落合地域には、洋画家ばかりでなく日本画家もたくさん住んでいたが、これまでほとんど紹介してきていない。曾宮一念アトリエClick!の北側に住んでいた、おそらく岡倉天心門下で洋画には反感を抱いていたらしい、また落合町の議員あるいは町会の役員として随所に顔を見せる、下落合622番地の川村東陽Click!ぐらいしか憶えがない。川村東陽は、曾宮一念へのいやがらせエピソードとして紹介しているだけだが、きょうは下落合に住んだ日本画家の仕事をご紹介したい。関東大震災Click!ののち、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上の下落合1980番地に画室をかまえて住んでいた楽只園主人・岡不崩(岡正壽)だ。
 岡不崩については、永井荷風Click!の美術教師だったことや、万葉集に登場する植物について分析・考察した、かなりマニアックな植物学的なアプローチからの図画集を残していることで広く知られているけれど、今和次郎Click!と同時期に考現学的な仕事もしていることはあまり知られていない。関東大震災のあと、岡不崩は東京の街中へ出かけていって、おもに繁華街の商店が復興する様子を克明に記録している。大震災の直後、街中へスケッチしに飛び出した洋画家たち、河野通勢Click!や佐伯祐三Click!、竹久夢二Click!たちのことは、これまで何度かご紹介Click!している。岡不崩は、震災から数ヶ月後の1923年(大正12)暮れより、スケッチブックを手に被災した東京市内の繁華街へと出かけている。
 岡不崩がスケッチして歩いたのは、東京のおもな繁華街が中心だった。1924年(大正14)1月の神田須田町を皮切りに、銀座、新橋、日比谷、築地万年橋、呉服橋、茅場町と歩いている。そして、同年3月に『帝都復興一覧』乾之巻・坤之巻の2巻にまとめた。この記録が特異なのは、単に復興をつづける街並みを写生したからではない。もちろん、そのような写生も同書には挿画としてわずかに含まれているのだが、岡の目的は作画ではなく“作図”なのだ。すなわち、各町のメインストリート沿いに展開していた商店街が、震災後どれくらいまで再建されているのかを、すべての敷地において1軒1軒採取し、それを細かく業種業態別に色分けして、詳細な商店街マップに仕上げているのだ。
 また、上記の繁華街のみならず浅草や花川戸、今戸、吉原、築地、月島、深川、洲崎などを歩いて、復興当初にいち早く商店や企業、各種施設、役所などが掲げていた看板や幟、サインディスプレイ、店先に印された屋号、貼り紙などを、事細かに採集してまわっている。さらに、震災後に発行された切手や収入印紙、交通切符、乗車券、百貨店で発行された買い物シールなどの現物まで貼付されている。まさに、大震災の惨禍から立ち直ろうとする東京市民の息吹が、同書を通じてあちこちから感じとれる内容となっている。

 

 震災後の当時、このような仕事をほかでは見たことがない。フカンから眺めた街の通りには、東京市電の線路までが描かれ、その上を走る市電の屋根やパンタグラフ、自動車の屋根までがところどころに描かれている。そして、通りの両側に並ぶ商店街には、おそらく震災から5ヶ月なのでバラック建築がほとんどなのだろう、1924年(大正13)1月現在に改めて営業を再開している商店や会社、役所などが、店名や社名、ビル名、施設名などとともにすべて屋号も含めて採取されている。驚くのは、震災による大火災で全滅した日本橋や京橋、銀座の商店街が、震災からわずか4~5ヶ月なのにもかかわらず多くの商店やデパート、企業などが、にわか造りの突貫工事にせよ再建され、営業を再開していることだ。ところどころに、残骸や灰の山、レンガの山、焼土の山などを集積した空き地が描きこまれているけれど、驚くほどの復興スピードだったことがわかる。
 たとえば日本橋を見てみると、日本橋三越Click!は営業を再開しているが、北隣りの三井銀行は焼失した空き地のままだったのがわかる。でも、通り沿いに向き合っていたフルーツ・洋食の千疋屋Click!は2軒とも開店しており、洋品の明月堂や岡野楽器、パンの清月堂、漬け物の小田原屋、海苔の山本山や山形屋、寿司天ぷらの大増、鰹節の加藤、漆器・刃物の木屋、そして日本橋魚河岸など、軒並み復興して営業をリスタートさせていたのがわかる。日本橋白木屋や丸善本店も、急ごしらえの建物で開店していた様子がわかる。京橋界隈は、瓦礫の山や空き地が目立ち復興が少し遅れているようだが、銀座通りは松屋と銀座三越(マーケット形式で服部時計店の焼け跡で営業)が早々に開店し、店々も次々と元の場所で再開しているのが記録されている。岡不崩は、ところどころに小さな赤文字で注釈を加えながら、急速に復興する東京の繁華街を記録し、また興がそそられた面白い風景に出あうとスケッチしていった。



