わたしが、初めてラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)の原文に接したのは、中学2年生のときだった。当時、英語の授業に使われていた教科書『New prince readers』(開隆堂)に、ハーンの『YUKI-ONNA』Click!が収録されていたからだ。
 考えてみれば、わたしと“出雲”とのつながりは、江戸東京総鎮守のオオクニヌシは別格にしても、おもに松江や出雲のフォークロアの語りべである妻の小泉セツから採集した、ハーンの『KWAIDAN(怪談)』が最初だったかもしれない。その後も、地域の総鎮守が出雲神のクシナダヒメを奉る氷川明神社Click!の下落合に住んだり、その目白崖線から出土した出雲の碧玉勾玉Click!を偶然にも譲り受けてお守りペンダントにするなど、なぜか代々が江戸東京地方のわたしと出雲地方Click!との因縁は限りなく濃い。
 中学校の英語授業で『YUKI-ONNA』を習ったとき、最後にユキが正体を現して、般若のような顔をした雪女へと変貌する際、「It was I-I-I……」といって天井までとどくような高さで浮遊するシーンは、その挿画とともにいまでも強烈な印象に残っている。(誰の挿画だったのだろうか?) このころから、おそらく文楽のガブClick!好きに加え、わたしはハーンの雪女好きになったのだろう。当時、大好きでとても気の合う女子が、わたしの真うしろの席にいて、なにかあると「It was I-I-I……」といっては、ふたりでじゃれ合い笑い転げていた。彼女はわたしとちがって、学校のお勉強がメチャクチャできたので屈指の進学高校に合格し、おそらく東大にでも進んでいるのだろう。
 さて、『YUKI-ONNA』の著者であるラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)は晩年、いまわたしのいる下落合からわずか2.5kmほど南に下がった、大久保村西大久保265番地に住んでいた。同地番の家に転居してきたのは、1902年(明治35)3月のことで、それから死去する1904年(明治37)9月26日までそこで暮らしている。それ以前は、同じ新宿区内の市谷富久町21番地に、1896年(明治29)9月から1902年(明治35)3月まで住んでいた。現在、大久保小学校の西側に「小泉八雲記念公園」が開園しているが、同公園は西大久保265番地の小泉邸跡ではなく、小泉邸から北へ70mほど離れた西大久保245~246番地あたりに設置されているとみられる。西大久保265番地は、明治期から大久保尋常小学校の南側に接する敷地の地番だ。
 小泉八雲が落合地域を歩いたのは、西大久保265番地の自宅から新井薬師Click!へ詣でるのが、晩年の散歩コースのひとつになっていたからだ。セツ夫人を同伴したと思われる散歩は、直線距離でさえ片道4kmほどもあるが、明治人にとってはさほどの距離には感じなかったのだろう。落合地域から上野の東京美術学校Click!や谷中の太平洋画会研究所Click!まで、平気で歩いていくような時代だった。夏目漱石Click!でさえ、牛込の喜久井町から中央線沿いの寺田寅彦Click!が住んでいた百人町まで、頻繁に散歩をしている。
 そのときの様子を、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社文庫版)から引用してみよう。
 
 

  
 ハーンはセツと一緒に散歩をして新井薬師あたりまで出かけた時、落合の火葬場の煙突が見えると、自分も間もなくあそこから煙になって出るのだと語っていた。そして垣の破れ草が生い茂った小さな破れ寺への埋葬を心から願う人だった。/幸いこの発作は、大事には至らなかった。行水をしたいといって、風呂場で水行水をし、さらにウィスキーが飲みたいと言うので、心配しつつもセツは水割りをつくり、グラスを手渡した。アイリッシュのハーンにとってウィスキーはとても大切な飲み物だった。じっさい、アイルランド語ではウィスキーは「命の水」という意味である。
  
 心臓の悪い患者が、水を浴びてウィスキーをひっかけるなど、今日の医者が聞いたら目をむきそうな行為だが、それが八雲にとっては心が安らいでリラックスでき、落ち着きをとりもどせる最善の療法だったのだろう。
 散歩の途中、新井薬師までの道程で落合火葬場Click!(現・落合斎場Click!)の煙突を見ていることから、小泉八雲の散歩コースがおよそ透けて見える。まず、西大久保の自邸を出た八雲夫妻は、邸前にあった大久保小学校の西側接道を北上すると、大久保通りを左折した。そして、そのまま通りを西へと歩き、およそ10年後に設置される百人町駅Click!(現・新大久保駅)あたりから山手線を越え、百人町へと出た。当時は、いまだ江戸期の御家人たち(鉄砲組百人隊)が栽培していた名残りである、大久保のツツジ園Click!があちこちに見られる風情だったろう。
 百人町の整然とした南北道の1本を真北へ抜けると、山手線西側の戸山ヶ原Click!(当時は山手線東側の射撃場に対して着弾地Click!と呼ばれていた)に突き当たるが、陸軍科学研究所Click!や陸軍技術本部がいまだ移転してきていない当時、戸山ヶ原へ入り斜めに横断するのは、たやすいことだったにちがいない。
 山手線の西側で陸軍が射撃演習Click!をする日は、周辺の住民や子どもたちが散歩や遊びで入りこまないよう、そのつど高い旗竿に赤旗が掲げられていた時代だ。その赤旗Click!の有無を確かめながら、八雲夫妻は戸山ヶ原を百人町から小滝橋Click!の近くまで、斜めに突っ切るように歩いていった。のちの第1次世界大戦がはじまる10年以上前の時代なので、陸軍の塹壕戦演習Click!もいまだ大規模には行われておらず、戸山ヶ原の丘陵面は掘り返された跡もなく、八雲夫妻は歩きやすかったにちがいない。



