合長崎郵便局、星邸、高橋五山邸を経て解散、尚当夜氷川神社境内に於て野萩健吉、石原彌五郎、川村東陽前町会議員へ感謝状を贈呈した。/野萩町会議員より百円也木村土木委員より弐拾円也を町会基本金に寄贈があつた
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 この中で、旗行列の「菊地邸」とあるのは、下落合2丁目476番地のオリエンタル写真工業Click!社長兼技師長だった菊池学治(東陽)邸のことだろう。また、「四十五号線」とあるのは補助45号線=聖母坂のことで、「浅川邸」は佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!にある、諏訪谷に面した下落合2丁目604番地の浅川秀次邸のことだ。
 また、提灯行列の「徳川邸」は、目白町の徳川邸ではなく西坂の徳川義恕邸Click!であり、福室邸は徳川邸から八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)をまっすぐ北上した、目白通り沿いにある福室醤油製造所の大きな工場兼自宅のことだろう。そして、提灯行列は再び下落合2丁目507番地の落合長崎郵便局へ立ち寄ったあと、七曲坂Click!筋を南へ入り満谷国四郎アトリエClick!の東隣りである「星邸」、すなわち下落合2丁目753番地の三井生命の支店長だった星孝治邸前を通過している。そして、最終的には「高橋五山」邸、つまり下落合2丁目735番地の高橋五三郎邸まで歩いて、おそらくその先の諏訪谷Click!あたりで解散していると思われる。
 
 時代をへるにしたがって、だんだん戦時色が強まっていく記録の中で、面白い記載も見かける。下落合に増えつづける住宅や、整備が進む道路などを意識してのことだろう、1931年(昭和6)にフランスのメートル法を浸透させる運動が町内で起きている。同志会では同年2月3日に、「メートル法宣伝パンフレツト」400冊を会費で購入して、町内の希望者に配布している。最新の建築学を修めた建築家がメートル法で設計図をつくると、肝心の施工をする大工がまったく理解できないというエピソードは、こちらでも何度かご紹介Click!している。
 同志会でも、・・・「落四小の50m西ぐらいにある森に、タヌキが出たてえ話だよ」、「50mてえのは、いったい何間ぐらいだい?」、「そうさな、26、7間ぐらいかね」、「んじゃ、権兵衛山か七曲坂あたりかい」、「いや、もうちっと先さね、60mぐらいかな」、「んじゃ、60mてえのは何間だい?」・・・というような不便さを解消するために導入したものだろう。
 ほかの自治団体から、同志会への加入を希望する家庭もあったようだ。1931年(昭和6)6月には、下落合1丁目の「一睦会」から21名(21戸)の会員がまとめて脱会し、同志会への加入を希望している。おそらく、一睦会の中でなにかが気に入らなかったか、なんらかの紛争があったのだろう、21戸が示し合わせての集団脱会だったと思われるのだが、同志会では一睦会との関係から対応に苦慮している様子が記述から伝わってくる。結局、「和協親睦の趣旨に背く」ことがないようにと念押しして、21名の加入を認めている。
 同志会は、「〇〇デー」と名づけた催事も行なっている。「はへ取デー」は、町民があちこちでハエを捕る日で、ハエ捕り紙やハエたたきで殺したハエを交番に持ちより、同志会衛生係と警官とで何匹捕れたかを勘定する「蠅調べ」が行なわれた。「視力保存デー」は、近眼防止のキャンペーンで眼科医による目の無料検診が落合第二小学校Click!で実施されている。また、1934年(昭和9)の夏から、小学校の校庭でラジオ体操がはじまっているようだ。同年7月21日の項目に、「第一及第四小学校に於て毎朝ラヂオ体操の会を実施してゐることを掲示」と記録されている。
 
 だが、同志会などの自治団体が催す行事は、「非常時」となるにつれ強制の傾向がきわめて濃くなっていく。これらの行事に意識的に参加したくない住民はもちろん、消極的な家庭や人物たちは「アカ」や「危険思想」、「主義者」を疑われ、やがては「非国民」呼ばわりをされるようになっていく。三岸節子Click!は、服装が派手だとモンペ姿の国防婦人会に駅頭で捕まり、彼女たちから「非国民」と公衆の面前でののしられている。三岸節子は戦後、さっそく怒りを爆発させた文章を発表しているが、おそらく「非国民」呼ばわりした女たちを探しだし、日本を破滅の淵へと追いこんだ「亡国思想」の走狗である彼女たちを、その加担責任とともにきっちり追及したかっただろう。わたしの親父は、日本橋の交番勤務だった巡査Click!を実際に探しだして謝罪させている。

◆写真上:洗い場防火貯水池があった、諏訪谷あたりの現状。(工事中の2008年撮影)
◆写真中上:同志会による、1932年(昭和7)現在の「旗行列」(上)と「提灯行列」(下)のルート。
◆写真中下:1934年(昭和9)7月の夏休みより、同志会も協賛して校庭で「ラヂオ体操」が行なわれていた落合第一小学校(左)と落合第四小学校(右)の校門。
◆写真下:左は、昭和に入り急速に普及した茶の間のラジオ。右は、下落合の空襲被害者に出された衣料品(衣料切符)の優先配給のための罹災証明書。(ともに新宿歴史博物館蔵)