JAZZのハービー・マン(fl)の曲に、「Turkish Coffee」Click!という楽しい曲がある。『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)という、めったにJAZZ喫茶Click!でもリクエストされることのない、とても地味ィ~なアルバム収録の自作のナンバーだ。日本では、むしろ「Uskudar」のほうが有名だろうか。
 ハービー・マンも、かなりコーヒーClick!好きだったようだが、米国のコーヒーはあまりうまくはなかっただろう。全日本コーヒー協会(JCQA)によれば、コーヒーの産地ベスト5(2022年)は、1位がブラジル、2位がヴェトナム、3位がコロンビア、4位がインドネシア、5位がエチオピアだそうだが、なぜかコーヒーが美味しい国の上位には、これらの国々が入ってこないという不思議な現象がある。やはり、コーヒーClick!の美味しさは水と品質管理、そして淹れる道具立てや凝り方に大きなカギがあるのだろう。
 JCQAによれば、外国人にコーヒーがうまい印象の国はどこかと近年アンケート(あるいはインタビュー?)をとると、日本とオーストリア、イタリアの3国を挙げる人が多いそうだ。なるほど、コーヒーにこだわりをもち、豆や水の質、炒り方、道具類などに凝る、ちょっとヲタッキーで凝り性の人たちが多くいそうなところが、美味しいコーヒーを飲ませる国……ということなのかもしれない。それに、クセのない美味しい水や、美味しさを保つ豆の厳重な品質課題も、もちろん重要なテーマなのだろう。
 物書きには“コーヒー中毒”の人が多いらしく、1日にマグカップで6杯も7杯も飲まないと気がすまない作家やライターたちの話をよく聞く。上落合581番地(1918~1927年)からしばらく外遊のあと、すぐ東隣りの区画である上落合2丁目569番地(1932年~)の家で暮らした詩人の川路柳虹Click!も、そんなコーヒー中毒のひとりだったようだ。大正期に、1杯のコーヒーを詠んだ詩「珈琲茶碗」を残している。
 1921年(大正10)に玄文社から出版された、川路柳虹『曙の声』から引用してみよう。
  
 白い船のやうにかがやく/硬質の土器/その上にかかれた唐草は/朝の光りに花と見える/なみなみと盛られた/黒い珈琲 一口すするうちに/かけぬ詩のこと/女のこと……/冒涜の思想の一閃//しかし画家のするやうに/じつとみつめるコツプの/おもてには/ふと青々とした野がうつる/ブラジルの野原で/黒こげになつた百姓が/汗しづくの手に摘む珈琲/さてまたうつるは/陶工の竈 熱い火の室内/ろくろ廻す若人の顔……//げに自分を慰める一杯の珈琲には/これを盛る粗末な茶碗には/汗と悩みと苦労がまつはる/生はどこまでも喘ぎ/歓びは悩みに培はれる/わたしの詩作の汗は/いつも何の幸福をもたらす?
  
 川路流行とその周辺はよく知らないが、確かにコーヒーを飲んでいるときに読んだ本や、流れていた曲や、棚に光るMcIntoshClick!マッキンブルーClick!や、なにかモノ想いに沈んでいた夕暮れや、いっしょにいた友人たちや、もちろん女性たちなど、さまざまな情景がコーヒーの香りとともに甦ることがある。「♪一杯のコーヒーから~夢の花咲くこともある~」(藤浦洸/1939年)という歌は、実は若い恋人たちの歌などではなく、歳をとってから過ぎし日のノスタルジーまたはセレナーデに浸っている情景のようにも感じる。そういえば、「あのときは、ああだったな」と鮮やかに思い出せるのは、コーヒーの香りにまつわりついた「匂いの記憶」が脳を刺激して呼び醒まされるからかもしれない。
 親父は、コーヒーはそれほど好んでは飲まず、ふつうの煎茶や番茶が好きだったけれど、若い学生時代には代用品ではないコーヒーや、ふつうの飯をたらふく食べたくて、敗戦直後から米軍のPXで料理場のアルバイトをしている。いや、正確にいえば飯(めし=コメ)ではなく、米国らしい風味のパンということになるだろうか。だから、世間が食糧難の時代にもかかわらず、それほど困窮して飢えずには済んでいたらしい。
 
 

 米軍の隊内で支給されるコーヒー豆ないしは粉末コーヒーは、ドラム缶や石油缶へ大量に入れたような大雑把かつ品質もあまりよろしくないしろもので(しかし代用品ではなくホンモノだ)、決して現代のコーヒーのように美味しくはなかったと思うのだが、モノがなく代用品ばかり食わされ、飲ませられつづけた親父にしてみれば、それでも美味しく感じたのかもしれない。ただし、日本橋をはじめ京橋や銀座などの食いもん屋を、「母語」ならぬ「母味」として育った親父の舌にしてみれば、戦時中に比べればかなりマシと感じる、あくまでも相対的な「美味しさ」だったにちがいない。
 戦時中の代用コーヒーには、大豆を深炒りして「コーヒー」豆に見立てたり、大麦や小麦などの籾を焦がし、それを布などで濾した茶色い水を「コーヒー」と称して代わりに飲んでいたが、食糧の配給が困難になるとそれらもなくなり、タンポポの根を掘り返して乾燥させ、それを焦がしては「コーヒー」と自己暗示をかけて飲むなど、味も香りも本来のものとは似ても似つかない飲料を代用コーヒーと称していた。もっとも、タンポポの根を焦がして煎じたものは、古くから消炎剤や利尿剤の生薬として用いられており、現在でも薬局やスーパーなどでは自然療法の「タンポポコーヒー」として販売されている。
 さて、無類のコーヒー好きだった大泉黒石Click!も、戦時中はかなり不自由したようだ。おそらく彼の性格からすると、代用コーヒーなどもってのほかで、あまり口にしなかったのではないだろうか。太平洋戦争の初期には、欲しい品物が手に入ったが、「戦争の中頃から、混り物が入って来た。戦争の終わる頃は、完全なニセモノ、よく言へば代用品だけになった」と述懐している。大泉黒石は、コーヒーについて次のように書いている。
 1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.8」(1988年9月29日)より、大泉黒石『終戦と珈琲』から引用してみよう。
  
