明治末から昭和初期にかけ、織田一磨Click!は落合地域とその周辺域をスケッチしながら、ずいぶんあちこちを歩きまわっている。彼は市街地(東京15区内Click!)の芝で生まれ麻布で育ったため、それらの地域(山手線の西側エリア)は「武蔵野」Click!として認識されており、ことさら「武蔵野」Click!らしい風景を求めて逍遥している。
 織田一磨の著作、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録―自然科学と藝術―』には、明治末から描きためられ画家の手もとに保存されていた落合地域をはじめ、周辺地域の風景画やスケッチが掲載されている。先に落合地域はご紹介Click!ずみなので、今度は近接地域の風景作品に目を向けてみよう。
 同書のカラーグラビアで、巻頭に掲載されているのは1908年(明治41)12月ごろに制作された『中野村風景』だ。織田一磨は、どんよりとした曇天の風景がことさら好みだったようで、作品の大半は曇りの日に描かれている。中央線・中野駅と青梅街道にはさまれた田園地帯を描いているが、同書のキャプションより引用してみよう。
  
 寒い日の曇り日で、写生してゐても足や手が痛くなつて、とてもゐられないので、運動をしてはまた筆を執り、暫くするとまた運動して身体が温暖になると筆を持つといふ調子に苦労を重ねてやつと三時間位で描いた。場所は中野駅から南へ今の市電の通つてゐる方角へ行つて、小高い丘の上から、西北方を写生した図で、当時中野村には駅の附近から人家は全くなく、青梅街道=市電の通=の両側に人家は並んでゐた。図中左方の森は人家のある街道筋に当る。/畑地に緑色した作物は、ムギの若芽だと思ふ。今にも雪にでもなりさうな空から、夕方近い黄色の光線がもれ出るあたりは、冬らしい感じである。
  
 おそらく画家は、中野駅南口を出て南南東へ向かう道を南下し、中野村上町ないしは天神祠(現・中野区中央5丁目)あたりから描いているとみられる。ただし、向いている方角は「西北」ではなく「西南西」ではないだろうか。青梅街道沿いに並ぶ人家が、画面左手の森に沿った向こう側だとすれば、この地域で青梅街道はほぼまっすぐに西進しているので、やや南を向かなければ同街道の並木は視界にとらえられないはずだ。
 つづいて、1942年(昭和17)に描かれた『江古田附近』という挿画がある。この江古田が、中野区江古田(えごた)Click!なのか、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の江古田(えこだ)Click!駅(練馬区)なのかは不明だが、彼は雑司ヶ谷に住んでいたころ、池袋を起点に武蔵野鉄道沿いをスケッチしてまわるのが好きだったようなので、画面は同線の江古田駅の近くではないかと思われる。このあたり、織田一磨は地名にはかなり無頓着で、風景作品につけられるタイトルは近くの駅名をかぶせる傾向が多々みられる。
 右から左へと、なだらかに下る斜面に建てられた住宅や農家をとらえているが、著者の解説がないので描画位置は不明だ。描かれた1942年(昭和17)現在、このような風景は江古田駅南側の随所で見られただろう。




 次に、同じく武蔵野鉄道の池袋駅からひとつめにあった上屋敷(あがりやしき)駅の近くを描いた、1918年(大正7)制作の『目白附近あがりやしき』がある。これも同書の挿画の1枚であり、絵についての解説はない。ここでいう「目白」とは、明らかに山手線・目白駅Click!からとられており、当時の周辺地名にいまだ「目白」は存在していない。目白駅周辺の地名が、雑司ヶ谷旭出や高田町などから「目白町」に変更されるのは、東京35区制Click!がスタートして豊島区が成立した1932年(昭和7)以降のことだ。
 大きなケヤキとみられる屋敷林が描かれた画面は、上屋敷のどのあたりかは不明だが、この時期の作品としては三岸好太郎Click!『狐塚風景』Click!や、俣野第四郎Click!による『陽春池袋付近』の情景と重なることになる。
 『武蔵野の記録』より、大正末から昭和初期の様子を引用してみよう。
  
 武蔵野は当分人々の脳裏から離れ去つて、郊外散策はギンブラに振替られてしまつた。郊外がどんなになつたのか、行つてみたいとも思はず、そんな時間があれば市街へ散策した。尤も井ノ頭とか村山とかへは、若い人は散歩したらしいが、これはハイキングではなくランデブーと称するものゝ由でドライブと似た形態であるといふ。
  
