1923年(大正12)9月1日、竣工から1年と2ヶ月がすぎた自由学園Click!の新築校舎は、未曽有の揺れに襲われた。この年の4月、自由学園で2年間をすごした高等科の第1回卒業式が行われ、卒業生のために研究科(大学の専門課程に相当)が設置されている。また、食堂Click!には帝国ホテルClick!で上演した舞台Click!の収益金をもとに、遠藤新Click!が設計したテーブルやイスが一式そろった。海外からの来園者も多く、植物学者のハンス・モーリッシュやポーランドのルビエンスキー伯爵らが来園し講演している。
 これまで、落合地域をはじめ高田町Click!(山手線内側の雑司ヶ谷エリア)や戸塚町Click!など周辺域も含め、関東大震災Click!のときの状況を少しずつ書いてきたが、今回は山手線外側の高田町雑司ヶ谷界隈(旧・雑司ヶ谷6~7丁目=現・西池袋)にある自由学園の記録をベースに、震災時に活動した女学生たちの様子をご紹介したい。
 夏休みが終わろうとする直前に起きた大震災のとき、羽仁夫妻は軽井沢で静養中だった。まず、9月2日に羽仁吉一Click!が東京にもどり、つづけて5日には羽仁もと子Click!が帰京している。武蔵野台地の一部である豊島台の上は、平地部に比べ揺れが少なかったとみられ、自由学園でも被害はほとんどなく、校舎の窓ガラスが1枚割れただけだった。近くに住む本科の生徒や高等科の女学生たちは、校舎の無事を確認するために集まってきたが、大震災から1週間をすぎるころになると、市内の電車が全面ストップしているため、東京各地から弁当持参でキャンパスめざして歩いてくる女学生たちが増えはじめた。9月11日に予定されていた始業式(実際は中止されていた)には、40人前後の女学生たちが集まったが、全員が寝不足と食糧不足で栄養失調のような容姿だったという。
 東京じゅうの学校が休校になる中、4月16日(日)に山手線が開通する見通しになったのをきっかけに、自由学園は日曜であるにもかかわらず始業式を敢行している。当日、山手線が運行をはじめているのを知らず、友人同士が誘い合って早朝から昼ごろまでかかり、学園まで延々と歩いてくる女学生たちも多くいたようだ。この日、登校できたのは60人余で、地方に帰省している女学生は始業式に参加できなかったが、本科の生徒と高等科の女学生たち在校生全員の無事が確認された。
 日曜日の始業式は、2学期に予定された学習のスタートではなかった。翌日から震災の報告書づくりにかかり、9月18日からの1週間、女学生たち全員が震災体験レポートを発表している。中には、北海道からひとりで汽車や船を乗り継ぎ、不通の路線は歩いて自由学園にたどり着いた本科1年生(おそらく13歳前後)のレポートもあった。報告会のあと、2学期をどのようにすごすべきかが話し合われ、午前中の時間は授業に使い、その他の時間はすべて大震災の被災者に対する支援活動にあてることが決議されている。
 まず、彼女たちは「常務」「整理」「奉仕」の3つの委員会を設置し、全学生の担当を決めている。常務委員会は、学園内のさまざまな事務処理や連絡業務、情報収集を担当するグループで、学校機能を回復し維持継続させるCPUやネットワークのような存在だった。整理委員会は、大震災で破損した器物の整理や補充、学園内に設置された避難室の秩序維持、購買・仕入れなど渉外業務、学園外の組織との外交などを担当している。そして、奉仕委員会は被災者の支援を行うため多くの女学生たちが所属し、「着物づくり」「布団づくり」「ミルク配り」「給食づくり」などを行っている。特に「ミルク配り」は被害が大きかった本郷地域で、「給食づくり」はほぼ全滅した被服廠跡Click!も近い本所地域の現場で、100日間つづけて実施されている。


 これらの活動の経費は、すべて自由学園が行った募金活動や、羽仁夫妻が主宰する婦人之友社が集めた義援金でまかなわれた。また、被災者支援が本格化してくると、午前中の授業もつぶして早朝から支援活動に入る女学生たちも少なくなかった。その中には、本郷地域で行われていた「ミルク配り」がある。自由学園では東京市社会局と連絡をとって、コンデンスミルクの大缶を被災地の警察署に配送してもらい、地域で赤ん坊がいる家庭に配りはじめた。1985年(昭和60)に自由学園女子部卒業生会から出版された、『自由学園の歴史 雑司ヶ谷時代』所収の「ミルク配給の記」から引用してみよう。
  