 それでも(代用コーヒーを)買ふ人があり売る店があって、戦争は終った。私は珈琲の先生ではない。たゞ五十年の経験から、素人の話をするに止るのだが、尋常の心臓を持ってゐる人にとって、これがその日の仕事を仕易くし、生活を楽しくする適度の昂奮を与へることは事実だ。萎弛してゐるエネルギーを鼓舞し胃酸の分泌を促すから消化不良には効果があるらしく、腎臓の作用をも助けるが、潰瘍を何所かに持ってゐる人は刺戟を避けるために余り沢山喫まないことだ。それだけだ。(カッコ内引用者註)
  
 大泉黒石Click!は当初、大豆や無花果(イチジク)の実を焦がしては代用コーヒーを試みていたようだが、「精神的にも肉体的にも効果ゼロだ」とやめている。
 


 大泉黒石は、米軍の通訳になればコーヒーや砂糖もたくさん手に入ると思い、敗戦直後に外務省を訪れ、正式に通訳官になっている。当時は、横浜のニュー・グランド・ホテルがGHQの本部になるとウワサされていたので、さっそく外務省が指定した横浜の旅館に滞在している。だが、ロクな仕事がなかったので、すぐに横須賀の米海軍基地へと向かった。ここでなら、うまいコーヒーにも飯にもありつけると思ったのだろう。
 横須賀での大泉黒石の仕事は、海兵隊の兵舎に図書館を創設するというものだった。各国語に堪能で、世界の多種多様な文献に通じていた彼には、まさにピッタリな仕事だったろう。当時の様子を、「黒石廻廊/書報No.8」の『終戦と珈琲』からつづけて引用しよう。
  
 これがアメリカの兵隊に塗れて九年何ヶ月の生活を送る皮切となったのだ。洋酒は兎も角も、珈琲と砂糖とクリームにありついた。この時分のことを「海兵図書館」といふ表題で東京新聞に書いた。海軍から陸軍の騎兵第五連隊に移ったのは十八ヶ月後で、珈琲に不自由はしなかったが、現にアメリカの兵隊が、喜んで使ってゐる石油缶大の缶詰の珈琲は、美味しくないといふ。美味しくないといふのは、女士官と女兵隊で、彼女等は一封(ポンド)入の缶詰を買ってゐる。無償と有償とは違ふだらうし、兵隊の用ひる珈琲を最上品とは思はぬが、美味しくないとは思はぬまんま、朝鮮戦乱が片づいて、何年間か喫みつゞけたのである。
  
 石油缶のような容器に入った船便でとどく大量のコーヒーは、長期輸送による品質劣化と金属の臭気が移り、とても美味しいとは思えないのだが、戦時中はまったく口にできなかった黒石の舌には、それでも「美味しい」と感じたのかもしれない。
 敗戦後、横須賀に勤務していた将校や士官たちと親しくなった大泉黒石は、面白いエピソードを記録している。神奈川から東京にもどった黒石は、さっそく1日「五杯も六杯も喫む」コーヒーの入手に困ることになった。そこで、米軍からのコーヒー横流しルートを探しまわるのだが、おかしなことに米海軍航空隊司令官をはじめ、将校や士官たちは軍支給のコーヒーを飲まずに「緑茶党」だったことが判明している。「緑茶党」の米軍人(特に上級将校)は相当数にのぼり、大量の緑茶が米軍基地へ運びこまれていたらしい。



 米軍の横流しルートには、コーヒーと煎茶の物々交換によるあまり知られていないルートも、日本のレストランや料理屋を介して存在したのではないだろうか。敗戦国の日本人たちはコーヒーを欲しがり、進駐してきた米軍では「緑茶党」が急増して煎茶を欲しがる不思議な構図。「なんだこれは?」と、大泉黒石は不思議に思い書きとめたのかもしれない。

◆写真上:夏のアイスコーヒーには、丹念にローストしたコーヒー豆が欠かせない。
◆写真中上は、ハービー・マン『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)。は、ペギー・リー『Black Coffee』(Decca/1956年)。は、こんな海の午後風景を観ながらゆったりとJAZZでも聴きたい夏の終わり。
◆写真中下は、1921年(大正10)出版の川路柳虹『曙の声』(玄文社/)と著者()。は、米兵にコーヒーをわたす英兵。は、1950年代の横須賀米海軍基地。
◆写真下:いずれも戦時中によく見られた代用コーヒーで、大豆コーヒー()、大麦コーヒー()、タンポポコーヒー()。コーヒーだと思って飲むと即棄てたくなるが、あらかじめこういう独特な飲み物だと納得して飲めば、それなりの風味が味わえるだろうか?