中村彝Click!が描いていたアトリエ裏の「もとゆひ工場」(一吉元結工場)について、もう少しあれこれこだわって書いてみたい。きょうの記事は長いので、興味のない方は遠慮なくどんどん読み飛ばしていただきたい。彝は、同工場を小品『雪の朝』Click!にとらえて描いているが、この作品が広く認知されるようになったのは、同作品が彝から中村春二Click!に贈られ、成蹊学園の教育機関誌『母と子』(成蹊学園出版部)の表紙に採用され出版された、1923年(大正12)2月5日(実質的には1月発行だろうか)以降のことだろう。
 『雪の朝』Click!はいつ描かれたものか、新宿歴史博物館Click!で行われた「中村彝―下落合の画室-」展では「制作年不詳」とされているが、同展の図録ではなぜか「1916年」(大正5)ごろ、つまり彝が下落合464番地へアトリエを建てたころに制作されたことになっている。もし、この記載が誤記ではないとすれば、その根拠はなんだろうか?
 タテ長の小さな画面に周囲の風景や、竣工したてのアトリエを描いた作品などには、確かに下落合へ引っ越してきてから間もない作品が多い。でも、1919年(大正8)になって庭先などを描いた作品にも、同様の小品は見られる。わたしは彝がアトリエ周辺、特に南側の庭ではなく、北側の目白福音教会や元結工場の干し場あたりを描いていた、アトリエから少し離れて野外写生をする体力が比較的もどっていた、もう少しあとの年代を想定しているのだが……。
 これらの小品については、面白い証言が残っている。1925年(大正14)2月に発行された『みづゑ』240号の「アトリエ雑記」には、中村彝のキャンバスについて次のような記述が見える。
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 一つ二つ彝氏の逸話でもかいてみませう/昔は板でさへあれば菓子折でも何へでも描いたのださうで、よく絵の裏をかへすと鶏卵などゝ書いた紙がはつてあつたりしたさうです。又気に入らない絵はどんどん塗りつぶして仕舞い、人がどんなに望んでも決して売らなかつたさうで、自画像だけでも二箱位燃やしたこともあるとか。
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 彝が描いた小さな作品群には、はたしてどのような素材が用いられているものか、キャンバスを裏返して見てみたい。近くの養鶏場で売っていた鶏卵や、目白駅近くの菓子屋の商標などが残っていれば、下落合のアトリエですごす彝の生活を、よりリアルに実体化できそうだ。
 さて、彝の手紙に「もとゆひ工場」が登場するのは、1919年(大正8)12月14日の洲崎義郎(すのさきぎろう)あての手紙だ。この手紙は、従来2月4日と分類されていたが、文面から同年の暮れに書かれたものであり、消印の誤読によるものであることがのちの研究で判明している。1926年(大正15)に出版された、『芸術の無限感』(岩波書店)収録の手紙から引用してみよう。
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 仕事を信じ、仕事の中に味ふ緊張した喜びと激情と冒険とを少しも怖れなくなつた為めに、この頃では、実に、実に、多くの自由と勇気と自信とを獲得して、日毎に心が晴れやかになり、元気を増し、頭も少しづゝよくなつて、例の神経衰弱も大分よくなつて来ました。今は毎日裏の「もとゆひ工場」を十二号に描いて居ます。そして午後と曇り日とは、画質で十号に静物を描いて居ます。
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 わたしは、彝自身が「もとゆひ工場」を12号キャンバスに描いていると記していることから、そして実際に『雪の朝』で一吉元結工場を中心モチーフにすえて描いていることから、戦災で失われてしまったかもしれない、あるいは個人蔵で行方不明になってしまったかもしれない、元結工場をモチーフに描かれた12号作品の画面を探している。
 しかし、これが『雪の朝』のように、一吉元結工場自体の建屋を描いた画面のことではなく、元結工場で生産された元結を乾燥させるため、工場の西側に拡がる干し場へ運んで天日干し作業をする職人たちをモチーフに描いていた……と解釈したらどうだろうか? すると、翌1920年(大正9)に完成し、新潟県の柏崎で開催された中村彝の個展Click!にも出品されることになる、『目白の冬』の12号画面が相当することになってしまうのだ。
 ちょっと余談だけれど、佐伯祐三Click!が大好物だった“はなよめ”Click!だが、山田新一Click!が『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)に書く「福神漬のような缶詰」という表現の解釈しだいでは、“はなよめ”は「福神漬けのような食べ物」ともとれるし、“はなよめ”は「福神漬けのような意匠の缶詰めに入った食べ物」ともとれる。わたしは、双方の可能性を前提に探しているのだけれど、いまのところ会津の甘煮豆“はなよめ”しか発見できていない。w
 