 たとえば、震災から半年たった1924年(大正13)3月28日に、尾張町2丁目21番地にあった復興マーケットのひとつである「銀座マーケット」から出火し、類焼で隣りの森永製菓店や木本シャツ店が全焼していることが、赤文字の注釈で書き加えられている。岡不崩は、この仕事をどれほどの期間つづけていたのかは不明だが、いま国立国会図書館に残されている『帝都復興一覧』は2巻のみだ。
 1923年(大正12)10月に、今和次郎は銀座へバラック装飾社を設立している。岡不崩が、銀座を含めた繁華街で復興調査とスケッチをはじめたのは、その少しあとということになる。また、今和次郎自身も、震災の焼け跡を次々と歩きまわっては、バラック建築を写生してまわっていた。当時の今和次郎は、明確に「考現学」というような新しい概念を打ち出してはいなかったけれど、このふたり、どこかの街角で交叉していやしないだろうか。1923年(大正12)の暮れから翌年にかけ、ふたりの軌跡が焼け野原となり復興への槌音があちこちで響く、東京の繁華街でピタリと重なる時間がある。
 


 あるいは、のちに今和次郎は楽只園主人(岡吉壽)の仕事をどこかで知り、下落合1980番地の楽只園すなわち岡不崩の画室を訪ねていやしないだろうか? 岡不崩は、『帝都復興一覧』を描いたまま和綴じ本に仕上げ、出版することなく手もとに置いて保存していた。しかし、その記録の貴重性や評判は各方面へ伝わっていただろう。今和次郎に限らず、資料に活用したり見せてほしいという人物は、少なからずいたと思われるのだ。
 岡不崩(吉壽)の画室“楽只園”は、蘭塔坂(二ノ坂)の途中から分岐する階段を上った、丘上の右手(東側)に建っていた。いまや、二ノ坂から山手通りへと抜けるバイパス道路が敷設され、あたりはクルマの騒音でうるさくなってしまったが、岡が画室を建設した大正末ごろは家もまばらで、静かな邸の南側からは新宿の街が一望できただろう。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では岡吉壽が「岡吉元」と誤記載され、1938年(昭和13)制作の「火保図」でも姓と名前がくっつけられて苗字「岡吉」と誤採取されている。以前にご紹介した川村東陽も、「下落合事情明細図」では「川村東郷」と誤記載されていたが、日本画家の表札は達筆すぎて、調査員には判読がむずかしかったものだろうか。
 
 
 余談だけれど、天心門下で狩野芳崖の弟子だった岡不崩の画室の、目と鼻の先に洋画界の“ご意見番”的な存在だった金山平三Click!が住んでいたのは面白い。曾宮一念と川村東陽がそうであったように、ふたりは「犬猿の仲」だったものだろうか? おそらく、金山平三や満谷国四郎Click!たちが洋画家を中心とした「アビラ村(芸術村)」Click!を構想していたとき、岡不崩は苦々しく見ていたようにも想像してしまうのだが、案外、「変人」の金山じいちゃんClick!とは気が合って、なんらかの往来があったものだろうか。金山平三が岡邸に、アサガオかなにかを描きに出かけてたりすると面白いのだが……。

◆写真上:蘭塔坂(二ノ坂)から分岐して、岡不崩の画室(右手)へと向かう階段坂。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)9月5日に陸軍飛行第五大隊の撮影による全滅した京橋から銀座の街並み。中は、国会図書館に保存されている『帝都復興一覧』の乾之巻(左)と坤之巻(右)。下は、同書の巻頭に書かれた店舗や施設の凡例の一部。
◆写真中中:上は、再開した日本橋三越といまだ空き地のままの北隣りの三井銀行。中は、まだ瓦礫の山や空き地が目立つ京橋寄りの日本橋エリア。丸善本店は開店しているが、本来の位置ではなく北隣りの敷地で営業を再開している。下は、尾張町の交差点(銀座4丁目)界隈。服部時計店の跡地で三越がマーケットを開き、カフェライオンや山野楽器、パンの木村屋、宝飾の三木本などがすでに営業を再開していたのがわかる。
◆写真中下:上左は、1924年(大正14)元旦に描かれた日比谷公園のおでん屋。上右は、築地新魚河岸の自動車屋。中・下は、さまざまな看板や幟、貼り紙類のスケッチ。廃墟となった浅草十二階(凌雲閣)の屋内で、植木市場の開かれていたことがわかる。
◆写真下:上左は、1924年(大正13)元旦に日比谷公園でスケッチされた看板と幟。上右は、1929年(昭和4)1月に撮影された岡吉壽(不崩)。下は、「下落合事情明細図」(1926年)にみる岡邸(左)と「火保図」にみる岡邸(右)で、いずれも名前を誤記している。