全国に、「丸山(円山)」や「摺鉢山」「大塚」などの名称がふられた古墳名Click!が数多いことは、以前からもこちらでご紹介している。地形の形状を見て、まるで球の半分が地面から盛り上がっているような丘や、あたかも摺鉢を伏せたような形状の地形、あるいは明らかになんらか大規模な塚山を見て、付近の住民から感覚的に付けられた古い地名(丘名)なのだろう。
 同様に、そのような丘の上部を利用し、鎌倉期から江戸期にかけて社(やしろ)の境内が設置されたりすると、「天神山」「稲荷山」「八幡山」…などという名称に転化し、「丸山」や「摺鉢山」「大塚」と同様に古墳名にされるケースが多い。戦後は逆に、このような由緒ありげな地名が発見されると、一帯が田畑や住宅街へと開発されていない場合は、新たな古墳発見の可能性が高いと見なされ、積極的に考古学的な調査が行なわれるようにもなっている。
 河川を見下ろす丘や傾斜地の多い落合地域にも、「丸山」Click!「摺鉢山」Click!「大塚」Click!などの地名が残っていたこと、そして地名が残る周囲には江戸期の農地開発や明治以降の宅地開発、あるいは鉄道工事や道路敷設などで破壊された、大型の古墳が存在したのではないか?……というテーマも、繰り返しここの記事で取り上げてきた。今回は、古い時代からの伝承や逸話を参照しながら、下落合の西部から葛ヶ谷Click!(現・西落合)にかけての独特な地名の由来を探ってみたい。
 下落合(現・中落合/中井2丁目含む)の西部や、葛ヶ谷にかけての名所や旧蹟、故事伝承の記録あるいは紹介は、こちらでもたびたび引用している金子直德Click!『和佳場の小図絵』Click!や、大田南畝Click!『高田雲雀』Click!などでもきわめて少ない。江戸期には、市街地からさらに遠く離れているため、あまり注目されず散策されなかった領域なのか、あるいは野方や江古田のエリアに近いため、江戸期にはそちらで書かれた地誌本のたぐいが知られていたものだろうか。現代に伝わる落合地域の資料では、下落合西部から葛ヶ谷にかけての記録が希薄となっている。
 だが、それを補うように残されているのが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)だ。その記述から、おそらく1000年以上前の平安期から明治以降にかけてまで、地域で語られてきた伝承を掘り起こし、織りまぜながら編集しているとみられ、江戸期に編まれた記録のいわば“空白地帯”を埋める貴重な資料となっている。
 記述を、先の地名テーマにもどそう。下落合の東部には、「丸山」という地名(字名)が昭和初期までかろうじて残っていた。もっとも早い「丸山」地名の採取は、1909年(明治42)に陸軍参謀本部が作成した2色の1/10,000地形図にみられる。もっとも、テキストとして採取されたのは明治期だが、それ以前から下落合村ではエリアの字名として受け継がれてきたのだろう。「丸山」が採取されているのは御留山Click!南側の麓、下落合氷川明神Click!のすぐ東側あたりだ。
 このあと、大正期には「丸山」の字名は郵便の住所化されて、目白崖線の丘上(御留山~近衛町Click!)まで拡がっていくことになる。わたしは、きれいな釣鐘型をした氷川明神の境内Click!が、本来は古墳ではなかったかと疑っているので、その西側に大正初期まで残った「摺鉢山」Click!の伝承とともに、「丸山」はその墳丘が崩される以前に地勢を見てつけられた、江戸期以前からの地名ではないかと想像している。



 東の「丸山」に対し、西側にもまた古墳をイメージさせる字名、ないしはポイント的な史跡名が多く残されている。いや、むしろ西側のほうが東の「丸山」のように漠然とはしておらず、規定された位置も含め確度が高いだろうか。下落合の西側や葛ヶ谷の一帯にかけ、「丸塚」や「塚田」「天神山」「馬塚」など、いかにも古墳に付随していそうな字名を確認することができる。まず、「丸塚」の伝承から探ってみよう。前掲の大澤永潤が著した、『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみる。
  
