1910年(明治43)ごろに描かれたとされる小島善太郎Click!のスケッチ『目白』は、どこを描いたものかが即座にわかった。小島は、1913年(大正2)に同じ坂道を坂上から坂下に向けて描いているが、ひょっとすると同作も明治末ではなく、1913年(大正2)の同時期に坂下から描いているのかもしれない。同年に、学習院Click!のキャンパスと山手線にはさまれた椿坂Click!を坂上から坂下に向けて描いた作品は、新宿歴史博物館が所蔵している小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』Click!(水彩)だ。
 スケッチ『目白』はまったく逆に、学習院の敷地に沿って独特なカーブをえがく椿坂の坂下から、山手線の線路土手とその上に建つ鉄道の施設小屋(線路工夫詰所か工具・設備小屋?など)を入れ、北北西を向いて描いている。描画ポイントがすぐに判明したのは、描かれた道路が上り坂であること、明らかに鉄道線路とみられる土手が描かれていること、その土手上に鉄道の施設小屋が建っていること(目白貨物駅Click!が拡大すると小屋数が急増する)、そして独特なカーブを描く明治期から大正初期ならではの椿坂の特長が顕著なこと……などから、画面を観たとたんにピンときた。おそらく、落合地域の地図(明治期)を見馴れている方なら、わたしと同じく即座にわかったのではないだろうか。
 椿坂の坂下が、このような湾曲したかたちになっていたのは、陸地測量部Click!が作成した1909年(明治42)および翌1910年(明治43)の1/10,000地形図までたどらなければならない。坂下が、現在のように直角に修正されたのは、少なくとも同地図が作成されて以降だとみられる。ただし、カーブの痕跡はその後もしばらく残り、1936年(昭和11)や戦後の1947年(昭和22)の空中写真でさえも、いまだに船舶試験場にかかって薄っすらと確認することができる。小島善太郎は、近くの駅名にちなみ『目白』という素描タイトルを付けているが、描かれた場所は山手線の東側、つまり高田村側へ大きく入りこんだ落合村下落合25番地(のち落合町下落合25~26番地)あたりの情景だ。
 山手線を境界に、漠然と線路の西側が下落合で東側が高田(現・目白)だと思われがちだが、小島善太郎のスケッチに描かれている山手線の線路や線路土手、その手前の土地は、ほとんどすべて下落合エリアの敷地ということになる。現在でも、山手線および東側(学習院側)の線路土手、およびそこに建っているビルClick!などの地番は、下落合2丁目25~33番地が入りこんでおり、ビル内のフロアや廊下を新宿区と豊島区の区境が横切っているケースもある。
 また、椿坂が突きあたる下の東西道、すなわち佐伯祐三Click!が1926年(大正15)ごろに描いた雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)がくぐる『下落合風景』Click!ガードClick!が設置された南側もまた、山手線をはさみ現在でも下落合2丁目が大きく入りこんでいるエリアだ。小島のスケッチ『目白』でいえば、画面の左手から背後一帯の敷地ということになる。



 当時の小島善太郎は、どのような生活をしていたのだろうか? もし、スケッチ『目白』が同じ椿坂を描いた『目白駅より高田馬場望む』(1913年)と同時期に描かれたものだとすれば、大久保の陸軍大将・中村覚邸に書生として住みこみながら、徒歩で谷中の太平洋画会研究所Click!へと通う道すがら、椿坂の上からと下からをスケッチして描いたものだろう。また、明治末に制作されたものだとすれば、1908~1909年(明治41~42)ならば浅草の醤油屋の丁稚として働き、1909年(明治42)であれば父親の野菜卸業を手伝っていたころだ。そして、同作が描かれたのは藪入りClick!で下落合の実家に帰った折りか、あるいは青物市場が休みの日に下落合を散策しながらスケッチした画面ということになる。わたしは前者、すなわち『目白』は谷中の太平洋画会研究所へと通う道すがら、中村邸の書生時代(1910年~)に描かれたのではないかと考えている。
 当時の様子を、小島敦子様Click!よりいただいた1992年(平成4)に日経事業出版社刊行の、『桃李不言―小島善太郎の思い出―』から引用してみよう。
  
 思いがけない幸運が舞い込んでくる。陸軍大将中村覚の六男に伊藤博文公の肖像画をプレゼントしたのがきっかけで、中村邸に住み込み、絵の学校へ通わせてもらう。中村大将の「わしの世話のしがいがあればじゃ」の一言がいまも耳の奥に残っている。画家を志してから二年後、小島は十八歳だった。(中略) 太平洋画会、日本美術院などで学んだ小島は、画題を、生まれ育ち、なんとも言えぬ親しさを感じる武蔵野の自然に求めた。が、自然の迫力におされ、納得のいく絵が描けない。描いては削る。削っても筆が手につかない。観察だけに終わる日々が続いた。そうした純粋でひたむきな苦悩の中で描いた一枚の絵『四ツ谷見附』が、師安井曽太郎にほめられたことで、大いに勇気づけられた。
  
