1914年(大正3)の中村彝Click!は、相馬俊子Click!への恋情に煩悶していた。同年12月に伊豆大島へと旅立つまで、ほとんど狂気に近い行為を繰り返している。彝が相馬俊子をあきらめきれず、ときどき彼女の姿を求めて新宿中村屋Click!のまわりをウロついていたころ、1915年(大正4)3月に女子聖学院を卒業した相馬俊子は、同年4月より女子学院高等科(現・東京女子大学)へと入学している。
 おそらく、相馬愛蔵Click!や良(黒光)Click!の意向も強かったと思うのだが、俊子は実家からそれほど離れてはいない、淀橋町角筈101~109番地に女子学院の分教場として、本学とは別に新たに設置された同学院高等科へ入学して寮生活に入った。実家の中村屋からは、わずか400mほどしか離れておらず、自宅から容易に通える距離だったにもかかわらず、俊子を女子学院の寮へ入れたのは、明らかに中村彝の狂気じみたふるまいから、彼女を隔離し守るためのリスク管理的な意図からだろう。
 また、なにかあった場合に備え、新宿中村屋からすぐにでも駆けつけられる距離の女子学院高等科へ進学して入寮するよう、両親が俊子を説得して選択させたのかもしれない。当時の、角筈101~109番地という所在地で表記するとピンとこないが、開校したばかりの女子学院高等科キャンパスは現在の新宿駅西口の真ん前、東京モード学園のコクーンタワーあたりに建っていた。
 そのころの中村彝の様子を、後世の結果論的な粉飾が多少なされていると思われるのだが、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された相馬黒光『黙移』から、俊子自身の言葉を含め少し長いが引用してみよう。
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 (相馬俊子が)『実は今夜九時頃家出をしろと彝さんからすすめられているのですが、私はどうしてもお母さんに黙って家を出る気にはなれませんし、またそんなことが誰にも幸福ではないと思うのですけれど、彝さんは狂人のように荒っぽくなっているから、どんなことを仕出かすか知れないし、どうしたらいいでしょう』/と、おろおろ声で打ち明けたのでございます。(中略) 家に着くとすぐ夫と相談し、その晩、俥に乗せて父親がつき添い、桂井さんのお家は御老母とお姉さんとお姪の方とが一緒に住んでおられましたから日頃の親しさからいっても、最も安全で自然な隠れ家でありました。(中略) 家に帰ってしばらくすると、品川駅の公衆電話で、桂井さんから意外な報告を聞きました。/『昨夜たびたび何物(ママ)か石を投げたり戸を敲いたりして悩まされた。この分ではまたどんな乱暴な行動をされるかも知れない。それにそんなことが新聞沙汰にでもなると皆が迷惑することになるから、少し落ちつくまで俊子さんを安全な所へつれていく、場所は後から通知する』/ということで、また驚かされたのでした。そうして桂井さんは二、三日俊子をある海浜で静養させ、彝さんのほうの興奮もひとまず鎮まった頃とみて、私のほうへ俊子をつれ戻ってくれました。(中略)
 一方、彝さんは夫を殺すといって長い日本刀を振りまわしたり、悪口雑言を書いてよこしたり、全く正気の沙汰ではありませんでした。要するに彝さんは俊子をわれわれ両親が圧迫してよこさないのだ、病人で貧乏だから自分にくれないのだと、こう僻んでいるのでした。これは本人の意志なのだ、本人の意志なので彝さんに従わないのであった、といっても彝さんは真実とはとらない、これはいっそ直接会わして自発的に解決させるほうがよくはないかと、相談の上、彝さんと俊子を改めて会見させました。(カッコ内引用者註)
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 当時の中村彝は、中村屋の自宅から消えた相馬俊子の居所を探るために、中村屋の周囲を頻繁に徘徊し、俊子をかくまっていそうな人物のあとを、執拗に尾行していた様子が伝わってくる。中村彝の恋の狂乱は、彼の身近にいた弟子の鈴木良三Click!も証言している。『黙移』とほぼ同時の1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』から引用してみよう。
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 俊子という女性は動揺し易い、態度の曖昧なところがあり、荻原守衛の従弟で東京商船学校の学生三原林一も俊子を愛していたというし、父親の(相馬)愛蔵も浮気をしてどこかに第二の夫人がいたので母親の黒光も荻原の死後は若い燕として体格のいい哲学者桂井当之助を愛したりしているのを見て、若い俊子の気持も歪んでしまったのではないだろうか。/これに対して彝さんは純朴過ぎて一途に両親を信じ、俊子を愛し、恋は成就するものと思い込んでしまった。しかし結果は波乱万丈正気の沙汰を欠き、日本刀を振り廻したり、悪口雑言を黒光達に並べたりしたので、遂には狂人扱いを受けて敗北したのであった。(カッコ内引用者註)
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 鈴木良三の文章は、なにやら中村彝の純朴さ・純真さvs相馬夫妻の計算高いしたたかさという構図の匂いで描かれており、確かにそのような側面もあるのだろうが、肝心かなめな相馬俊子の主体や意志をほとんど丸ごと欠落・無視したような扱いで記述されているので、その視座は明らかに中村彝の側にある。
 「動揺し易」くて「態度の曖昧」な、このとき16歳前後だった高等科入学前の女性が、それ以前に画家の前で思いきって裸のモデルになったり、その後、きわめて意志的かつ主体的な選択や行動をする女性へ、急に生まれ変わったとは到底思えない。中村彝が恋に目がくらみ、俊子という女性の性格や意志、感情、志向などを見抜けず、身勝手な幻想や期待をふくらませつづけたように思えてならない。相馬夫妻は、娘が再び中村彝のつきまといに遭わないよう、まさかのときには駆けつけられる近くに開校していた女子学院高等科へ入学させ、警備が十分な寮生活を送らせることにした……という経緯ではないか。