 牢屋敷は現今の朝日湯より約一丁程南方にて昔牢獄在りしと伝へられ古碑、古瓦多数地下より出でしと申されます。又『丸塚』が在りましたと。
  
 ここでいう「牢屋敷」は、江戸期の幕府に由来するものか、あるいはそれ以前から設置されていたものかは不明だが、掘れば屋敷の瓦が出たということなので、その昔なんらかの施設が存在し、それが語り継がれていたのはまちがいないだろう。古代の古墳域は、往々にして近寄りがたい禁忌的な伝承や、「屍家(しいや)」Click!または「死屋」など怖ろしい物語が継承されていることが多く、マイナーな施設の建設や墓地、動物などの死骸捨て場にされていた例も多い。だからこそ、古墳のエリアを寺社の境内として“浄化”し、聖域化する必要も生じているのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 村の西方字境に丸塚在り、昔死馬を捨てしより里人呼んで馬捨場といふ此死馬をソマといひしと、恐らく「ソマ」は粗馬の故でありませう、死馬ある時は遠近の野犬此処に集り、死馬の肉を食ひ争ふといふ其死馬の憐れな有様が又恐ろしい悪魔のやうに見ゆる所から起つたものでせう。後世これら死馬の供養の為め馬頭観世音の供養塔が建立せられてあります。
  
 「ソ・マ」(so-ma)は原日本語(アイヌ語に継承)で、「焼き場」あるいは「焼き棚」と葬儀場そのものの意味につながる。明らかに「丸塚」が、江戸期以前からだろうか動物の死骸を葬る(捨てる)、禁忌的なエリアに指定されていたのがわかる。また「丸塚」とは別に、江戸期に馬の死骸を捨てる専用の「馬塚」も、葛ヶ谷御霊社Click!の北の街道沿い、井上哲学堂Click!のすぐ東側に確認することができる。



 さらに、妙正寺川沿いの田畑の中にポツンと塚状の突起が残されていたのだろう、「塚田」という地名も残っていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 此地は現今オリエンタル写真学校南方妙正寺川沿ひの地で昔細田地頭の旧積地(ママ)であると申され、この川下の地境を塚田と申されました、昔某氏の古墳が在つたとか伝へられゐます。(ママ)
  
 すでに被葬者の素性も不明になっているが、鎌倉期の地頭・細田氏の名前が伝わっている。だが、少なくとも平安末から鎌倉初期の和田氏、あるいは鎌倉期の細田氏に関する古墳ではないだろう。なぜなら、和田山Click!(井上哲学堂)を中心に和田氏Click!あるいは細田氏の伝承は地元でハッキリと受け継がれているにもかかわらず、「塚田」の被葬者が不明なのはそれ以前の時代、より古い時期からの史蹟だったことを想起させるのだ。
 「塚田」にもまた、多くの古墳がそうであるように、なんらかの禁忌的な物語が伝わっていたものだろうか。江戸期に盛んに行われた、農地を拡大する開墾事業でも崩されずに、田畑の中に塚を覆う樹木とともにポツンと残され、のちにメルクマールとしての地名化した可能性が高いように思う。
 さて、以前にご紹介した妙見山Click!の西150mほどのところ、青梅街道の敷設で崩されてしまった位置には、天神が祀られていた「天神山」と呼ばれる地名があったことも記録されている。おそらく、江戸期まで塚状の地形上に天神社が築かれていたのだろう、疣(いぼ)に関する疫病に効果がある神として、天神社は付近一帯から広く崇敬を集めたようだ。そして、江古田村の「コブ長」さんや長崎村の「コブ源」さんなど「コブとり爺さん」の逸話までが残されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 天満宮の祀られてありし所で現今は道路と化して居ますが村の内田留造氏方の北方であつたと申されます、此の社は俗に疣天神といふて、何か疣に似た病疫ならば願ひの儘霊験在り、忽ち快癒致しますと申されて居ます、(以下略)
  
 ちなみに、天神山Click!は大きめな古墳にふられた代表的な地名で、全国各地に地名を冠する「天神山古墳」と名づけられた古墳期の遺跡が散在している。新宿エリアでは、成子天神Click!が建立された成子地域の天神山と、大久保の西向天神Click!が建立され富士塚Click!が築かれた天神山が有名だろうか。



 下落合の西端や葛ヶ谷には、まだまだ怪しい古地名や史蹟が多いのだが、キリがないのでこのあたりにする。旧・平川Click!(現・神田川)沿いを歩き、人工的な塚状の突起を見つけると祠を建立してまわったとみられる、室町期の僧・昌蓮Click!に由来する「百八塚」は、はたして妙正寺川沿いの下落合西部や葛ヶ谷方面にまで及んでいたのだろうか。

◆写真上:道路の左手が、「丸塚」の築かれていた目白学園の北側斜面。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる各塚の位置。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「丸塚」と「塚田」の位置。
◆写真中下は、「丸塚」の近くに残るアトリエ建築。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「天神山」と「馬塚」の位置。
◆写真下は、新青梅街道(正面)と目白通り(右手)の分岐。青梅街道をそのまま進むと、「天神山」と疣天神にぶつかる時代があった。は、「塚田」があった妙正寺川沿い(左岸)の現状。は、さまざまな伝承が縁起物語として伝わる自性院本堂。