目白文化村Click!の絵はがきをもう1枚、古書店で入手することができた。箱根土地Click!が第一文化村の販売後、第二文化村の販売を目前にした1923年(大正12)の春から初夏にかけ、東京府内へ発送していたDM用の絵はがきだ。
 先に、新宿歴史博物館で拝見した同はがきClick!も含めると、これで第一文化村の街並みと前谷戸を写した同一写真の目白文化村絵はがきClick!を、都合3枚にわたり観察することができた。目白文化村絵はがきには、ほかにも神谷邸をフューチャーし「目白文化村の一部」Click!を写した別種の販促用絵はがきも存在するのだが、こちらは1種しかまだ入手できていない。ちなみに、1922年(大正11)の秋には竣工していた神谷邸だが、最後まで残っていたライト風レンガ造りの門が、残念ながら先年壊されてしまった。
 さて、同一の絵はがきを3枚観察することで、堤康次郎Click!のSP戦略あるいはターゲティングをなにか探れないか?……というのが、きょうのテーマだ。同じ図柄の絵はがきが3枚なので、記述の紛らわしさを避けるために、とりあえず各絵はがきに以下のような番号をふって記述を進めたい。
 ①新宿歴史博物館に保存されている同絵はがき
 ②2014年6月に古書店から入手した同絵はがき
 ③今回(2015年4月)入手した同絵はがき
 まず、絵はがきごとの印刷の質を比較してみる。新宿歴博に保存されている①は、経年でやや褪色しているものの、人着された写真はクッキリしていてボケてはおらず、印刷の質はおしなべて精緻だった。しかし、わたしが最初に入手した同絵はがき②は、褪色は少なく当時の色彩をよく残してはいるものの、新宿歴博の①に比べて印刷がやや甘くなり、シャープ感がなくなっているのがわかる。第一文化村の街並み写真のエッジが甘い、つまり、わずかだがピンボケのように家々のかたちがぼやけているような印象を受けるのだ。これは、新宿歴博の①は製版したばかりの初期の刷りに近く、わたしが入手した②はかなり印刷を繰り返して版の劣化が進行した、後刷りの可能性が想定できるように思われる。



 そして、今回入手できた絵はがき③は、②よりも印刷がクッキリとシャープであり、新宿歴博が保存する①に近いことがわかる。しかし、①に比べて褪色は少なく初期の色彩をよく残してはいるものの、郵便局で絵はがきを積み重ねることで付着したと思われるスタンプの跡や、配達後の保存時に発生したとみられる折れや汚れが付いている。これらを勘案すると、新宿歴博の①と今回入手の③は、あまり時間をおかずに印刷された初期のころの絵はがきであり、わたしの②は版が傷み当初の精緻さが失われはじめた印刷後期のものである可能性が高い。あるいは、絵はがきすべてを一度に印刷したものではなく、増刷を繰り返して版が傷んだのかもしれない。換言すれば、①と③は初版の刷りに近く、②はのちの刷り増しによる追加注文の可能性があるということだ。
 このSP印刷物にはありがちな想定をベースに、宛て名書きからなにか探れないかどうかを検証してみよう。まず、新宿歴博の①は、宛て先が「小石川区小日向臺(台)町二ノ八」(現・文京区小日向2丁目)となっており、市街地の住民に宛てたDMだ。場所は、小日向の南西斜面で麓に今宮神社のある丘上に住んでいた人物だ。今回入手した③は、同じく東京市街地で「四谷南寺町一〇」と宛て名書されている。省略されているが正確には四谷区四谷南寺町10番地(現・新宿区須賀町)のことで、文字どおり四谷の寺町に住んでいた住民に宛てたものだ。10番地は、勝興寺と戒行寺にはさまれた細長い街角にあたる。ところが、印刷が劣化した②は東京市街地ではなく、「市外大井町五六二」(現・品川区東大井5丁目)の人物宛てとなっている。
 大正期の大井町や大森の界隈は、東京から気軽に出かけられる近郊別荘地、あるいは日帰り観光地として拓けていた。日本初の湘南・大磯Click!にならって設置された大森海水浴場が評判を呼び、毎夏には東京市街地から訪れる海水浴客で賑わっていただろう。だが、太平洋に面した大磯とは異なり、東京湾に面した大森海岸はおだやかで波が小さくて勢いがなく、松本順(松本良順)Click!が提唱した血行促進を主眼とする、本来の意味での海水浴はできなかったと思われる。むしろ、波打ちぎわでの渚遊びと浜辺の日光浴とがメインの海水浴だったろう。また、潮風が病気によいとされた当時、東京に近い転地療養地Click!としても脚光を浴びていた。②の絵はがきは、そのような東京近郊で暮らす住民に向けて発送されている。
 