 やがて、戸山ヶ原の高圧鉄塔がつづく北西端から小滝橋通りへと出ると、できたばかりの豊多摩病院Click!の建物を目前に、牛がのんびり草をはむゲルンジー牧場Click!を左手に見ながら、ほどなく小滝橋を渡って上高田へと向かう街道(現・早稲田通り)へと入った。街道の左手には、華洲園Click!(お花畑)の切り立った崖地(小滝台Click!)があり、右手にはいまだ拡幅で崩されていない上落合の土手がつづく、切り通しClick!のような風情だったろう。それを北へカーブした道なりに西へたどると、途中で街道の右手に落合富士Click!が築かれた大塚浅間社Click!の境内をすぎるころから、上落合897番地にある落合火葬場の煙突が見えはじめたと思われる。
 しばらく歩いて、上落合643番地界隈の角を右折すると、落合火葬場が目の前に迫ってくる。火葬場を右手に見て、そのまま街道を西北西へとたどると、すぐに宝仙寺(通称・宝仙禅寺のことで、のち1922年以降は萬昌院功運寺Click!となる境内一帯)の門前へと出た。八雲夫妻は休憩がてら、宝仙禅寺の境内へ入り方丈に立ち寄っただろうか。
 宝仙禅寺をすぎると、すぐに街道は二股に分かれている。その左手の道を進むと、商店や人家が並ぶ上高田でもいちばんにぎやかな通りを経て、およそ800mほどで新井薬師の参道へ到着する。おそらく、八雲夫妻は新井薬師の門前に並ぶ茶屋で、ゆっくり休息をとっただろう。夏目漱石(三四郎Click!)は、“冒険心”を起こして帰り道を変え、新井薬師から上落合を抜けて道に迷い、下落合の雑司ヶ谷道Click!を歩きながらようやく山手線の線路土手までたどり着いているが、八雲夫妻は往路とまったく同じ道筋を帰途につき、迷わず確実に西大久保の自邸へ帰りついたと思われる。



 もし、八雲夫妻が上高田の街道沿いにあった茶店で一服していれば、あるいは宝仙禅寺で休憩がてら住職と話をする機会があったとすれば、上高田は狐狸Click!幽霊Click!の怪談・奇譚が豊富に語り継がれている地域なので、さっそく採取したのかもしれない。そして、もう少し八雲が長生きしていたら、『KWAIDAN2』が編纂されていただろうか。上高田地域に眠るフォークロア、怪談・奇譚が中野区教育委員会の手で本格的に採取されはじめたのは、八雲の死後から80年ほどたった1980年代後半になってからのことだ。

◆写真上:西大久保265番地(現・大久保1丁目)にある、小泉八雲旧居跡の記念碑。
◆写真中上は、1904年(明治37)に米国で出版された『KEAIDAN』(Houghton, Mifflin & Co./)とラフスディオ・ハーン(小泉八雲/)。中左は、1776年(安永4)に描かれた鳥山石燕『図画百鬼夜行』の「雪女」。中右は、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(文庫版)。は、いまでも「雪女」を演じて歴代最恐だと思う『怪談雪女郎』(大映/1968年)の藤村志保。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる小泉八雲・セツ夫妻の落合地域における想定散歩コース。は、梅照院(新井薬師)の山門。
◆写真下:小泉八雲が愛してやまなかった、1970年代半ばに撮影の松江の街並み。は、小泉八雲の旧居に連なる松江城北側の北堀町武家屋敷街。は、7代目藩主・松平不昧が通った茶室・明々庵から眺めた松江城の天守。は、旧盆に行われる大橋川の灯籠流し。松江大橋南詰めあたりからの撮影で、前方の橋が新しい宍道湖大橋。

おまけ:竹田助雄の「落合新聞」Click!『御禁止山』Click!を読んでいると、「下落合のヒグラシ」が頻繁に登場する。その鳴き声は、静寂な風情が感じられて好きのだけれど、夜明けから家の近くで鳴かれるととってもうるさい。w
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