 朝八時には体操服に『東京聯合婦人会』と書いた腕章をつけた二十人ばかりが集まってくる。そしてその日のミルクを受取ると、四班に分かれてめいめいの持場所に出かけてゆく。一軒ずつ訪ねてゆくうちに赤ちゃんをみかけると嬉しくて、調査票に書きながら、何といってふろしきからミルクを出してあげようかと、お母さんの顔をちょっと見上げる。赤ちゃんを笑わせてみたくなる。『この辺は火が早うございましたのでね』と忘れていたあの日の話までがおかみさんの口から出るほど親しくなってしまう。(中略) 一週間たつ頃には、私たちを見つけて『お母さん、おっぱいがきた』と駆けてゆく子、『昨日から娘が悪くて寝ておりますが、ミルクを頂けませんかしら』といってくるおかみさんもあった。『赤ん坊があったのですが、乳がなくて二日ばかり前に亡くなりました』と話したお父さんを心から慰めてあげられた時に、この仕事の尊さをはっきり思った。
  
 女学生たちが、本郷地域で配り歩いたミルク缶はのべ1,955個、700人を超える母親や病人のもとを複数回訪問しては直接手わたしている。本郷区(現・文京区の一部)の東京聯合婦人会には、5,000個を超えるコンデンスミルクの大缶がとどけられていたが、そのうちの約40%を自由学園の女学生たちが配布したことになる。
 また、10月に入ると、女学生たちは本所区(現・墨田区の一部)で給食の炊き出し支援に出かけている。一帯は焼け野原で、小学校の校舎も全焼してしまったため授業はテントの下で行われており、給食づくりもテントの下で進められた。食器が割れて不足しているので、児童生徒を半分ずつに分け女生徒から先に昼食をとらせている。


 本所の小学校では、震災で犠牲になった教師も多く、生徒全員が登校してしまうと教師が不足し、教室がわりにしているテントも足りないため、全校生徒を半分に分けて1日交替で登校させるようにしていた。したがって、給食のメニューも2日間は同じものをつくって子どもたちに食べさせている。その様子、同書から再び引用してみよう。
  
 十月に入ってからは、最も災害の大きかった被服廠跡に近い本所太平小学校の二百名の子供たち-焼跡のテント内で勉強する貧しい家庭の小学生-のための豚汁、五目飯などの温かい昼食づくりに、百日間懸命な奉仕をつづけた。給食の必要経費三五〇〇円、その半分は、ミセス羽仁(羽仁もと子)ご自身が歩いて集められた寄付により、半分は婦人之友の読者の醵金によって実現されたのだった。(カッコ内引用者註)
  
 羽仁夫妻は、「先生」と呼ばれることを拒否したため、女学生たちは話し合って羽仁吉一を「ミスタ羽仁」、羽仁もと子は「ミセス羽仁」と呼んでいた。
 このような支援活動がつづく中、今回の関東大震災はなぜ起きたのかを知るため、10月5日に米国の地震・火山学者トーマス・ジャガーを自由学園に招き、さっそく講演してもらっている。ジャガー博士は講義の中で、「今度の地震は相模湾近くに震源をおく火山性のものらしい」と説明しているが、今日の科学から見れば関東大震災は相模トラフに起因するプレート性地震だった。だが、耐震都市の構築に関する課題やテーマは今日にも通用するもので、「今後の日本の建築は公共物のみならず、一般住宅も耐震耐火の設備が必要だ。そうして道路の幅を広げ、所々に公園をおくようなことには、婦人の聡明な努力が加わらなければならない」と講義を結んでいる。
 自由学園の地元・高田町(現在の目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)では、延焼被害が少ないのに小学校の授業が再開できずにいた。そこで、女学生たちの多くが支援活動で留守だった自由学園の校舎を使い、同学園ならではのユニークなボランティア授業を行っている。後方支援の在留組だった高等科の女学生6人が、小学1年生から6年生までの「担任」となり、低学年には童話を読んだり音楽を教えたりした。小学校の高学年には、国語や算数の復習をしたり、同学園の教師が協力して特別に英語を教えたりしている。



 このボランティア授業が高田町で評判を呼び、ついには近隣の130名以上の小学生が通ってくるようになった。ひょっとすると高田町ばかりでなく、自由学園が近いすぐ隣りの西巣鴨町(池袋地域)や下落合からも、通ってきていた子がいたのかもしれない。

◆写真上:自由学園の掃除の様子で、班割りと仕事が決まって取りかかる女学生たち。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月1日の午後に巣鴨町から見た(城)下町方面の大火災の様子。は、同様に高田町あたりから見た大火災の煙。
◆写真中下は、山手の丘陵地帯から眺めた関東大震災の大火災。
◆写真下は、ポーランドの当時は美術家として知られたルビエンスキー伯爵の講演記念写真で、夫妻の右横にいるのは遠藤新Click!は、本郷を中心に行われたミルク配りの様子。は、地震学者のT.ジャガー博士による講演会の記念写真。