村尾嘉陵Click!が著した『江戸近郊道しるべ』、国会図書館では『四方の道草』で、内閣文庫では『嘉陵記行』(「行」ではない)というタイトルで残されている日記には、1818年(文政元)8月26日(太陽暦では9月下旬ごろ)に中野の本郷村(現・中野区本町)から角筈村(現・新宿区西新宿)界隈を散策した記録が残っている。
 そこには、幕末にかけての開墾あるいは大正期以降の宅地開発で破壊されたとみられ、現在では存在していない「山」や「塚」の記述が見えたり、そのまわりを取り巻く周濠(空堀)が明確に記録されていたりするので貴重だ。この古墳の周濠(空堀)については、後世(おもに明治以降)の城郭をイメージした付会的な解釈がほどこされており、築造当初から空堀だったとするのが今日の科学的な有力説のひとつとなっている。
 たとえば、本郷村の成願寺(現・中野区本町2丁目)の界隈を記録した文章を、1999年(平成11)に講談社から出版された村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』Click!(現代語訳・阿部孝嗣)所収の、「成子成願寺・熊野十二社紀行」から引用してみよう。ちなみに、江戸期には現在のような区分による行政区画などまったく存在しないので、著者の村尾嘉陵は本郷村も中野村(ともに中野区)も、はたまた角筈村(現在は新宿区)も全体が「中野地域」だととらえて記述しているフシが見られる。
  
 文政元年(一八一八)陰暦八月二十六日、中川正辰同遊。成願寺(中野区本町二丁目)は禅刹である。門の扁額に多宝山とあり、寺の前を井の頭上水が流れている。小橋を渡って門から本堂まで三十五、六間(約六十五メートル)。入って左に茅葺き屋根の百観音堂が、右には鐘楼があり、方丈と庫裏が並んでいる。鐘楼の傍らには大きな杉が一株ある。庫裏の庭を通って後山に登る。山の高さは三丈ほどで、山上に金比羅の社がある。/その裏手、北西の方角に小高い塚があって、その周りに空堀の跡がある。墳にはツツジが二、三株生えている。その下に小さな五輪の笠が二つ、なかば土に埋もれて見える。言い伝えでは、この墳は性蓮長者という人の墳であり、この山はその長者が住んでいた跡であるという。
  
 成願寺は、神田上水(室町期以前は平川)の段丘斜面に建立されているので、「後山」とはその10mほどの高さのある段丘のことだ。その斜面を上った北西方向に、「空堀の跡」がある「小高い塚」が記録されている。
 古墳に興味をお持ちの方ならご存じかもしれないが、従来は古墳を取り囲む堀は「周濠」と呼ばれ、まるで近世の城郭(平城)のように水が引かれた濠にされている古墳もあるが、当初の姿は「空堀」、すなわち水を引かずに谷間を刻む「周壕」だったのではないかという、科学的な調査にもとづく研究成果が有力視されている。つまり、平野部に築かれた大型の前方後円墳などに見られる周濠は、その古墳の権威性をより高めるため後世に改造され、当初の姿が破壊された姿だということになる。あるいは、中には長い年月にわたり結果的に雨や湧水によって、水がたたえられているケースもあるのだろう。
 確かに、山の斜面や崖地に沿って築かれることが多い古墳の場合、傾斜があるため「周濠」は困難だったとみられ、換言するなら「周濠」が必要とされるのなら、なぜ平地ではなく斜面や引水が困難な丘上あるいは斜面に築かれることが大多数なのか?……という疑問への解答にもなる。村尾嘉陵が見た塚と空堀も、本来の姿を近世までとどめていた古墳の可能性が高い。もっとも、現在の同地域には古墳も、空堀もなければ金比羅の社も存在せず、一面に住宅街が拡がっているばかりだ。



 また、この塚が「性蓮長者」の墓だとする伝説を採取しているが、これは「中野長者」伝説Click!が広く普及していった後世(室町期から江戸初期にかけて)の付会だろう。「中野長者」の時代に、死者を葬るために大きな墳墓を築造する習慣があったかどうかも検討されるべきだし(とうに墓地墓石の時代へ移行していただろう)、なによりも「中野長者」伝説と平川(のち神田上水)沿いに展開していた古墳を供養して歩いた「百八塚の昌蓮」伝説Click!とが、どこかで習合している痕跡を感じるからだ。
 中野の成願寺で語られる性蓮(一説には正蓮)と、下戸塚(早稲田)の宝泉寺Click!にゆかりの深い昌蓮とは、同じ「しょうれん」なので記録する漢字をちがえた同一人物なのか、淀橋をわたって成子坂Click!の向こうへ出かけていくとカネ持ちになって帰ってくる「中野長者」=性蓮(正蓮)と、平川沿いに展開する百八塚(古墳)に小祠を建立して供養してまわった昌蓮は、古墳盗掘の罪意識にめざめた性蓮(正蓮)のことなのか、それともたまたま僧名の音がいっしょで別人なのか……。
 そもそも村尾嘉陵も、性蓮(宝仙寺=中野)と昌蓮(宝泉寺=早稲田)とで混同しているようなのだが、なぜ室町前期(性蓮)と室町後期(昌蓮)とみられる、ふたつのエピソードが習合しているのか、史的に不明な点が多すぎるのだ。混同の要因を想像してみると(混同しているとすればだが)、中野の宝仙寺と早稲田の宝泉寺とで、こちらも同じ「ほうせんじ」という音が共通しており、時代の経過とともに混乱が生じて、両者が結びつけられて伝承されるようになったととらえるのが、もっともありえるリアルな想定だろうか。
 このあと、村尾嘉陵は神田上水を東へわたり、熊野十二社がある角筈村(現・新宿区)に入る。牧野大隅守(旗本)の抱屋敷に近い、「兜塚」を見るためだった。小普請請小笠原組2,200石だった牧野の抱屋敷は、都庁の第一本庁舎の西側、現在の新宿中央公園あたりにあった屋敷だ。同書より、再び引用してみよう。
  
