先日、刑部人Click!の段ボールに入れられた未整理資料の中から、1944年(昭和19)8月20日に林芙美子Click!が疎開先の長野県下高井郡戸穏村より、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の刑部人Click!に宛てた原稿用紙の手紙や、1956年(昭和31)10月23日および1938年(昭和33)9月19日に金山平三Click!が旅先から刑部人へ宛てたハガキが見つかったとのご連絡をいただいた。また、川端龍子から刑部人へ宛てためずらしいハガキなども入手されたとのこと。
 お知らせいただいたのは、いつもこのサイトの記事や取材ではお世話になっている炭谷太郎様Click!と、刑部人の二女・中島若子様Click!のお嬢様である中島香菜様だ。そして、もうひとつビックリするようなニュースをうかがった。目白駅前に「目白美術館」Click!が設立され、オープン記念の展覧会には「刑部人展」が企画されており、50点余の展示作品の中に「下落合風景」が1点あるとのこと。さっそく、美術家の方をお誘いして画面を拝見しに、いそいそと開館準備中の目白美術館へお邪魔した。
 このニュースが、ことのほかうれしかったのは、豊島区が解体された元・平和小学校Click!跡地に建設を計画していた西部地域複合施設(美術館機能含む)が、東京オリンピック前の入札不調で2020年以降に延期されてしまった経緯があるからだ。つまり、豊島区に収蔵されているさまざまな美術作品や資料類の多くを展示するスペースが、2020年以降でなければ本格的に確保できない……ということで、実はガッカリしていた矢先だった。施設の完成まで、長崎アトリエ村Click!などの画家たちの作品や資料は、およそ10年以上にわたり保管施設で“死蔵”されてしまう可能性が高いのではないかとも考えていた。でも、豊島区内に目白美術館のようなスペースができれば、少なくとも少しずつ企画展として公開可能なのではないか……と感じたからだ。
 落合出身で館長の高島穣様は、私費を投じて美術館を設置されている。もともと、子どものころから絵画には親しく接していて、お父様に連れられて展覧会などにはよく出かけたそうだ。50点余の刑部人作品も、すべて自身で蒐集されたものばかりだ。ほかにも、数多くの作家の作品をお持ちで、たとえば長崎アトリエ村のひとつ「さくらヶ丘パルテノン」Click!に住んでいた、桐野江節雄も数多く所有されているとか。もちろん、ご自身の蒐集品を展示する展覧会がメインだが、館全体をレンタルギャラリーとして開放する予定もあるとうかがった。目白美術館は、和菓子の「寛永堂」が入る目白寛永堂ビル8階の全フロアにオープンを予定しており、駅前にある横断歩道の信号をスムーズにわたれれば、目白駅の改札から徒歩1分以内で着ける好アクセスの立地だ。
 


 落合地域と長崎地域、池袋地域との中間点に位置する目白駅界隈は、このような美術施設の立地にはもってこいのように感じる。この地域で暮らしてきた画家たちは、史的な町村制の区画や行政区の境界線などまったく意識せず、好きなときに好きな場所へ住み、仕事をしている。長崎から落合へ、また落合から長崎へ、池袋から落合へと、画家たちは気ままに往来しては次々と作品を仕上げていった。だから、彼らには落合町も長崎町も、池袋町も高田町もあまり関係なく、芸術家たちが数多く参集した東京市街地の西北部……という、漠然とした“面”としてのとらえ方があっただけだろう。山手線の目白駅界隈は、旧・淀橋区の落合町と旧・豊島区の高田町がちょうど接する位置にあり、駅近くのビルによっては新宿区と豊島区の境界が現在でも敷地の中を横切っているような場所だ。また、長崎町や池袋町からもほど近いのがいい。
 さて、さっそく刑部人の「下落合風景」(冒頭写真)を拝見する。同作は、新宿歴史博物館に収蔵されている『我庭(冬)』(1970年代)のバリエーション作品であり、『我庭(冬)』とほぼ同一の描画ポイントから描いているのが、樹木の配置や枝ぶりから想定することができる。すなわち、刑部アトリエの北側に面したバッケ(崖地)Click!=島津邸Click!の丘を、採光窓の下あたりから仰ぎ見たような構図だ。ただし、新宿歴博の『我庭(冬)』よりも画面サイズが小さく、より風景の中央部へフォーカスしたような描写、つまり画家の眼をやや望遠気味にしたようなとらえ方をしており、画角も『我庭(冬)』よりは狭い。
 そして面白いことに、目白美術館の画面のほうが積雪が多く、新宿歴博の『我庭(冬)』のほうが同じ地点なのに土面の見えている比率が大きい。つまり、両作の空が青く晴れあがっていることを考慮すれば、刑部人は大雪のあとの晴れた日に、まず目白美術館の『我庭(冬)』のバリエーション作品を描き、少し雪が溶けはじめた同日の午後、ないしは翌日に新宿歴博の『我庭(冬)』を描いたと想定することができる。
 