 1989年(昭和64)に木耳社から出版された、鈴木秀枝『中村彝』には次のように表現されている。同書には、彝のもっとも身近にいた親しい友人のひとりである曾宮一念Click!も跋文を寄せているので、ほぼ失明していたとはいえ同書の内容は、曾宮自身も確認・把握しているだろう。
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 なおその他にヴァン・ゴーグ(註:ゴッホ)的技法を用いた十二号「目白の冬」で自宅裏の元結い作りの情景を写した。非常に繊細な筆触で大正期の郊外地の様子を明るく捕らえ(ママ)ている。
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 同書では『目白の冬』の画面について、元結工場ではなく「元結作りの情景」を描いているとしている。曾宮一念は、『目白の冬』に描かれた建物が一吉元結工場の建屋ではなく、2棟とも目白福音教会の建物であり、中心にあるモチーフは宣教師館(メーヤー館Click!)であることを熟知していただろう。また、曾宮自身も同館をモチーフに『落合風景』Click!(1920年ごろ)を制作し、のちに支援者だった津田左右吉へと贈っている。つまり、下落合生活が長く彝アトリエの周辺を熟知している曾宮であれば、『目白の冬』の情景を「元結工場」が描かれた作品だとは表現しえなかったであろうし、著者の鈴木秀枝も、それを十分に意識しての記述なのだろう。
 もうひとつ、鈴木良三Click!が死去したあと中村彝会の会長を近年までつとめ、中村彝アトリエ保存会Click!へも病床から参加していただいた梶山公平氏Click!は、1988年(昭和63)に出版された『夭折の画家・中村彝』(学陽書房)で、『目白の冬』について次のように記述している。
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 こうして平磯転地で療養の効果もなかった大正八年も暮れて翌九年に入る。二月の冬晴れの日に画室の西側の空地を見た彝はイーゼルを立てる。くいを打って糸を引き元結をつくっている眺めを描いて『目白の冬』と題した。/この作品は十二号であるが、ゴッホの筆触と色調が画面を支配している。澄みきった冬の大気が感じられて躍動するタッチが美しい。
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 梶山公平氏もまた、当時の元結工場(彝アトリエの北北東)の立地とは反対位置にあった、彝アトリエの「西側の空き地」(干し場)の眺めを描いていると規定しており、元結工場を描いたとは書いていない。これは、梶山氏が1929年(昭和4)から中村彝アトリエを購入して住んでいた、鈴木誠Click!の子息である鈴木正治様Click!(アトリエの保存について、わたしが最初に手紙を差し上げた方だが、残念ながら1ヶ月後に亡くなられた)と中村彝会を通じてお互いに親しく、『目白の冬』に描かれたそれぞれのモチーフを、鈴木正治様より詳しく聞いて正確に把握していたからだろう。
 
 中村彝は、現在わかっているだけで、目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)をタブローとして都合4回Click!(デッサンや習作類は除く)、メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校の建物Click!を1回モチーフに選び、同教会の敷地にある建築物を執拗かつ繰り返し描いている。だが、にもかかわらず、「教会」あるいは「教会の建物」という言葉をあえて避け、意図的につかっていないように感じるのだ。これは、若いころ野田半三Click!の奨めで市ヶ谷キリスト教会へと通い、牧師から洗礼を受けたこともある彝だが、その後、おそらく疑問や反発をおぼえてキリスト教とはかなり距離をおくか、半ば訣別している思想的な経緯によるものではないか。
 彝は晩年、「近くの教会の牧師さん」に奨められ、おそらく体力的に歩くのが困難になっていたのだろう、わざわざ俥(じんりき)を雇って教会へ説教を聞きに出かけているが、友人の洋画家・遠山五郎Click!へ語ったように、とても信仰できず「やっぱり駄目だね」Click!だったのだ。このときの「近くの教会の牧師」とは、目の前にあるプロテスタント系の目白福音教会の牧師だった可能性が高い。下落合には教会が数多いが、「牧師」のいるプロテスタント系教会で昔からの施設は、明治末に建設された落合福音教会(しばらくして目白福音教会に改称)しかない。
 彝が死去した翌年、鈴木良三は上記の『みづゑ』240号へ追悼文「父としての追慕」を寄せている。アトリエ裏の元結工場を描いていた、彝の想い出を書いているので引用してみよう。
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 たゞお躰が悪いばつかりに近年では外の景色さへも眺める事が出来なかつたのです。「気分の良い日に俥で附近の景色を見に行かう」などゝ言つて居られましたがそれも駄目でした。/七年程前に裏の元結工場を十二号ほどに描かれて、そのするどい激情や、驚くべき洞察やを示されました。その後一二年後に平磯で、十号ばかりに風景をかゝれましたが、それ以後は風景らしいものは描かれずに終はれました。
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 鈴木良三が追悼文を書いたのは、1925年(大正14)の新春だと思われるが、その7年ほど前というと、1918年(大正7)に「元結工場」が描かれていたことになり、またその後、1、2年ののちに平磯療養があったとすれば、彝は12号の「元結工場」をもう1枚制作していることになってしまう。彝が洲崎義郎あてに、「もとゆひ工場」について書いているのは1919年(大正8)の暮れで、平磯療養から帰った3ヶ月後のことだ。そして、平磯の風景作品が最後ではなく、1920年(大正9)に『目白の冬』が完成していることを考慮すれば、鈴木良三の記憶ちがいのようにも思える。
 
 だが、鈴木良三も中村彝アトリエから南西へ400mほど離れた下落合800番地Click!に住み、曾宮一念と同様に、彝アトリエ周辺の情景には知悉していただろう。だから、『目白の冬』や『目白風景』、『風景』(2画面)などの作品に描かれているのは、目白福音教会に付属していた建築群であり、一吉元結工場でないことは周知のことだったにちがいない。それをあえて「元結工場」と書き、その制作時期の曖昧な記述も踏まえて考えると、やはり鈴木良三は『目白の冬』の情景ではない、別の画面を想起しながら書いているようにも思えてくるのだ。

◆写真上:中村彝『風景』(制作年不詳)の、麦藁帽をかぶった天日干しの職人たち。
◆写真中上:中村彝『目白の冬』(1920年)に描かれた、製造した元結を乾かす職人たち。
◆写真中下:いまでも生産がつづく元結(左)と、同様の工程で製造する水引(右)。大正末から日本髪に必要な元結の需要が急低下し、水引製造へと事業転換する工場が相次いだ。
◆写真下:左は、中村彝『目白の冬』(素描)に描かれた元結職人のデッサン。右は、中村彝『目白風景』(1919年)の画面に描かれた作業中の職人らしいフォルム。