下落合に太平洋画会Click!の本部事務所があったと聞いたら、美術に興味がある方なら「ウソでしょ、太平洋画会は谷中だよ」というに決まっている。わたしもビックリしたのだが、太平洋画会が下落合にあったのは史的事実だ。
 1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、谷中真島町にあった太平洋画研究所が全焼すると、本部事務所を下落合の海洲正太郎邸に移している。海洲正太郎は、別名として海州正太郎や海洲将太郎、版画制作のネームとしては「麥」を用いていたが、太平洋画会へとどけ出ていた画家名は「海州正太郎」だった。
 おそらく、当時の太平洋画会を代表する吉田博Click!(下落合667番地)をはじめ、かつては同会の満谷国四郎Click!(下落合741番地)や、ゆかりのある中村彝Click!(下落合464番地)などが住んでいた“美術村”なので、下落合が選ばれているのかもしれない。太平洋画会の本部事務所は、翌1946年(昭和21)に駒込林町へ移転するまでの1年間、下落合にあった。
 海洲正太郎Click!については以前、吉田博Click!のご子孫にあたる吉田隆志様よりご連絡をいただき、貴重な情報をちょうだいしている。吉田様は、海洲正太郎が主宰していた画塾に通われており、海洲邸は現在の目白中学校グラウンドの北西側、下落合1丁目348番地(現・下落合2丁目)にあった。この住所は、明治期の旧地番では下落合330番地界隈に相当するので、大磯で新島八重Click!から別荘地を譲り受けた華族(男爵)、箕作俊夫邸Click!のかつての敷地に含まれていたのではないかと思われる。
 また、海洲正太郎は1946年(昭和21)に目白文化協会Click!に参加しており、版画ネームの「麥」名で『明日の目白』Click!を描いていることも、吉田隆志様よりご教示いただいた。海洲正太郎は、敗戦直後から積極的に制作活動を再開しており、戦時中は本や雑誌の挿画を手がけるぐらいで、あまり仕事をしていなかったようだ。戦争画を軍部に強制されて描くのが、イヤだったのかもしれない。
 1946年(昭和21)3月1日から月末まで、東京都美術館で開催された第1回日展に、海洲正太郎は『冬の或る日』と題する水彩画を出品している。それに目をとめたのが、上落合から鎌倉の長谷大谷戸253番地(現・鎌倉市長谷5丁目)に疎開中だった村山知義Click!だ。もちろん彼の官展を見る目は厳しいが、敗戦後で軍国主義のクビキから解き放たれた美術が、どのように自由な表現を見せるかに興味を惹かれて出かけたのだろう。
 しかし、「これが文化的、芸術的に自由の時代が開けた際の最初の展覧会なのであらうか?」と、第1室(日本画)に足を踏み入れたときから期待はずれだった。そして、展示室をめぐるうちに、次々と失望感を味わうことになった。1947年(昭和22)に桜井書店から出版された、村山知義『随筆集/亡き妻に』所収の「日展総評」から引用してみよう。
  
 何といはうとも、ここに並んでゐる作品の殆んどすべては、これを描かずにはゐられぬといふ芸術的燃焼の挙句に生れたものとは到底受け取れない。展覧会があるから描いたといふだけの、惰性や、発表慾や、小さな野心やの表はれとしか受け取れないのである。/例へば、日本画、洋画を通じて、たくさんの風景が描かれてゐるが、その風景がどれもこれも、ただ力無く侘しいのである。「春来る」といふやうな題が附いてゐても、濃い色が用ゐてあつてもそれは生きた生活が面白くなく、呆然と自然の片隅を眺めた、といふ感じの絵ばかりなのである。僅かに、何処かに追及する力を感じさせるものは、油絵で伊藤善の「冬の朝」、川合幾郎の「秋郷」、水彩で海洲正太郎の「冬の或る日」ぐらゐである。
  
 あまり他者の作品を褒めない彼が、「追及する力を感じさせる」と書いているので海洲正太郎の『冬の或る日』の画面を観てみたいのだが、残念ながら見つからない。



 日本画について、村山はほとんどが着物の「模様画」に陥っていると嘆く。「切実な感動と肉薄慾を持たない人」が、日本画を描けば着物の模様画になるのはきわめて自然だとしている。それらの画面は、原色かそれに近い色彩を用いて強いコントラストで描かれているか、色彩が抑えられている場合でもモチーフにどぎつい対照が用意されており、「色感の悪さ下品さは非常なものであつて、あツ、と驚くほどである」と酷評している。
 会場の日本画は、ほとんどが芸術作品ではなく「工芸品」だとし、工芸品ならまだしも実用性やマテリアルの強みが備わるが、それよりも劣ると批判している。また、日本画は南画系に強い色彩をほどこした作品が多いが、おそらく画家が南画の現代化を試みるつもりで、逆に南画のよさが強烈な色彩のために台なしになっているとしている。
 「歌舞伎の現代化と同様に、既に永い以前に完成し固定した形式の現代化といふことは、多くの場合、不可能事を向ふに廻して絶望的な努力をしてゐる」と、ことに日本画の南画系に属する画家に容赦がない。「日本画の一般的無気力は、大観、桂月、素明、青邨、勝観等、大家の作を見るに及んでその度合の甚しさに一驚せざるを得ない」とし、それは日本画に限らず洋画家たちもまったく同様だと見ている。
 同書収録の「日展総評」から、再び引用してみよう。
  