 小島善太郎は、大久保の中村邸から太平洋画会研究所まで徒歩で通っていたので、山手線西側の戸山ヶ原Click!を縦断し目白変電所Click!前の田島橋Click!をわたって、下落合の丘麓に通う雑司ヶ谷道(新井薬師道)の山手線ガードをくぐり、椿坂から清戸道Click!(目白通り)へと抜けるのが、谷中への登校コースだったのではないだろうか。



 さて、『目白』の画面を細かく観察していこう。まず、右下から丘上へと伸びる上り坂が、今日では「椿坂」と呼ばれている坂道だが、当時は学習院の西側に通う坂という意味から「西坂」と呼ばれていた可能性が高い。その名残りは、学習院の「西坂門」という名称に見ることができるが、「西坂」では下落合の徳川邸Click!がある西坂Click!とまぎらわしいので、いつのころからか椿坂と呼ばれるようになったのだろう。
 椿坂の右手に繁る木々は、すでに学習院の敷地内で、中央に見えている濃い森の中には湧水池(通称:血洗池)が、清冽な水をたたえているはずだ。小島善太郎は椿坂から少し外れ、同坂を支える土塁の位置でスケッチブックを開いていることになる。左手には、山手線の線路土手がつづき、小島のすぐ左背後には山手線をくぐる雑司ヶ谷道の、イギリス積みClick!によるレンガ造りのガードが口を開けていたはずだ。
 線路の土手上に見えている何軒かの建物は、先述したように1903年(明治36)から目白貨物駅が開業すると、その数が目に見えて増えていく鉄道の施設(道具)小屋ないしは工夫小屋だ。佐伯祐三の『下落合風景(ガード)』にも、土手上の線路と同じ高さにある小屋のひとつが描かれているが、小島の画面はその建物群の一部(北側の小屋)を反対側から眺めていることになる。
 坂下がカーブする椿坂の道筋が、雑司ヶ谷道と直角になるように修正されたのは、おそらく大正の初期のころではないかと思われるが、椿坂は目白貨物駅の開設とともに拡幅工事がなされているので、もう少し早い明治末の可能性も残る。だとすれば、小島善太郎のスケッチ『目白』は『目白駅より高田馬場望む』(1913年)よりも以前ということになり、谷中の太平洋画会研究所へ通う道すがらに描いたものではなく、醤油屋へ丁稚奉公をしながら下落合の実家に帰郷した折りか、あるいは父親とともに青果市場へ野菜を運んだ帰り道に、山手線のガードの手前で寄り道をして描いているのかもしれない。
 陸地測量部が作成した1/10,000地形図では、明治末まで椿坂の坂下の形状はカーブを描いたままだが、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村全図」では、すでに直角の表現で描かれている。ただし留意したいのは、後者のような市街図は往々にして、いまだ計画中(工事予定)の道路や河川の形状を、のちの修正手間を考慮したものか、工事後の完成形を先どりして描いてしまうケースが多々見られるという点だろう。




 ひとつ目を惹いて興味深いのは、『目白』の画面には東側の線路土手に湧水の小流れを通す小さなガード、ないしは施設小屋へと上るらしい階段のようなものが描かれている点だ。この表現は、15年後に描かれた佐伯祐三『下落合風景(ガード)』の、西側の線路土手にも描かれており、線路をまたぐなんらかの施設があったことをうかがわせる。

◆写真上:1910年(明治43)ごろ制作されたとされる、小島善太郎のスケッチ『目白』。
◆写真中上は、1913年(大正2)に描かれた小島善太郎『目白駅から高田馬場望む』(水彩)。は、1909年(明治42/上)と1910年(明治43/下)に作成された1/10,000地形図にみる椿坂の坂下と、小島善太郎『目白』の描画ポイント。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる椿坂で薄っすらとカーブの名残りがとらえられている。は、坂下の雑司ヶ谷道と直角に交わる椿坂の現状。坂の左手に見えている茶色いビルの中を、新宿区と豊島区の区境がタテに横切っている。
◆写真下は、いずれも1908~1909年(明治41~42)ごろに描かれた小島善太郎『家』()と同『家並』()でともに水彩。は、1910年(明治43)に撮影された小島善太郎。は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『下落合風景(ガード)』。小島善太郎の『目白』とは、山手線をはさみ反対側から線路土手とガードを描いている。