自由学園Click!高等科2年の奥村數子は、お菓子屋のガラス戸をガラリと開けて入った。さっそく「いらつしやいませ」と声がかかったが、相手が自由学園の女学生Click!による取材だとわかると、あからさまにイヤな顔をされたらしい。調査員の女学生がいつ顧客に、しかも近所のお得意になるかわからない……というような想像力は、この菓子屋の主人にはなかったようだ。
 奥村數子の文章によれば、「向ふではお客様だと思つたのに邪魔な者が飛び込んだなと云ふやうな顔をした」と書いているので、最初から自由学園の町内調査Click!を快く思っていなかった店らしい。それでも、女学生からの質問にはしぶしぶと答えているようなので、「米屋」Click!の記事に登場した本科1年生の女子いわく、「このうち変なのよ。怒つてるの」の床屋のように、断固とした調査拒否ではなかったようだ。
 以下、菓子屋の主人とのやり取りをそのまま再現した様子を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『お菓子ですか、それは製造元から問屋にやり、問屋と小売との間に仲買と云ふものがあつて、その手を経て私等の所に来るんです。』
 『それなら仲買と云ふものはどの位手数料を取るのですか。』
 『まあその物の五分ですね。』
 『仲買の手を経ずに直接問屋に買ひに行くことは出来ないのですか。』
 『小売商が直接行つても、そんなに安くはしてくれません。結局同じで、仲買からとる方が手間だけ徳(ママ:得)な訳です。唯現金で買ふのが徳(ママ)なだけです。手前共はすべて現金です。』
 『お宅では何が一番売れますか。』
 『矢張り餅菓子類ですね、その餅菓子類はすべて自家でつくります。餅菓子類なんかはアンコが第一ですからな。この近所では家のアンコがいゝと云つて、毎日沢山買ひに来て下さいます。それは手前共の自慢なのです。』
  
 主人は、一般的な菓子の仕入れルートについて説明しているが、現在ではこのルート自体が崩壊しつつある。製造元から、問屋や仲買を経由しないでいきなり小売商にとどけられたり、菓子の種類によっては製造元から直接消費者に配送されるルートがあたりまえになりつつある。ネット通販の普及で、一気に「中抜き」販売が拡大したからだ。
 ただし、主人も会話の中で触れているが、その店ならでは餅菓子類をはじめとする日もちのしない自家製菓子は、その店まで出向かないと手に入らないので、和洋を問わず菓子店がなくならない大きな理由なのだろう。レコード屋や取次店を含めた本屋はネットに駆逐されそうだが、オリジナルな和洋の菓子屋は消費者の嗜好が大きく変わらないかぎり、これからも営業しつづけるにちがいない。
 わたしは、それほど甘い和菓子は進んで食べるほうではないが、下落合で美味しいと感じた店は、残念ながら創業100年で閉店してしまった学生時代からお馴染みの「ますだや」Click!さんと、目白文化村Click!とともに歩んできた第一文化村西端に開店している創業84年の「千成」Click!さんだ。いずれも、桜餅Click!の仕上がりが秀逸だった。


 さて、菓子屋の主人と女学生との間で、餅菓子の「古い新しい」の話題がでたところで、すでにご紹介Click!している「お客様と云ふのは案外人のよいもので……」という、商売上手な主人の言葉がつづくことになる。他店よりも、値段を高くすると「手前共のはアンコがいい」と“付加価値”らしきことをいえば、消費者は納得して買っていく……というくだりだ。同業の他店に比べ、少しぐらい値段を高くしても、お客は「買ひつけた店を好むものですよ」という主人の答えに、女学生は物価が高い高いといいながら高田町民は「それに甘んじて居るのですね」と半ば呆れている。
 自家製の和菓子に対し、製菓工場でつくられたビスケットやキャラメルは、その店ならではの“付加価値”トークがまったくできないので、「一番つまりません」と答えている。自家製の菓子が2割前後の利益に対し、既製品の菓子は5分のもうけがせいぜいだったらしい。つづけて、菓子屋の主人の話を聞いてみよう。
  