 このことは油絵についてもいはれる。大家達の絵を見て、つくづく思ふ。これらはアカデミツクでもなく、クラシツクでもない、たうとうそこまで行き得なかつたものだ。今となつては歴史的価値しか持つていないものであり、それを除外しては最早や観賞に耐えないものなのだ。梅原龍三郎の「北京風景」だけがその中では美しく生きてゐるが、しかしそれすらもマンネリズムを感じさせるものは何か? 単にいつもの朱と緑が、いつもの手法で用ゐてあるからではない、もう一歩奥に原因があるのではないか、と思はれる。単に感覚とのみ取り組んでゐるのでは、どんなに執拗に根気強く取り組んでも遂には突き抜けられない壁にぶつかるのだ、といふことが、そこに物語られてゐるやうに思はれる。/安井曾太郎の「安倍先生像」は、対象を追及してゐない、不思議に思はれるほど、いい加減なところで満足してしまつてゐるのだ。この現象もまた、視覚的対象の追及が、人間追及にまで行かなければならぬことを物語つてゐるのではあるまいか。
  


 わたしは、残念ながら梅原龍三郎Click!の色彩感が肌に合わずキライなので、その画面を美しいと感じることはできないが、文中で取りあげられている安井曾太郎Click!『安倍先生像』Click!は、1944年(昭和19)に下落合1丁目404番地のアトリエClick!2作Click!仕上げられたうちの、どちらの画面のことを指しているのだろうか。あるいは、会場には2作とも展示されていたのかもしれない。
 多くの日本画家や洋画家は、戦争でいつまで生きられるか日々緊張する毎日を送りつづけ、それが終わったと同時に虚脱状態に陥っていたとみられる。文字どおり、なにをしていいのかわからない、むなしい虚無のような精神状態だったのではないだろうか。今日的にいえば、一種のPTSD症状といえるかもしれない。
 梅原龍三郎と安井曾太郎の作品を取りあげているが、これらは敗戦後ではなく戦時中に描かれたものであり、文部省が第1回日展を開催するのを聞き、手もとのストックの中から選んで出品したものにちがいない。また、戦時中に陸海軍の広報部から依頼され、プロパガンダとしての「戦争画」Click!を描いていた画家たちは、いつ戦犯として逮捕されるか戦々兢々としていたはずで、第1回日展どころではなかっただろう。
 村山知義は、戦争や軍国主義に一貫して反対し何度も豊多摩刑務所Click!へ収監され、戦後はそのクビキからようやく解放されてしごく元気溌剌だが、戦争で繊細な神経を打ちのめされ強いストレスを受けていた画家たちも数多くいたにちがいない。あるいは、国家が主宰する美術展など、またしても「戦争画」の裏返しであり、新しい時代に登場する表現意欲が旺盛なアヴァンギャルドたちは、そもそもそんな美術展に出品しないことも考慮しなければならないだろう。それは、村山知義が自身でいちばんよく理解していたにちがいない。



 村山知義は、洋画部門ではほかに3人の画家を「いくらか目ぼしい」作品として挙げている。富山芳男『仮小屋に臥す病妻』と宮脇進『村に来た子供』、そしてタイトルを失念したらしい久保守Click!だ。そのほかの作品は、「戦争が終つたことに対するよろこび」もなく、また「あの戦争を呪ひ憎むといふ気持」もなく、「ただ気落ちした無気力さ」(「日展其の他」より)だけが漂う、美術的退化や荒廃がいちじるしい展覧会だったと評している。

◆写真上:1952年(昭和27)に制作された、海洲正太郎『新緑上高地』。
◆写真中上は、1947年(昭和22)に目白文化協会のために制作された海洲正太郎『明日の目白』で、右下に版画ネームである「麥」のサインが見える。は、1965年(昭和40)の住宅明細図にみる海洲正太郎アトリエ。ここに1946年(昭和21)から、太平洋画会の本部事務所が置かれていた。は、1974年(昭和49)に制作された海洲正太郎『海』。
◆写真中下は、1940年(昭和15)に制作された梅原龍三郎『紫禁城』。は、1944年(昭和19)の春に制作された安井曾太郎『安倍能成像』。
◆写真下は、1944年(昭和19)の夏に制作された安井曾太郎『安倍能成像』。は、同年の夏に下落合1丁目404番地のアトリエで『安倍能成像』を制作中の安井曾太郎。は、七曲坂Click!筋にある海洲正太郎アトリエ跡の現状(左手前)。
おまけ
 1947年(昭和22)前後の撮影とみられる、喫茶店「桔梗屋」で開催された目白文化協会の「寄席」に集まったメンバーたち。この日は法学者・田中耕太郎の講演会で、記念写真の後列中央には下落合1丁目540番地(現・下落合3丁目)の洋画家・大久保作次郎Click!が写っているので、この中に海洲正太郎も写っている可能性がある。(提供:堀尾慶治様Click!)