下落合623番地の曾宮一念Click!は、昭和に入るとしばしば体調を崩して病臥している。特に特定の病気に罹患していたわけではなく、体調がすぐれずに絵画の制作が困難な状況のようで、やや鬱の気配さえ読みとれるような症状だ。
 最初の大きな身体の不調は、1927年(昭和2)2月に「美術新論」へ発表するために、『中村彝の作品とその変遷』を脱稿した直後からで、兄事していた中村彝Click!の仕事とその死をふり返りながら、気持ちが徐々に沈みこんでいったせいなのかもしれない。同原稿は、中村彝が影響を受けたヨーロッパや東洋の画家たちの仕事と、彝の作品とを年代順に重ねあわせながら、その仕事を生涯にわたってたどるような構成で、曾宮一念にしてはめずらしい内容の原稿だった。
 この原稿を書いた直後から体調を崩し、曾宮一念は友人の会津八一Click!の勧めで長野県の山田温泉へ静養に出かけている。だが、体調の悪さはあまり回復せず、温泉からの帰途に宮芳平Click!を訪ねたところ、彼の紹介で富士見高原療養所Click!へすぐに入所している。その後、何度か入退院を繰り返しながら、翌1928年(昭和3)の9月中旬まで、長野県富士見町と下落合の間を往来していたようだ。曾宮一念が、34歳から35歳にかけてのころだった。
 同年9月に、新聞紙上で佐伯祐三Click!の「遺作展」記事を見たのも、下落合ではなく富士見高原療養所だった。でも、曾宮一念はその記事を「遺作展」だとは思いもせず、パリでの仕事ぶりを紹介する「滞欧作品展」だと勘ちがいしたまま療養所を退所している。東京の自邸にもどり、綾子夫人から佐伯の幽霊Click!が訪ねてきたことを聞き、初めて佐伯がパリで急死したことを知った。
 この年、東京美術学校Click!の同窓生たちが曾宮一念の健康を心配して、熊谷守一Click!安井曾太郎Click!らに協力してもらいつつ、扶助組織「一念会」を設立している。彼らの作品を1点ずつ持ちより、60点ほどの作品頒布会を新宿紀伊国屋書店の2階で開いて、約1,700円の売り上げを曾宮にとどけている。身体が思うようにいうことをきかず、仕事ができない曾宮一念にしてみれば、涙が出るほど嬉しかっただろう。この間、静養のために夏は八ヶ岳で冬は伊東ですごし、下落合では会津八一に油絵を教えている。
 その後、曾宮は少しずつ健康を回復していくが、再び1936年(昭和11)から翌年にかけて大きく体調を崩している。だが、今度は体調がどのような状態であろうと、絵を描くことも原稿を書くことも止めなかった。曾宮一念が病臥していた1937年(昭和12)6月に、下落合のアトリエを俳人の水原秋桜子が訪ねて5句の作品を残している。1937年(昭和12)発刊の「美術」9月号に掲載された、水原秋桜子『曾宮一念を詠む』から引用してみよう。
  
 罌粟咲かせ病かなしき人臥たり
 庭の花畠に罌粟(ケシ)が美しく咲いてゐる日であつた。画室の次ぎの室のベツドに画家はいつものとほり臥(ね)てゐたが、臥ながらも罌粟の花はよく見えるのである。私はまだ絵を描くほどに健康が回復せず、この好画材を見てゐる画家の心持を考へて見た。さうして句は出来あがつた。/しかし、この「病かなしき」には注釈を付ける必要がある。一般に病かなしきと言へば、それは癒る見込のすくない病気を指すことになる。しかし曾宮君の場合は決してそんな病気でなく、現にもう夕方は起きてゐて、僕の友人のN君が「秋からはすこし絵を描いても大丈夫です」と保証してゐるほどなのである。/ところが曾宮君は実に用心深く、規律的に摂生を守つてゐて、専門家のN君の保証をなかなか用ゐさうにもない。私はこれほど規律的に病床生活をする人をはじめて見て驚いたのであるが、実に曾宮君のはいたいたしいほど細心である。ある時は病を愛してさへゐるやうにも見える。かういふ心持を俳句で表現すると「病かなしき」といふことになるので私自身としてはこの句は会心の作と言つてもよい。(以下詠4句)
 描くべく咲かせし罌粟に人臥たり/あまつ日に罌粟は燃えつゝ人臥たり/花甕の罌粟むらさきに人臥たり/罌粟剪りて我にくれつゝ人臥たり
  