 『利益は物によつて違ひますが、まあ二割ですね。餅菓子類ですと五銭の物なら、一銭五厘は口銭ですからなあ、でも二割と申しましてもその中に袋代やなんか引かれますし、結局一割八分位でせう。』
 売上げ額のことをきくと、/『さあそいつは困りましたなあ、今頃はまあいゝですが、夏場になると上つたりですよ、餅菓子類なんか腐りますからね。』
  
 主人の話で面白いのは、以前にも引用した「探偵」を使って他店の菓子(新製品)を探らせることが、頻繁に行われていたらしい点だ。

 ある店ならではの、オリジナルの菓子が開発されると、さっそく「探偵」を雇い調査・購入させて新製品を研究し、すかさず同様の菓子を店頭に並べていた。この製品コピーのケースだと、他店よりも安く売ることで利益を上げていたようなのだが、せっかく苦労してアイデアを練り新製品を開発した店では、たまったものではなかったろう。
 高田町で開店していた菓子屋は、駄菓子屋も含めると214軒にものぼり、1軒の菓子屋につきわずか33戸の家庭が支えていたことになる。そのような競合市場では、少しでも製品やサービスをよくして、他店との差別化を図るのが商売上の基本だが、差別化を試みるたびに他店から模倣されていたのでは健全な競争にはならない。どこの店へ入っても、同じような製品やサービスだったら目新しさや新鮮さがなくなり、やがて消費者は飽きてしまうだろう。
 遠からず高田町の菓子屋は、店舗の蝟集環境から共倒れになるか、再び新天地を求めてより郊外の街への移転を考えた店も、少なからずあったにちがいない。女学生が取材した店が、その後どうなったのかは不明だが、より美味しい菓子を開発して客数を増やしたいというプロ意識ではなく、「優しくて素人にも出来る」商売だからとこぼす主人の様子から、ほどなく高田町から淘汰されてしまったような気がするのだ。
 「夏場になると上つたり」と答える主人だが、当時は電気冷蔵庫や冷凍庫が個人商店では容易に導入できないので、ことに夏季には今日の菓子屋のように、バラエティに富んだ涼しげな製品を店頭に並べることがむずかしかった。いまでもそうだが、暑い盛りに熱いお茶とともにアンコが入った餅菓子を食べたいとは、誰も思わないだろう。


 アイスクリームやかき氷が、高級喫茶店やホテル、レストランだけでなく、街中にある菓子屋の店先でふつうに食べられるようになり、「夏場になると上つたり」な状況を解消できるのは、もう少し時代が下った昭和に入ってからのことだ。さて、次回は店舗インタビューの最終回、高田町の大きな「荒物屋」を訪ねた女学生の取材をご紹介しよう。
                                  <つづく>

◆写真上:大正期の羽仁吉一・もと子夫妻の邸跡に建つ婦人之友社。
◆写真中上は、大江戸の向島は隅田堤で有名な元祖サクラ餅の「長命寺」Click!は、神田と日本橋の境を流れる龍閑川(暗渠化)に架かる今川橋のたもとで1770年代に発明された「今川焼き」。幕末から明治期にかけ、江戸東京から全国に広まった。
◆写真中下:いまも昔も見つけると、子どもたちが突撃する駄菓子屋の店先。
◆写真下は、下落合の近衛秀麿Click!が自由学園に依頼して結成された日本初の本格的な女声合唱団。近衛秀麿指揮+新交響楽団Click!+自由学園で、交響曲第9番(ベートーヴェン)や天地創造(ハイドン)、交響曲第3番(マーラー)、「イゴール公」(ボロディン)、「大礼交声曲」(近衛)などが東京各地で毎年演奏された。なお、自由学園の校歌『自由を目指して』は近衛が作曲している。は、1927年(昭和2)に撮影された音楽の授業風景。