目白学園の斜向かいにあたる下落合4丁目2123番地の池添邸は、1950年代に入ると庭の西側に“離れ家”のような別棟を建設している。もともと1,000坪前後はありそうな敷地には、母家の東南北側に広大な庭が拡がっていたが、東側の400坪ほどの土地を母家の敷地から切り離し、借家を建てて人に貸そうとしたものだろうか。この借家には、1958年(昭和33)に荻窪から転居してきた中井英夫Click!が住むことになり、『虚無への供物』Click!はここで執筆されることになった。
 下落合4丁目のこの界隈は、山手空襲Click!の被害をほとんど受けておらず、戦前からの家々が戦後まで建ち並んでいたエリアだ。この池添邸の離れ家は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真には見あたらず、1957年(昭和32)の写真で初めて確認できるので、おそらく建てられたのは1950年(昭和25)すぎごろではないかとみられる。400坪の敷地をもつ離れ家には、南北に大きな樹木を抱えた広い庭園が拡がり、中井英夫は各種のバラなどを栽培する「植物園」を造成することになる。
 「植物園」といっても別に公開していたわけではなく、池添邸の長い大谷石の塀がつづく東寄りの一画に開いた小さめの門に、そのようなプレートを掲げていたのだろう。「中井」の表札があったかどうかは不明だが、当時の東西に長くつづいていたであろう大谷石塀の一部は、いまでも池添邸の前で見ることができる。1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」には、中井英夫の名前ではなく「植物園」というネームが採取されている。当時の様子を、中井英夫『薔薇の獄-もしくは鳥の匂いのする少年』に書かれたイメージから引用してみよう。
  
 高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてのない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。(中略) しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、咢あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。
  
 中井英夫が住んでいた当時、1966年(昭和41)になると離れ家の中井邸をサンドイッチにするように、北側に1棟と南側に2棟の家が建てられている。この3棟の住宅は、同年に行なわれていた池添邸母家の建て替えによる一家の仮住まい家屋とみられ、新邸工事が終わるとともに3棟とも取り壊されている。中井英夫の「植物園」は、母家のリニューアル工事にともなう仮住まい家屋の建設で、かなりの縮小を余儀なくされただろう。



 中井英夫は、代々植物学者の家に生まれたため、植物には昔から親しんでいた。ただし、バラのような華やかな花は自宅の庭にはほとんど植えられておらず、唯一の例外は深紅色のクリムゾン・ランブラー(庚申バラ)が咲いているのみだったらしい。中井少年は、本郷の動坂近くにある園芸場へ通いながら、バラの美しさに魅了されていった。
 『虚無への供物』を執筆するにあたり、下落合4丁目2123番地の400坪もある庭で、初めて自らの手で各種のバラの栽培に挑戦したと書いている。1981年(昭和56)に書かれた、中井英夫『薔薇の自叙伝』から引用してみよう。
  
 そのころ住んでいたのは新宿区ながら八百坪の庭があり、その半分を自由にしていいという大家の好意で、さまざまな栽培実験が出来たのはありがたかったが、中の一本を心ひそかに“ロフランド・オウ・ネアン”と名づけて大事にしていたのに、肥料のやりすぎか葉ばかり繁ってブラインドとなり、おまけにその長編が講談社から出版された昭和三十九年の秋、私の留守に台風でみごとに折れて枯れてしまった。その運命が暗示するように、長編の方もその後三年ほどは黙殺されたままだった。/だが昭和四十二年、杉並区永福町に引越す直前、ふいにある女性が身近かに現われてから風向きが変わり、薔薇との関わりもまた深くなった。そのころの私は小説の注文もないまま、とある大手の出版社の百科事典の編集を手伝い、傍ら一斉に開校したコンピューター学校の夜学に通ったりしていたのだが、その年の二月二十九日、出版社の受付へ巨きな薔薇の花束が届けられた。
  



 この女性が、彼の作品のいくつかに顔を見せる「白人女」の「ヴェラ」だった。彼女は、バラの栽培にも詳しく、当時開園したばかりの二子玉川園「五島ローズセンター」へ、中井英夫とともに訪れているようだ。
 小学生だったわたしも、1960年代半ばのほぼ同じころ二子玉川園には何度も出かけているが、五島ローズセンターの記憶はない。もっとも、当時は盛んに開催された「恐竜展」や「怪獣展」などの特別展や遊園地がめあてだったので、クタクタに疲弊した親たちは五島ローズセンターまで足をのばす気にはなれなかったのだろう。1971年(昭和46)に書かれた中井英夫『薔薇の夜を旅するとき』には、五島ローズセンターが解体されて東急自動車学校になる直前、ヴェラとともに同園を訪れる情景が描かれている。
 狂おしいまでにバラ好きだった、中井英夫の妄想は止まらない。ついには、TANTUS AMOR RADICORUM(なべての愛を根に!)というワードとともに、自分の身体を土中に埋めてバラの養分(供物)にするという幻想にまでとり憑かれることになる。上掲の五島ローズセンターが登場する、『薔薇の夜を旅するとき』(1971年)から引用してみよう。
  
 外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の音の恣な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。(中略) 将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。
  

 

 大正時代から、下落合にはバラ園があちこちに存在していた。すぐに思い浮かぶのが、西坂の徳川邸Click!バラ園Click!や翠ヶ丘のギル邸Click!(のち津軽邸Click!)の庭、箱根土地Click!による不動園Click!東側のバラ庭Click!などだ。学生の中井英夫がそれを知っていたら、もう少し早く下落合に住みついていたかもしれない。

◆写真上:フランス産の「ブルームーン」と思われるバラの花。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる池添邸。は、1957年(昭和32)の写真で母家の東側に離れ家が確認できる。中井英夫は翌1958年(昭和33)、この離れ家へ転居してくることになる。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」で、下落合4丁目2123番地に「植物園」のネームが採取されている。
◆写真中下:中井英夫が住んでいた時期に撮影された、1963年(昭和38)の空中写真()と1966年(昭和41)の同写真()。1966年(昭和41)の写真では池添邸の母家がリニューアル工事中で、中井邸の周囲には仮住まいとみられる家屋が3棟増えているのがわかる。は、1975年(昭和50)の空中写真で元・中井邸がいまだ建っているのがわかる。
◆写真下は、中井邸跡の現状。中左は、1981年(昭和56)にバラの短篇ばかりを集めた中井英夫『薔薇への供物』(龍門出版)。中右は、1950年代の撮影とみられる中井英夫。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる二子玉川園「五島ローズセンター」。