大火災が発生しているとき、その周囲にいる人々の毛髪や衣服、荷物などが極度に乾燥し、火の粉がひとつぶ飛んできても発火して、たちどころに全身が火だるまClick!になってしまう現象は、関東大震災Click!でも東京大空襲Click!でも目撃された事実だ。「大火事の周辺には近づくな」という教訓は、火事が多かった江戸期からの伝承なのだろう。
 わが家では、この教訓とともに大火災のときには、「大きな川筋には近づくな」というのもある。大火災によって急激に膨張した空気により、ときに風速50mを超える火事嵐が発生し、大火災の炎が水平になって迫るほどの強風が生じるか、あるいは遮蔽物のない川筋では風速100m超とみられる火事竜巻が発生しやすいためだ。その現場では、大火流Click!が吹きつけることで空気中の酸素が急激に奪われ、焼死の前に窒息死Click!してしまう事例も少なくなかった。戦時中では、日本橋浜町の明治座Click!の大惨事が有名だが、山手では喜久井町(早大喜久井町キャンパス)の大型防空壕Click!や、江戸川公園の目白崖線に掘られた大型防空壕Click!での、数百人におよぶ惨事が語り継がれている。
 日暮里Click!に住んでいた吉村昭Click!の家では、大火災が発生しているときは「荷物を持たずに手ぶらで逃げろ」が、関東大震災からの家訓として伝わっていたようだ。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された、吉村昭『東京の下町』から引用してみよう。
  
 十一年前に、私は「関東大震災」という記録小説を書き、当時の資料に眼を通したが、荷物が恐しい、と言った父の言葉が正しいことをあらためて感じた。本所被服廠跡では、実に三万八千余という人が焼死したが、その原因は持ちこまれた荷であった。二万坪の避難場所であった空地に、四万名と推定される人たちが荷とともに入りこんだ。空地が火におおわれる少し前の写真をみると、乱雑な家具置場さながらで、家財の中に人間がいて、瞬間的にそれらが火となり、多くの人が焼け死んだのである。/また、背に包みを背負った人も、包みが燃えて死んでいる。浅草寺とその境内が、周囲が残らず焼きはらわれたのに焼失をまぬがれたのは、そこに入ろうと押しかけた人々の手にしたり背にしたりしていた物を、警察官や寺の者がことごとく捨てさせたからである。/現在、地震対策の一つとして非常用持出し袋などが売られているが、害あって益なしと言っていい。
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 吉村昭は、非常用の持ち出し袋の危険性を指摘しているが、火災が起きていない場合は非常袋は生命をつなぐグッズとしては有効だろう。
 だが、ひとたび大火災が起きた場合には、背中や肩にかけた布製またはビニール製の非常袋(テントなど含む)が命とりになるのを記憶しておきたい。火炎による極度の乾燥のため、火の粉ひとつで一瞬のうちに燃え上がり、全身火傷で焼死する危険性が高いからだ。火炎が近づいたり、大火災の近くを通過する際は、荷物を棄てるのが生き延びる術だと、過去の多くの事例が教えてくれている。
 もうひとつ、関東大震災の当時は家庭でめずらしくなかった、機密性の高い土蔵でよく起きた現象だが、今日でも機密性の高いコンクリート建築などでは想定できるリスクだろう。それは、大火災にみまわれた地域で、燃えずに焼け残った土蔵で見られた現象だ。外見からは、焼け残っているように見えても、中には火種がくすぶっている場合が多く、かすかに煙が立ちのぼっていたりする場合には、よけいに近づかないほうが安全なのだ。
 機密性が高いため、土蔵内部の酸素が周囲の大火災によって欠乏し、燃焼が抑制されているだけで、空気が入れば極度に乾燥している内部は一瞬で燃え上がる。そのような土蔵の扉戸を不用意に開けたりすると、いわゆるフラッシュオーバー現象が発生して瞬時に炎に包まれることになる。これは、親父も日本橋地域の空襲時での出来事として話していた憶えがある。今日では、機密性が高く強化ガラスが使われたコンクリート建築のマンションや住宅が、当時の土蔵に相当するリスクを抱えているといえるだろうか。



 日暮里地域の吉村家は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で全焼しているが、空襲のあと自宅の焼け跡に立った吉村一家の会話を、2001年(平成13)に筑摩書房から出版された吉村昭『東京の戦争』から引用してみよう。
  
 茶碗や皿は原型を保っていたが、高熱にさらされていたのでもろく、手にしただけで割れるものが多かった。薬缶、鍋などはつぶれたりゆがんだりしていた。/焼跡の中で突き立っているのは、土蔵と金庫だけであった。/それに眼をむけた父は、/「あれは駄目だ。中に火が入っている」/と、言った。/煙の量は少しずつ増し、やがて一瞬、土蔵は炎につつまれた。私は、父の予測通りだと思い、それが関東大震災に遭遇した父の体験から得たものだということを知っていた。
  