 
 このような状況から、①③と②の絵はがきの宛て先から、初期のころに刷られたものは東京市街地の住民宛てに、後期に刷られたものは東京近郊の住民宛てに、DMが発送されていたのではないか?……と想定することができる。つまり、セグメント化された見込み顧客として、目白文化村の販売はまず東京市街地に住む人物がターゲットとして設定されており、その問い合わせや反応を見てから東京郊外で暮らす住民宛てに、追加で売りこみをかけている……というようなSP戦略が透けて見えてくる。
 大正期から昭和初期にかけ、東京市街地では住宅の稠密化や都市部への工場進出にともない、結核による死亡率が急速に高まった時期だった。食生活の改善Click!はもちろん、住環境の見直しや「文化生活」Click!の追求など、郊外へ転居するのが一種のブームのようになっていた。だから、目白文化村のSPが市街地中心になるのは必然だったろう。当時の市街地では、借家に住むのがふつうだったし、また借地の上に自宅を建てて住むのが当たり前の形態だった。だから土地まで入手でき、その上に自分の好きな設計やデザインで住宅を建てられるというのは、ある程度の収入のある層には大きな魅力として映っただろう。
 堤康次郎のSP戦略のもと、市街地にマトを絞ったターゲティングはとりあえず成功したかもしれない。だが、目白文化村では最大規模の造成だった第二文化村の販売を控え、それでは不安を感じたものか、東京郊外でも比較的開発が進んでいたエリア、すなわち早くから別荘地として拓けてきたが、市街地化の波が押し寄せ、あるいは海辺に工場が建ちはじめて、徐々に静寂さや清廉な空気が失われつつあるような地域へ向けても、追加でDMを発送してやしないだろうか。絵はがきが発送された1923年(大正12)4月~5月、関東大震災Click!が起きる直前の時期であり、人々が東京郊外へ押し寄せるような、いわゆる市街地からの“民族大移動”はいまだ起きていない。
 ②の「市外大井町五六二」は、大井町駅の東口にごく近い住所であり、駅前の大井町警察署の数ブロック隣りの地番だ。ほかのエリアに比べ、駅前はなおさら市街地化の進みぐあいも早かっただろう。それが、印刷の終わりごろか改めての増刷かは不明だが、写真のシャープさにやや欠ける②の絵はがきや、別種の神谷邸絵はがき「目白文化村の一部」にみる、大井町の駅界隈に住む人物をターゲットにすえた、DMの目的ではなかったかと想像してしまうのだ。
 
 

 印刷が比較的シャープな、①と③の絵はがきが東京市街地の宛て先であり、印刷がやや甘く版下の劣化を感じさせる②が東京郊外の宛て先なのは、堤康次郎による見込み顧客のセグメント化と、その顧客が置かれた環境や心理を分析し想定した、けっこう緻密なターゲティングの結果ではないか……、そんな気が強くするのだ。

◆写真上:目白文化村絵はがきの人着写真にとらえられた、前谷戸の湧水源である第一文化村の谷間の現状で、湧水の流れはすべて暗渠化されている。
◆写真中上:上から下へ、①歴史博物館に保存されている市内小石川区宛ての同絵はがき、②2014年に入手した市外大井町宛ての同絵はがき、③2015年に入手した市内四谷区宛ての同絵はがき。印刷の質は①③がよく、②がシャープさに欠けて質感が落ちる。
◆写真中下:写された第一文化村の街並みを、②(左)と③(右)で比較したもの。
◆写真下:上は、小石川区小日向宛ての①(左)と、四谷区四谷南寺町宛ての③(右)の表書き。中は、市外大井町宛ての②(左)と別種の絵はがき「目白文化村の一部」の表書き(右)。下は、第一文化村に建つライト風の神谷邸を撮影して人着した別種の目白文化村絵はがき。