大江賢次Click!がモデルになったのは、武者小路実篤Click!のもとで岸田劉生Click!が描いた戯画Click!や、東京朝日新聞社が主催した岡本一平Click!の似顔絵マンガばかりではない。戦後、彫刻家で東京藝大教授だった菅原安男が、新制作展へ出品する作品のモデルも引きうけている。もちろん、自分のアゴにコンプレックスを抱いていた彼は、モデルになることには消極的だったが、年齢を重ねるうちに容貌への嫌悪感はかなり薄まり、張りだしたアゴに愛着さえおぼえはじめていた。
 戦後の大江賢次は、江古田(えごた)の自宅で創作に打ちこむ日々がつづいており、顔貌にはあまり頓着しなくなっていたようだ。菅原安男と大江賢次の子どもが、たまたま学校の同級だったころということだから、おそらく1950年代半ばあたりだろうか。ふたりは、子どもの親同士ということで会ったらしいが、ふたりの年齢も同じだった。そのときの様子を、1958年(昭和33)に新制社から出版された大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
  
 そのころ、子供が同級のよしみで彫刻家の菅原安男と会つた。彼は挨拶もそこそこに、私の顔をジッと見入って、/「すみませんが、その顔、モデルになつてもらえませんか?」と、せきこむようにきりだした。/さいしよこの申し出をきくと、なんだかからかわれているような気がして、/「冗談でしよう、こんな顔――」/「いや、その顔だからいいんです!」と、彼は無造作に私への懸念などは意に介しない率直さでいうと、コクリとひとりでうなずいてから、どうしてなかなかコクのある、一丁いける顔ですよ。こりやいい、ことにそのアゴが気に入つた。そんじよそこらにザラにある顔じやありません」/この芸大の先生は、ひとの思惑などにこだわつていられない性急さで、はやモデルときめたものかしきりに右見左見しはじめた。ちよつと癇にさわつたが、そのじつ内心は意外にも淡いよろこびがたぎりはじめ、照れながら、/「本気に怒りますよ」とは云つたものの、その気はなかつた。
  
 菅原安男は、大江賢次の顔に「孤独と抵抗(レジスタンス)の渦まき」を見たといい、江古田の中野療養所(旧・江古田結核療養所)Click!の近くにあるアトリエへきてくれるよう誘った。ひょっとすると菅原安男は、戦前に何度も特高Click!に検挙され、服役を繰り返していた彼の来歴を知っていたのかもしれない。真夏の暑い盛りに、大江賢次は自転車に乗って菅原アトリエへ通いはじめている。療養所の森から、セミがしきりに鳴いていた。
 汗だくで粘土をこねては、菅原安男は彫刻台の鉄棒へなすりつけ、それまでの人なつっこいニコニコ顔が消え失せ、まるで金剛力士像Click!のような憤怒の形相に変貌したようだ。大江賢次も、身じろぎをしないでジッとしていると汗だくになった。初日は3時間で終わったが、大江賢次は体力的にかなりまいったようだ。モデルを終えると、菅原夫人が冷たいビールを用意して待っていた。
 菅原安男は、制作しはじめた当初はアゴのかたちに惹かれていたが、しだいにアゴと釣りあう顔全体の表現に傾注するようになった。日々モデルを重ねるうちに、彫刻の表情はクルクルめまぐるしく変わっていったようで、ある日は傲岸でなにものかを睥睨しているような表情だったかと思うと、ある日は焦燥感が面影にただよい、またある日は絶望と抵抗とがその顔から読みとれるような表情に変わっていった。大江賢次は、彫刻家の眼差しにすべてを見透かされているような、空恐ろしさをおぼえはじめている。


 大江賢次は、すでに完成レベルに達している自身の彫像を眺めたが、菅原安男はまだ「不必要なものが沢山ある」といっては、鉄ベラを置こうとはしなかった。大江は、もうこれで十分だと思っているのに、菅原はこれ以上に手を入れると失敗作になるというギリギリのところまで仕事をすると、いちおう念のために石膏にとっておき、再びどこまで攻められるかを試すように、鉄ベラで粘土をこそぎとりつづけた。
 モデルと格闘する彫刻家を見て、大江賢次はこんな感想を抱いている。
  
 彫刻家は、作家などにくらべるとさらに重労働である。ついに二人とも半裸になる。流汗淋漓、菅原安男の表情や動作の方がよほど鎌倉期的なモデルだ。つくづくダイナミックで豪快だと思う。作家は出版資本を通じて大衆へ接するが、美術家はおおむね個人との交渉だから、いいこともあろうがイヤなことも多いにちがいない。作品が個人の私有に帰するばかりではなくて、むしろ公有で民衆に観賞されるような社会機構に、はやくなってほしいものである。成りあがりものの重役や、思いあがつた官僚たちを顧客にして、イヤイヤながら理不尽な注文に従うかれらの苦しみは、やはり作家の私たちにも通じるものをもつているが……私は自分が作家であつて助かつた。彫刻家だつたら、とても自由に「彫り下ろし」は出来つこないだろう。そのためにも、私というモデルは彼にとつて金にならないのだから、純粋な芸術家どうしの扶けあいで、せめてモデルを贅沢に使わせてやりたい。
  