 大正期の落合地域は、周囲に住む画家や作家たちの散策先として、またハイキングを楽しむ人々が押しかけていたので、織田一磨の「市街地へ散策した」は一般的な傾向ではなく、自身の経験のことを書いているのだろう。
 下落合に目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!などが計画・販売されはじめると、空気や水が良質な田園地帯での「文化生活」を夢見た市街地の人々が、ハイキングがてら落合地域を散策するようになる。特に下落合の西側に接する葛ヶ谷Click!(のち西落合)地域は、東京府による風致地区に指定されていたため耕地整理や開発が進まず、武蔵野の面影を色濃く残していたエリアだった。ハイカーが落としたタバコの火の不始末から、あわや下落合の西坂・徳川邸Click!が焼けそうになった火災事件Click!も、大正期が終わったばかりのころに発生している。




 さて、織田一磨が池袋を描いた挿画も同書に収録されている。1914年(大正3)と早い時期のスケッチで、タイトルは『池袋附近』だ。この「池袋」も駅名からとったとみられ、洋風の建造物が描かれている。1914年(大正3)の当時、池袋駅周辺の洋風建築といえば豊島師範学校か、成蹊中学校・成蹊実務学校ぐらいだろうか。立教大学は、いまだキャンパス敷地が確保されているだけで未建設のままだ。
 描かれているモチーフは、洋風に建てられた施設などの門柱に見えるが、当時存在した建物の写真類を参照しても、どこを描いたのかが不明だ。池袋駅周辺で、この門柱(?)あるいはモニュメントを憶えている方がおられれば、ご教示いただきたい。
 このころの写生の様子を、同書より引用してみよう。
  
 第一次、雑司ケ谷時代は、相も変らず貧乏生活で、ほとんど極端に近い有様ではあつたが、写生に出る事はすこしもへらさずに、前述のやうな郊外へは度々行つた。新宿とか角筈、十二社、中野大宮、池袋、長崎、大塚、西ケ原、早稲田等は、写生の対象とするのに良かつたので、テクテクと行つた。(中略) 植物園の方面とか殊に、田端なんぞは、水田が多く台地の森と、寺院や民家を背景にして、写生をしたり、道灌山から千住方面を遠望して描いた。この辺も全く変り果て、近頃ではどこを写生したのか、さつぱり判然として来ない。それほど関係が薄くなつてしまつた。追憶するにしても、何か手掛りが残つてゐないと張合がぬけてしまつて、どうにもならない。それには、高田の馬場辺とか、目白とか、江戸川公園の辺なんぞは、まだ何か目標になるものが遺されてゐる。池袋や田端や、大塚附近とか、中野、高円寺となると更に困ることになる。
  
 「植物園」は、織田一磨が住んでいた雑司ヶ谷にも近い小石川植物園のことだ。
 その雑司ヶ谷鬼子母神の表参道を描いた、1919年(大正8)の挿画も掲載されている。『雑司ヶ谷鬼子母神参道』の画面は、参道の途中から北を向いて写生した構図で、右手には江戸期からつづく水茶屋の1軒が描かれている。参道には積雪があるようで、描かれた人物の姿などから同作もまた冬季のスケッチだろう。明治末に撮影された鬼子母神参道の写真と比較すると、大正期の半ばでもほとんど風景に変化のないことがわかる。





 織田一磨は、丘や谷間が入り組む起伏のある武蔵野風景が好きだったのか、目白崖線沿いの風景もよくモチーフに選んでは描いている。次回は目白崖線の東端、目白不動堂Click!が建立されていた江戸期の通称では目白山=椿山Click!(現・関口/目白台界隈)と、音羽の谷間をはさんだ向かい側の久世山(現・小日向2丁目)の風景作品をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1908年(明治41)に制作された織田一磨『中野村風景』。
◆写真中上からへ、1897年(明治30)の1/10,000地形図にみる中野駅南側の『中野村風景』想定の描画位置、武蔵野の面影を残す中野氷川社、1942年(昭和17)制作の織田一磨『江古田附近』、江古田の武蔵大学キャンパスに再現された武蔵野の湧水。
◆写真中下からへ、『江古田附近』から2年後の1944年(昭和19)に撮影された江古田駅周辺、武蔵野らしい屋敷林に囲まれた江古田の西洋館、1918年(昭和大正7)制作の織田一磨『目白附近あがりやしき』、当時の面影をかろうじて残す上り屋敷公園。
◆写真下からへ、1914年(大正3)制作の織田一磨『池袋附近』、現在の池袋駅西口で左手の一帯が豊島師範学校跡、1919年(大正8)制作の織田一磨『雑司ヶ谷鬼子母神参道』、明治末に撮影された水茶屋が残る同参道、現在の参道。