 「人臥たり」ばかりで、かなり重症のような句作だが、曾宮一念はむしろ前々年の1935年(昭和10)から、絵にしろ文章にしろ多作期に入っていた。綾子夫人との離婚から5年たち、同年にはせつ夫人と再婚した曾宮は、新婚生活を送っている最中だった。
 二科会を退会し、独立美術協会Click!の会員になったのもこの年からだ。1935年(昭和10)から1937年(昭和12)にかけ、曾宮は次々と作品を発表し、体調がすぐれないときは美術誌などに随筆を書きつづけている。その合い間には、俳句を詠むことも忘れなかったようだ。つまり、体調が悪かったにもかかわらず、創作意欲はきわめて旺盛だった様子がうかがえる。
 曾宮一念が画家とは別に、エッセイストとして活躍するきっかけとなった初の随筆集『いはの群』は、1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版されている。同書の冒頭で、曾宮アトリエの庭に造ったケシ畑が登場しているので引用してみよう。
  
 それまでにひなげしは作つてゐた。ひなげしよりも大形の花げしと呼ばれる茎葉の白緑な、花は一重八重さまざまで中には焔の如く肉芽の如きものの咲いたのは昭和六年の初夏からである。はじめて出て来た蕾のほころびかけるのを待つて毎日スケッチをして、花の終る頃になつて褐色の葉に奇怪な花を咲かせた「けし畑」を作ることが出来た。その翌年は眼を傷めてゐる間に全く枯れ朽ちたので倒れたまゝ花草の残骸を画にした。それ以来毎秋十月には種子を播き霜除けを作るのが行事となつてゐる。秋に霜除(実は霜には強いので雪除けに役立つ)をしてやるのと翌春うろぬきをするほかに手のかからぬこの花は不精者の私に全く適当してゐた。この二種類の罌粟を播いてをけば五月からひなげしが咲き、これにつゞいて六月一ぱい大形の花げしを楽しむことが出来るのである。
  


 1937年(昭和12)には、「絵の腕を磨かずさ、こいつらいってえなにやってんだよう!」と、独立美術協会のポスト争いや派閥争いに嫌気がさしてサッサと脱会し、宮田重雄Click!に誘われるまま国画会へと参加している。医師で画家だった宮田重雄もまた、句作の趣味をもっており、のちに俳人としても知られるようになる。
 水原秋桜子の『曾宮一念を詠む』が掲載された、「美術」9月号が書店に並んだころ、曾宮はカリエスの疑いで再び富士見高原療養所へ入所している。そこでは、毎日窓から見える山や雲をスケッチしつづけ、のちに独自の風景画を描くようになるベースが、このとき1年間の療養生活で育まれたとみられる。
 水原秋桜子がアトリエで見た曾宮一念の様子を、もう少し引用してみよう。
  
 しばらく話してゐるうちに、曾宮君は庭の罌粟を剪らせ、それを紙につゝんで私へおみやげに呉れた。この時のことは随筆に書いて東日(東京日日新聞)に載せたが、わたしはしみじみ君の厚情をうれしく思つたのであつた。かういふことはまだ短い年月しかたゝぬ交りの中でも、何度かあつたことで、そのたびに私は家に帰つて花を花瓶に挿し、それを句に詠むことを常とするのであつた。この罌粟も一週間ほど花瓶に咲いてゐた。/これで私の俳句は終りであるが、曾宮君も亦近頃はをりをり句を詠む。さすがにものゝ観方が鋭く、それに要領もいゝので忽ち上達してしまひ、これも最近作句しはじめた宮田重雄氏と好敵手である。/それに曾宮君はいつ行つても必ず本を読んでゐる。これは病閑を慰める意味もあるだらうが、それよりも画心を深める上に期するところがあるのではなからうかと私は考へてゐる。病床一年の読書と思索とが、この画家の画境をどう転換させるか、これは勿論私一人だけの期待でなく、画壇全体の期待であるにちがひない。
  
 
 
 翌1938年(昭和13)は絵画作品こそ少なかったものの、3月には初の随筆集『いはの群』と、12月には美術工芸会より『曾宮一念作品集(3)』が出版されている。水原秋桜子が想像したように、精神生活ではずいぶん充実した時期だったのではないだろうか。

◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、庭に咲くケシを描いた曾宮一念『けしの花』(ペン)。
◆写真中上は、素描淡彩の曾宮一念『けし畑』。は、富士見高原療養所。
◆写真中下は、同時期の曾宮一念『けし畑』(ペン)。は、戦後にスケッチ場所を探しながら鹿児島県桜島の溶岩道を歩く曾宮一念。
◆写真下は、1938年(昭和13)に初の随筆集として出版された曾宮一念『いはの群』(座右宝刊行会)の函()と目次()。よほど気に入っていたのか、「けし畑」が文頭に掲載されている。下左は、1934年(昭和9)に下落合のアトリエで撮影された気だるそうな曾宮一念。下右は、曾宮の親しい友人だった画家で医師、俳人、俳優だった宮田重雄。