明治末から大正期にかけ、東京各地に建設計画が持ちあがっていた府営住宅について、かなり以前に記事Click!を書いたことがあった。東京府がはじめた府営住宅制度は、今日の都営住宅のような低家賃で家屋を賃貸する制度とはまったく異なり、マイホームを建てるための積立準備貯金・返済制度のような仕組みが中心だった。
 下落合に建設された、落合第一府営住宅と第二府営住宅は各戸の敷地が100坪前後あり、建てられている住宅も大きめで、それぞれバラバラな意匠をしている。つまり、府営住宅制度を利用していた府民が、それぞれ自分好みの設計デザインで持ち家を建てた……という経緯だった。和館もあれば和洋折衷館もあり、ときには南側に接する目白文化村Click!の西洋館と見まがうような仕様の住宅も建設されている。
 東京府の府営住宅制度を利用するためには、東京府住宅協会の会員として登録しておく必要があった。会員には「甲種会員」と「乙種会員」の2種類があり、甲種会員は10年から15年後に建設した自邸の所有権を獲得することができ、乙種会員は持ち家ではなく賃貸契約のまま借りられる規定になっていた。だが、実際に登録した会員は甲種会員がほとんどで、乙種の会員は異動・転勤族や一時的な住まいなど特殊な事情だったようだ。1920年(大正9)の登録申し込みの割り合いをみると、甲種会員が85%に対して、乙種会員はわずか15%にすぎなかった。
 府営住宅に住んだ住民については、1922年(大正11)に東京日日新聞が行った、落合府営住宅の151軒にわたる職業調査によれば、官吏が61棟、会社員が49棟、教師が14棟、新聞記者が9棟、弁護士が1棟、その他が14棟(未回答棟数は除く)となっており、府営住宅制度の利用者がおしなべて堅い職業で、高めの給与をもらい積立貯金が可能な当時の「中産階級」だったのがわかる。それは、同時期に東京市内の各地へ建てられた、おもに低所得者層を対象とした東京市営住宅とは、まったく異なる目的で企画された、府営住宅の一戸建て持ち家制度だった。
 ところが、大正期も半ばをすぎると、会員のニーズに大きな変化が表れたようだ。新聞紙上には、新たな府営住宅の竣工を知らせる記事とともに、入居希望者を募集する告知が掲載されるようになる。つまり、甲種会員ではなく、乙種会員のニーズが高まったことを背景に、東京府住宅協会があらかじめ一戸建て住宅を建設し、賃貸で入居者を募集するケースが急増したのではないかと思われる。それは、無理して持ち家を建てるよりも、借家住まいのほうが経済的で楽だと考える、勤労者層のライフスタイルが変化したせいもあるのだろうが、勤め人(サラリーマン=ホワイトカラー)の急増で、異動や転勤を考慮した柔軟性のある住まい探しがはじまっていたことをうかがわせる。



 1921年(大正10)9月6日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 府営住宅竣成/落合と世田ヶ谷
 府下落合村(三、四号地)及世田ヶ谷村に建設中の府営住宅は今回略ぼ修正したるに付各申込者に就き近く抽籤の上会員を決定すべし住宅種別建設戸数等左の如し
 △落合
      戸数   申込数
 四室   一二    一四
 五室   二七    二四
 六室    五    一八
 七室    四    三六
  計   四八    九二
 (以下略)
  
 この時期に、落合府営住宅の第三府営住宅および第四府営住宅が竣工したのがわかる。第三府営住宅は、大正初期にすでに竣工していた第二府営住宅のさらに西側、つまり第一文化村の北西側一帯のエリアであり、第四府営住宅は第一文化村の西側に接した、他の府営住宅地に比べると相対的に小規模な住宅地だった。
 この記事によれば、東京府住宅協会の乙種会員であっても、希望すれば全員が入居できるわけではなかったことがわかる。入居は抽選であり、落合府営住宅の場合は建物の間取りにもよるが、全体の倍率が2倍近かったことがわかる。ちなみに、世田ヶ谷府営住宅も140戸に対して206人の申し込みがあり、競争率は1.5倍近くになっている。




