前回、自由学園高等科の女学生たちが実施した社会調査レポート『我が住む町』Click!から、1925年(大正14)2月の時点で高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在していた、すべての商店について記事Click!にしたが、今回は同町で操業していたすべての工場や事業所についてご紹介してみたい。
 実は、自由学園の女学生たちは1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後から、ボランティアで被災者の家庭や避難者に牛乳を配給したり、「フトンデー」といって被災者に寝具を配布したりして、高田町ではかなり知られた学校だった。だから、翌々年の1925年(大正14)に全町調査をした際も、親切にしてくれる家庭は多かったようだ。たとえば、工場街を調査した女学生は、こんなことを書いている。
  
 地面は大変広い所でしたが、大きな工場が沢山あつて家数は少うございました。随分ひどい家に住んで居る方が多うございました。焼け跡のトタンの焼けたのを集めて住んで居る人もありました。屋根に頭のとゞく様な低い暗いきたない小さな家に住んで居る人もありました。表は茶めし屋で裏に行つて見るとまあ何と言つたらばいゝのでせう、其のきたない事と言つたらばこんな家の茶めしなどを食べたら大変です。戸を開けるとブーンと臭い香がして来て気持悪くなつた事も度々ありました。けれども一番嬉しかつたのは、皆さんがよく親切に教へて下さつた事でした。そしてもつともつとこの町をよくして下さいと言つて下さいました。
  
 全戸訪問のレポートを読むと、彼女たちは大きな屋敷に住む住民よりも、中小の家々に住んでいた住民たちから親切にされたケースが多いようだ。
 さて、同年に高田町で操業していた製造業や工場の様子を見てみよう。

 江戸友禅や小紋、藍染めなど染色業Click!にかかわる事業所が目立つが、これらは旧・神田上水(1966年より神田川)沿いのエリアが多いのだろう。「ねりぬき屋」は、絹織物を製造する事業だが、それに図柄をほどこす「刺繍屋」も3軒記録されている。
 ほとんどが和服に関する工房だが、かんざしや笄を製造する「錺屋」が8軒も営業をつづけている。いまの若い子は知らないだろうが、下駄は使っているうちに歯が地面に擦れて減っていくので、それを入れ替える「下駄歯入れ屋」も9軒が営業していた。傘は、修理の専門工房があったようで「傘直し屋」が3軒、当時の靴下はメリヤス編みで高価だったせいか、穴の開いたものを直す「靴下かがり屋」が営業しているのも面白い。
 つづいて、家内制手工業的な工房ではなく、規模の大きな工場を見てみよう。

 この中で、「製パン工場」が1軒とあるのは、山手線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が交差するあたり、高田町雑司ヶ谷池谷戸浅井原838~843番地に建設された、東京でも最大規模の東京パン工場Click!のことだ。大正の当時、東京西部に点在していたパン屋や喫茶店では、その多くが東京パンの製品を仕入れ販売していた。画家たちが、デッサンで木炭消しに使っていたのも東京パン製が多い。
 旧・神田上水沿いには、大正期に入ると「製薬工場」(4軒)や医療衛生品工場(5軒)、印刷工場(3軒)などが急増している。これらの工場は(染織工場もそうだが)、より下流の江戸川Click!(大洗堰Click!舩河原橋Click!)や神田川(千代田城外濠~柳橋Click!)沿いから、水のきれいな上流へと移転してきたものだ。


 つづいて、住宅や建築に関連する事業所を見てみよう。

 1925年(大正14)の時点では、いまだ西洋館よりも日本家屋の建築に関する職業が多いようだ。ただし、手先が器用な指物師や表具師は、洋館向けの家具や調度でも、見よう見まねでこしらえてしまったにちがいない。「やすり屋」(3軒)や「鋸めたて屋」(2軒)は、おもに大工道具や工作道具のメンテナンスを行う作業場だったのだろう。
 「ポンプ屋」が6軒記録されているが、これは井戸から水を汲みあげる上水ポンプClick!の設置を手がけていたとみられる。また、変わったところでは「煙突屋」が1軒採取されているが、銭湯や工場の煙突建設や保守を請け負った会社なのだろう。
 次に高田町に散在していた、さまざまな事業所を見てみよう。