 炎上する過程で窓ガラスが割れていれば、特に危険性はないように思えるが、今日の耐火や耐震の強化ガラスで割れていないコンクリート建築の場合は、上記の土蔵と同じようなフラッシュオーバー現象が起きる危険性が高い。内部あるいは周囲に火種が残っているにもかかわらず、大火災の直後などに「焼け残った~!」と安心してドアを開けたりすると、一瞬の爆発的な発火で吹き飛ばされるか炎に包まれるリスクだ。
 余談だが、第1次山手空襲の直後、日暮里とその周辺の街々で大火災が発生しているにもかかわらず、山手線は通常どおり運行を開始していたようだ。吉村一家は、谷中墓地に避難していて難をのがれたが、翌4月14日の早朝に大火災が発生している中、定時どおり始発電車が運行する山手線を眺めて、奇異な感覚にとらわれている。
 4月13日の夜間に来襲したB29の大編隊は、翌14日の未明にかけておもに乃手Click!に展開する鉄道沿いや幹線道路沿いの駅、住宅街、工業地域、繁華街などをねらって爆撃している。山手線の環状北側にあたる各駅周辺は、このときの空襲による集中的な爆撃で被害を受け、駅周辺では大火災が発生していたはずだが、それでも始発から山手線を運行しようとしていた鉄道職員たちがいたようだ。同書より、再び引用してみよう。



  
 避難していた谷中墓地から日暮里駅の上にかかっていた跨線橋を、町の方へ渡りはじめた時、下方に物音がして、私は足をとめ見下ろした。/人気の全くない駅のホームに、思いがけなく山手線の電車が入っていて、ゆるやかに動きはじめていた。物音は、発車する電車の車輪の音であった。/町には一面に轟々と音を立てて火炎が空高く噴き上げているのに、電車がホームに入りひっそりと発車してゆくのが奇異に思えた。電車は車庫に入っていたが、鉄道関係者は沿線の町々が空襲にさらされているのを承知の上でおそらく定時に運転開始を指示し、運転手もそれにしたがって電車を車庫から出して走らせているのだろう。
  
 関東大震災のときとは異なり、烈震で線路土手の一部が崩壊したり、レールが震災でゆがんでいる心配はなかったのかもしれないが、軌道上に250キロ爆弾でも落とされて、線路そのものや駅のプラットホーム自体が吹き飛ばされていたらどうするつもりだったのだろうか? 通信も途絶していたはずで、当然、職員たちもその危険性を十分に認識していたはずだが、米軍に対する敵愾心から線路わきで危険な大火災が起きているにもかかわらず、意地でも山手線を動かしていたのかもしれない。
 吉村昭の文章に、焼け残った「金庫」が登場しているが、彼の父親は「少くとも一週間は扉をあけてはいけない」といっている。これも関東大震災の教訓のひとつで、土蔵とまったく同じ現象が起きるからだ。金庫の内部は、大火災で熱せられて高温かつ超乾燥状態のままであり、扉を開けて外気を入れたとたん一瞬で発火してしまうからだ。
 関東大震災のときは、大火災から焼け残った銀行や企業、商家の大型金庫が、盗難の心配から冷めるのを待たずに開けられ、たちどころに内部から発火して焼失し死傷者も出ている。吉村昭の父親は、それを印象深い大火災時の2次災害として記憶していたわけだ。吉村家の金庫は、その後1週間ではなく、空襲から10日もすぎてから開けられたが、発火することなく中身のものはすべて無事だったようだ。


 山手空襲に先だつ、3月10日未明の東京大空襲Click!でわが家は全焼しているが、日暮里の空襲よりも大火災の勢いが圧倒的に強かったのだろう、土蔵の内部も金庫の中身もすべて丸焼けだった。そのとき発生した大火流は、金属Click!をも容易に溶かすほどの高熱だった。

◆写真上:吉村一家が避難した、いまやネコだらけの高台にある谷中墓地の夕暮れ。
◆写真中上は、住宅街における夜間の焼夷弾攻撃。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる日暮里駅とその周辺。谷中の寺町側は焼け残っているが、吉村家があった日暮里の街は焼け野原だった。は、谷中墓地内にあった天王寺の五重塔礎石。吉村家が空襲から避難した当時は、いまだ五重塔が暗闇にそびえていただろう。
◆写真中下は、B29から撮影された夜間の街に投下される焼夷弾と燃え上がる市街。は、大火災が迫る住宅街。は、日暮里駅周辺の空襲被害地図。
◆写真下は、戦争末期にB29から撮影された喜久井町の大型防空壕があった夏目坂界隈の様子。は、1945年(昭和20)3月10日に高高度から撮影された東京市街地の惨状。