 兜塚(不明)に向かう。熊野社の大門を出て、少し南へ向かうと、道の東側の林に家がある。この辺りは牧野大隅守の下屋敷(ママ)といわれているけれども、垣根もなく、小笹が生い茂っている中をかき分けて二、三間ほど行くと、その塚がある。その由来は分からないという。/ここの南は秋元左兵衛佐殿の屋敷である。この塚には樫の木を植えて、その根元と、その前にも一つ石を置いてある。樫の木の大きさは一囲み、一丈四、五尺ほどである。木は伸びており、上の方に枝が張っている。周りは杉林だ。石の大きさは二尺三寸ほどで、縦一尺二、三寸、高さ二尺ほどである。全体としては紫青色であるが所々に白石英のようなものが含まれている。前にある石の方がやや大きい。伊豆の青石かも知れない。大石を切り出したまま加工していない石だ。二つの石ともびっしりと苔に覆われている。
  
 


 中野区との区境も近い、新宿中央公園の界隈にあったとみられる兜塚(墳丘の形状が兜を伏せたようなフォルムをしていたことから名づけられものだろうか)も、いまは中央公園や住宅街に整地されとうに現存していない。ちなみに、狛江市では「兜塚」と名づけられた丘を発掘したところ、古墳と判明したので兜塚古墳と命名されている。
 この記述で興味深いのは、ふたつの大きめな石が記録されている点だろう。村尾嘉陵は、海岸沿いに見られる「伊豆の青石」と想定しているが、同じ海沿いの石材で白い貝殻化石を含んだ房州石Click!だった可能性が高そうだ。南武蔵に展開する、古墳の玄室や石材に多く使われた房総半島の先端で産出する房州石Click!を、村尾嘉陵は観察しているのではないだろうか。また、切り出したままでなんら加工されていないのも、古墳の石材を想起させる形状だ。もし後世になって運ばれてきた石材なら、なんらかの目的があったはずで、加工しないままあたりに放置することは考えにくい。
 開墾や宅地化などで、中小の古墳から出土した玄室や羨道の石材(房州石)は、それほど大きな石が使われていないので廃棄されてしまうケースが多いが、たとえば昌蓮ゆかりの宝泉寺に隣接していた富塚古墳(高田富士)Click!などのケースのように、中型以上の古墳を崩した際に出土した石材は、その付近に保存される事例が多々みられる。富塚古墳の場合は、甘泉園Click!の西側に遷座した水稲荷社本殿の裏手に、玄室に使われていた石材の多くが保存Click!されている。また、大きくてかたちの整った石材の場合は、庭園の庭石にされたり、寺社の礎石にされている事例も見られる。
 もうひとつ、この「兜塚」で気づくことは、新宿駅西口に確認できる「津ノ守山」=新宿角筈古墳(仮)Click!や、成子富士(陪墳のひとつ?)が残る成子天神山古墳(仮)Click!、あるいは淀橋浄水場Click!の工事記録にみられる多くの古墳の事績を含めて考えると、西側の神田上水(平川)や淀橋方面へと下る角筈村の斜面あるいは丘上は、古墳が連続的に築かれてきたエリアではなかったかというテーマが、再び大きく浮上することになる。



 さて、先述の大きな房州石が、後世に江戸期からの旧家(大農家で付近を開墾の際に出土したとみられる)の庭石にされ、現存している地域がある。成願寺の裏山から北西へ2,900mほどのところ、同じ中野区内の古くから丸山・三谷地域Click!と呼ばれている旧・野方町の一帯で、中野区教育委員会が収集した後述する証言では、朽ち果てた「刀」が見つかり、その祟りが語られている地域だ。この大型古墳とみられる痕跡が残るエリアは野方駅の南側、江戸時代の行政区分でいえば下沼袋村(丸山・三谷)と新井村(三谷の一部)の村境に近い一帯だ。次回は、村尾嘉陵が歩いた旧・中野町界隈から離れ、旧・野方町へと足を向けてみよう。
                                 <つづく>

◆写真上:村尾嘉陵が訪れた、「性蓮長者」伝説が残る旧・本郷村の成願寺山門。
◆写真中上は、成願寺の本堂。は、本郷村から旧・角筈村に入ってすぐの角筈十二社。は、『嘉陵記行』に描かれた兜塚の石材挿画。
◆写真中下は、1828年(文政11)の散策をまとめた『嘉陵記行』10巻()と、1815年(文化12)の郊外散歩を収めた『嘉陵記行』11巻()。年代が前後するのは、訪れた方角や地域ごとに編まれているからだと思われる。は、落合地域を訪れたときの村尾嘉陵の散策行程。(『嘉陵記行』10巻および11巻の挿画より)
◆写真下は、下戸塚(現・早稲田界隈)から高田馬場(たかたのばば=幕府練兵場)周辺における村尾嘉陵の散策行程。高田富士の周囲に、現在は存在しない「山」と書かれたいくつかの丘があるのに留意したい。は、「百八塚」の昌蓮伝説Click!が残る早稲田大学に隣接した下戸塚の宝泉寺Click!は、水稲荷社の本殿裏に保存されている富塚古墳(高田冨士)の羨道や玄室に用いられた石材(房州石)で造られた稲荷社洞。