 籐椅子など藤製の家具やバスケット、雑貨を制作する「藤細工屋」が6軒も開業していた。「貝細工屋」は、貝の螺鈿(らでん)などを用いて茶箪笥の扉や文箱、硯箱、棗(なつめ)などに装飾をほどこす工房だ。また、「鍛冶屋」が43軒も開業していたのが驚きだ。刃物や大工道具など、新興住宅地らしく工作用の道具のニーズが高かったのかもしれない。あるいは、昔ながらの農具を製造した農村時代の名残り(いわゆる「野鍛冶」)が、そのままつづいていたものだろうか。
 一方で、江戸時代とまったく変わらない職業も継続していた。「桶屋」の16軒をはじめ、「樽屋」が5軒、「提灯屋」が3軒、「水引元結屋」が4軒、「蝋燭屋」が1軒などだ。もっとも、「桶屋」は住宅の風呂や銭湯での需要があり、「樽屋」は漬け物屋や造り酒屋などで、「提灯屋」は寺社の縁日や祭礼で、「蝋燭屋」は寺社や家々の仏壇でそれぞれ変わらぬニーズがあったのだろう。
 いまでも、このあたりで見かけるのは、活版ではなくオフセットか大型プリンタになった「印刷屋」に「印版屋」(ハンコ屋)、いまでは出力サービス店や文房具店に吸収されてしまった「紙札屋」(名刺屋)、そして「らを屋」だろうか。「らを屋」(ラオ屋)は、煙管(きせる)の羅宇のヤニ取りや、雁首・吸口の修繕をする仕事だが、たまに下落合にある目白通り沿いの刀剣店「飯田高遠堂」さんの前へ、小型トラックでやってきてはピーーッという高圧蒸気の音を響かせている。最近は、パイプの清浄などもしているようで、それなりに需要があるのだろう。


 最後に、以上の業種には含まれない、専門業務の施設を見てみよう。

 まず、このあたりに病院・医院と床屋が多いのは昔もいまも変わらない。特に落合地域の歯科医院Click!は、下落合の第二文化村Click!島峰徹Click!が住んでいたからかどうかは知らないが、50~100mおきぐらいに開業している。33戸で1店の菓子屋を支える、大正末の高田町のような状況だが、ちゃんとマーケティングをしてから開業しないので、数年で閉院する歯科医も少なくない。
 当時の住宅は、風呂場がないのが通常なので、「浴場業」(銭湯)の21軒は決して多い数ではない。男性の「理髪店」は51軒だが、女性の「美容術屋」Click!(美容院)が高田町でたった1軒しか開業していない。そのぶん、日本髪を結う昔ながらの「髪結い」業が31軒も残っている。高田町の女性たちは、洋風の生活をしようとすると髪を切りに、あるいは電髪(パーマ)をかけに1軒だけしかなかった美容院へ出かけるか、あるいは自分で鏡を見ながらカットしていたのかもしれない。自由学園の女学生たちは洋装だが、髪は自分で切るか親に切ってもらっていたのだろう。
 昭和も近い1925年(大正14)の高田町だが、規模の大きな工場や企業が進出してくる一方で、江戸期とまったく変わらない商品を製造しつづけている小規模な事業所や工房が、ずいぶん残っていたのがわかる。住民の生活も、昔ながらの和様式のものと、文化住宅の洋風な暮らしとが混在しているのが、さまざまな事業所や商店の記録から読みとれる。



 さて、自由学園の女学生たちが訪れても、なんの事業をしているのかがわからなかった「不明」の事業所が12軒ある。彼女たちは何度か足を向けているようだが、事業所内には誰もおらず、業種や業務内容が不明だったところだ。たまたま長期不在で留守だったか、よそに移転して空き家だったか、あるいは廃業した事務所だったのかもしれない。

◆写真上:空襲で焼けなかったエリアでは、いまでも残る「東京パン」の商店看板。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・神田上水沿いの工場。は、1937年(昭和12)に撮影された目白崖線(遠景の丘)下に拡がる工業地域。
◆写真中下は、戦時中の1944年(昭和19)ごろ制作の池袋に建っていた工場を描いた松本竣介Click!『工場(池袋)』。は、同作の鉛筆スケッチ。
◆写真下:1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)巻末に収録の、各種工場や医院などの広告群(一部)。多種多様な工場や事業所、企業が広告を出稿しており、現在では大正期の高田町を知るうえでは願ってもない資料だ。