 さて、相馬俊子はそのころ、女子学院高等科のキャンパスでどのようにすごしていたのだろうか? 女子学院は、もともと築地の外国人居留地で創立されたキリスト教系のミッションスクールで、非常にストイックな学園生活だったのではないかと想定できる。女子学院の高等科は、新宿停車場の西口前にあった米国伝道派ミッションのサナトリウム「衛生園」(現・慈恵病院)、および園内の看護婦養成所が1906年(明治39)に閉鎖・廃止されたあと、その病舎や寮をそのまま女子学院が譲り受けるかたちで、新たに分教場と位置づけて高等科を設置したものだ。
 相馬俊子が生活していた女子学院を含め、山手線の新宿駅周辺の地図を明治期から現代まで、時代を追って観察しているとき、“異様なモノ”を発見してしまった。その姿は、1909年(明治42)の参謀本部が作成した1/10,000地形図から確認することができる。翌1910年(明治43)の2色刷り同修正図では、よりハッキリとした“鍵穴”型のフォルムでとらえられており、おそらくわたしの想定にまちがいないだろう。大正の初期まで、上空から見るときれいな“鍵穴”型をした巨大な前方後円墳が残されていたと思われる。周囲に多数の陪墳を従えた、明らかに大王クラスの墳墓で、当時の地番でいうと淀橋町角筈94~100番地あたりということになる。
 主墳と陪墳の位置関係が、芝丸山古墳Click!のデザインにとてもよく似ている大きな前方後円墳Click!だ。しかも、墳丘長だけで120~130mほどもあり、芝丸山古墳よりもひとまわり大きいサイズだ。もともと江戸時代末には、美濃高須藩の松平摂津守義比(3万石)の下屋敷であり、おそらく同家の回遊式庭園の一部に取り入れられていたのだろう。明治維新ののち、この巨大な墳丘は地元で摂津守にちなみ「津ノ守山」と呼称されていた。そのサイズからして、後円部の高度は5~6階建てビルの屋上ぐらい(約12~15m)はあったのではないかとみられる。
 芝丸山古墳は、東京帝大の発掘調査により判明しているだけで、後円部の周囲に陪墳が11基確認されているが、角筈の巨大古墳はやはり後円部の周囲に、地図上から陪墳と思われる突起を確認できるだけで、都合9~10基を数えることができる。主墳の北側に面した陪墳域を整地して建っているのが、旧・衛生園だった女子学院高等科の校舎や寮などの建築群であり、また主墳東側の陪墳域は専売局工場(のち専売公社)の敷地で、明治の早い時期に地面が均されてしまった。当然、これら明治期に建設された施設の造成工事の際に、破壊されてしまった陪墳が、もっと数多く存在したのではないかと想定できる。
 


 しかも、この前方後円墳には埋葬のあと定期的に祭祀を行ったとみられる、造り出しClick!の凸状のふくらみまでが残されていたのがわかる。造り出しは、当時の祭祀に使われた遺物の宝庫だったはずだ。同墳に名称がないといちいち記述に不便なので、とりあえず下落合摺鉢山古墳(仮)Click!にならい、仮称として「新宿角筈古墳」と呼ぶことにする。
                                   <つづく>

◆写真上:女子学院高等科(現・東京女子大学)の校舎や寮が建つキャンパスがあった一帯で、現在は駅前道路とコクーンタワーのある東京モード学園となっている。
◆写真中上:上左は、大正初期の撮影とみられる相馬俊子。上右は、中村屋の女主人で母親の相馬良(黒光)。下は、角筈101~109番地にあった女子学院高等科の本校舎とキャンパス。校舎右手に見えるこんもりとした盛り上がりは、新宿角筈古墳(仮)の北側に位置する陪墳のひとつである可能性が高い。陪墳といっても、たとえば落合地域の浅間塚古墳Click!ほどのちょっとした円墳に匹敵するサイズだ。
◆写真中下:上は、『東京女子大学50年史』にみる開校当初の女子学院高等科。正面が本校舎で左側が寮舎だとみられるが、本校舎の背後も陪墳域だったと思われる。中は、1911年(明治44)の高等科卒業式の様子で来賓に大隈重信が招かれている。晩年の大隈は女子の高等教育に注力し、日本女子大学や東京女子大学との関係が深い。女子学院資料室委員会が編纂した『GRAPHIC HISTORY OF JOSHIGAKUIN 1870-1992』より。下は、降雪の翌朝に撮影した下落合464番地の中村彝アトリエ。
◆写真下:上左は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる新宿角筈古墳(仮)。上右は、1936年(昭和11)に日本中学校の移転後に地面が露出したままで撮影された空中写真で、巨大な前方後円墳の痕跡がハッキリとわかる。中は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図(修正図)にみる新宿角筈古墳(仮)の様子。下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された新宿駅西口に新宿角筈古墳(仮)を重ねてみる。