 住宅の種類もバラエティに富んでいて、たとえば「四室」とあるのはキッチンや玄関室、納戸、洗面所、テラスなどを除いた、純粋な部屋数だと思われる。「七室」はかなり大きな住宅だとみられ、今日でいえば6LDKぐらいの感覚だろうか。しかも、落合府営住宅のケースでは大きな住宅ほど人気が集中し、「六室」が競争率3.6倍、「七室」が同9.0倍と非常に高かったことがわかる。
 読売の記事が掲載された1921年(大正10)は、いまだ目白文化村の第一文化村開発Click!はスタートしたばかりで、森を伐採したり畑地をつぶす整地作業がつづいていただろう。目白通りに面した土地を、府営住宅建設予定地として東京府に寄付した箱根土地Click!堤康次郎Click!にしてみれば、大正初期の落合第一・第二府営住宅の建設とともに、目白通りへダット乗合自動車Click!の路線も引けたことだし、そろそろ郊外遊園地「不動園」Click!をつぶして、文化村の建設へ本腰を入れはじめた時期にあたる。
 下落合の中部(現・中落合エリア)では、次々と竣工する東京府の府営住宅とともに、箱根土地による目白文化村の造成が報じられ、下落合の東部では東京土地住宅Click!によるお屋敷街・近衛町Click!の開発が新聞紙上へ大々的に発表され、さらに下落合の西部では同社による画家のアトリエを中心としたアビラ村(芸術村)Click!計画が公表されて、大正期のモダンな郊外文化村ブーム、あるいは田園都市ブームの到来を予感させていた。
 自身の職業が、従来はほとんど存在しなかった新しいサラリーマン=ホワイトカラーという、先端の仕事に就いていた人たちは、それに見あうモダンな衣食住の生活を求めて、江戸期からつづく古いコミュニティ的なしがらみや慣習の少ない、郊外に建ちはじめた文化住宅街に注目しだしたのだろう。特に郊外文化村での、健康的な田園生活が注目を集めだした大正中期の状況でいえば、山手線・目白駅Click!あるいは高田馬場駅Click!からほど近い落合地域(昭和初期になるとさらに西の荻窪Click!国立Click!など)と、山手線・目黒駅から東急電鉄で通える洗足田園都市Click!(昭和初期になるとさらに外れの多摩川べりにあたる田園調布Click!)の人気が、ことさら高くなっていったとみられる。



 ただし、落合と洗足ふたつの文化住宅地ともに、西洋館を主体とした比較的大きめな家々が数多く建ち並び、当時としてはかなりの高給を得ていたサラリーマンでなければ、住宅を建てることも、また家を借りることもむずかしかったかもしれない。実際に入居している勤労層を調べてみると、官吏や会社員ともに上級管理職や役員クラスが目につく。また、落合地域では「文化村」や「アビラ村(芸術村)」というネーミングのせいか、府営住宅を含め画家や彫刻家、作家、音楽家など芸術家の多いのが大きな特色となった。

◆写真上:落合第二府営住宅跡の街並みで、戦後はほとんどが一戸建て個人住宅になっている。2006年の写真だが、右手に竹田助雄Click!の写真製版所が見える。
◆写真中上は、1921年(大正10)9月6日の読売新聞に掲載された落合第三・第四府営住宅竣成の記事。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる落合第一・第二府営住宅。は、落合第二府営住宅跡の現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)の同事情明細図にみる落合第三府営住宅(上)と落合第四合営住宅(下)。は、第三府営住宅跡(上)と第四府営住宅跡(下)の現状。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第一・第二・第三・第四府営住宅。は、1941年(昭和16)にめずらしく斜めフカンで撮影された空中写真にみる落合府営住宅の最終形。1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲で、第一・第二府営住宅は全滅、第三・第四府営住宅はその一部分が焼失した。