 念のために石膏型をとったあとも、菅原安男の執拗な鉄ベラは止まらず、作品はみるみる変貌をつづけていった。大江賢次の顔を写したリアリズムは消え失せ、別の男の顔が額からアゴへの気魄をみなぎらせていた。50歳で白髪の菅原安男は、作品の完成を見きわめると大江賢次と抱きあって喜んだ。そして、作品をブロンズに鋳造すると、『大江賢次像』は秋の新制作展へ出品された。



 この時点で、大江賢次は自分の首が、というかアゴが人前で見世物になるのが恥ずかしく、家族にも見にいってほしくなかった。だが、菅原安男から招待券がとどき、ひで夫人Click!と子どもたちは喜んで出かけていった。子どもたちの「見た見た、お父ちゃんよかズッと綺麗だい」、「みんなが前から横から、いろいろ見ていたわ」、「そんなにアゴ気にならなかつたね、お母さん……?」という感想を聞いて、ようやく展覧会場へいく気になった。江古田から、愛用の「カマキリ号」(自転車)で上野の美術館へたどり着くと、まず水を1杯飲んで心を落ち着け、できるだけ目立たないようアゴを引いて会場に入った。
 自分の彫像の前には人だかりができており、その傍らを冷淡を装った足どりで通りすぎた。そして、陳列の端までいき着くと、あわててハンカチで汗をぬぐった。自分の首を鑑賞している人々の中から、小学生が手をのばしてアゴに触ると、つい「無礼者!」と叫びたくなったようだ。そして、再び『大江賢次像』の前を何気なく通りすぎた。そして、三度めの正直で作品の前に立ち止まると、しげしげと自分の首を鑑賞しはじめた。
 ふと気づくと、自分のまわりに人だかりができ、彫刻作品と大江賢次の顔を交互に見比べていた。彼はすっかりドギマギしてしまい、展覧会場を急いで抜けだすと、再び「カマキリ号」に乗り江古田のわが家をめざしてこぎだした。
  
 どちらにしても、ブロンズのアゴよ、お前はどんな隅つこに埃をかぶつていようとも、やがてきつとかならず接触せずにはいないだろう……ヒタヒタと押寄せる、新しい大気のよろこばしい訪れを。おお、私のひんまがつた分身よ、そのフレッシュなそよ風はお前の主人公たちが吸つたよどんだ空気とはちがつて、もうなにものにも卑屈にならないですむところの、「万人の解放された自由な」香しい空気なのだ。いま、私は本郷の坂をあえぎあえぎペダルをふんでいる。ああ、まあ、なんというにごつたいちめんの空気! しかしブロンズのアゴよ、日ごと日ごとに空気はにごりにごつた末に、いつの日か――ごく近い嵐の暁に――空気はふたたぴ、生れ変つたみたいに清澄になりまさるにちがいないのだ。
  
 大江賢次は、民主主義の進捗のなかでこう記したが、「嵐」がやってきて空気が「生れ変つたみたいに清澄」になることはなかった。革命は、あらかじめ失われていたのだ。
 

 文中に書かれた、「お前の主人公たち」の代表格だった山守りの娘・小雪(『絶唱』/1958年)のモデルは、故郷の鳥取で結婚をひかえた地主の娘が、結核に罹患して入院していた療養所で急死したエピソードがベースになっていたようだ。娘を哀れに思った親が、遺体に花嫁衣装を着せ髪を文金高島田に結って、病院から俥(じんりき)で「退院」させたのを彼は目撃したらしい。大江賢次の文章が映像的Click!なのは、このような目撃情報を正確に記憶する観察力と、それを鮮やかかつ的確に再現する筆力に優れていたからだろう。

◆写真上:ご機嫌の大江賢次と、菅原安男が制作した彫刻『大江賢次像』。口内の歯列がのぞいており、歯科医を悩ませた「反対咬合」(下歯が上歯を覆う)の様子がわかる。
◆写真中上:中野療養所(江古田結核療養所)跡にできた、中野区立の現・江古田の森公園。同公園内は、縄文時代から中世にかけての遺跡・旧跡だらけだ。真夏の菅原安男アトリエで、汗だくになりながら聞いていたセミ時雨はこの樹林からのものだ。
◆写真中下は、「金ピース」を美味そうに吸う晩年に近いころの大江賢次。は、中野療養所跡の現状。は、冒頭写真に写る菅原安男『大江賢次像』の拡大。
◆写真下は、浅草寺の風雷神門(通称:雷門)へ1978年(昭和53)に安置された菅原安男の制作による『金龍』像()と『天龍』像()。628年創建の浅草寺1350周年を記念した両像建立と思われ、平櫛田中の作とする資料もあるが彼はあくまでも“監修”で、実際に制作したのは2体とも菅原安男だ。は、2011年(平成23)以前に撮影した浅草寺境内。この直後、東日本大震災の強震で画面に写っている五重塔の宝珠と水煙が落下Click!した。