 
 途中から中島香菜様も合流して、貴重な資料類を拝見することができた。まず、林芙美子の手紙は、久楽堂の400字詰め原稿用紙へ2枚にわたって書かれており、疎開先である長野の様子や刑部家の子どもたちを気遣う内容となっている。また、金山平三のハガキは、1956年(昭和31)のほうは青森県の十和田湖へ写生旅行中のものであり、金山は山形県の大石田から十和田への旅に出ている。もう1枚の、1958年(昭和33)のものは神戸から投函されており、奈良に出かけたがモチーフが見つからず、1枚も描けなかったと報告している。奈良や京都は「絵にならない」と忌避していた、金山平三らしい文面だ。
 ちょうど、富士山の山麓に住みながらほとんど富士を描かず、富士山をモチーフにするのは売り絵を描くようで「卑怯」な気がすると語っていた、曾宮一念Click!のような感覚が金山平三にもあったのだろうか? このハガキでも、再び「十和田辺」へ出かけたいと考えていたようだ。
 中島様が整理され発見された資料類から、とびきり興味深い写真類もお見せいただいた。刑部人関連では、1929年(昭和4)に東京美術学校を卒業した同窓会写真に、上屋敷(あがりやしき:現・西池袋)に住んでいた斎田捷三Click!や、三岸好太郎Click!の親友だった久保守Click!が写っている。久保守もまた、目白駅の近くに住んでいた。さらに、刑部人が制作中のめずらしい写真や、同級生だった福井謙三が死去した1938年(昭和13)に開かれたとみられる追悼会の様子など、これまでわたしが目にしたことのない写真ばかりだ。
 同様に、一度も見たことがない金山平三のスナップ写真もたいへん貴重だ。金山アトリエClick!のテラスで撮られた画家たちの記念写真をはじめ、各地で制作中の金山平三の姿が、いい表情とともにとらえられている。妙にすましたところがなく、かまえずに普段着のままの金山平三Click!をかいま見ることができる。きわめつけは、アトリエの前庭で「佐渡おけさ」を真剣に踊るClick!金山じいちゃんClick!だ。もう、これらの貴重な資料だけで3~4本の記事がかけそうなのだが、それはまた、別の物語……。
 貴重な写真類をお貸しいただき、スキャニングさせていただいたので、これからは刑部人や金山平三などのスナップ写真を、「刑部家資料」としてご紹介していきたい。


 展覧会場には、1964年(昭和39)3月に刑部人から、下落合1丁目540番地(現・下落合3丁目)の大久保作次郎Click!あてに書かれた手紙もあった。これらの貴重な手紙やハガキ類は、「刑部人展」で展示予定だとうかがっている。それぞれ初公開のものがほとんどなので、研究者の方には見逃せない資料類だろう。いずれも詳しい文面は、ぜひ会場でご覧いただきたい。目白美術館の「刑部人展」は、7月28日(月)から8月15日(金)まで。

◆写真上:目白美術館収蔵の、刑部人『我庭(冬)』(1970年代)のバリエーション作品。
◆写真中上:上左は、新宿歴史博物館の刑部人『我庭(冬)』。上右は、2010年(平成22)に日動画廊の「刑部人展-片雲の旅人-」に展示された刑部人のパレット。中は、2006年(平成18)撮影の刑部アトリエ裏のバッケ。下は、1955年10月に森で制作中の刑部人。
◆写真中下:上は、林芙美子からの手紙。下は、金山平三からのハガキ。
◆写真下:目白美術館のオープン記念「刑部人展」(7/28~8/15)のリーフレット。