この春、宇都宮美術館へ「陽咸二-混ざりあうカタチ-」展Click!を観にいったついでに、同時開催されていた「二つの教会をめぐる石の物語」展にも立ち寄ってきた。「二つの教会」とは、宇都宮市内にある宇都宮天主公教会と宇都宮聖約翰(ヨハネ)教会礼拝堂のことだ。その中に、下落合風景を描いた作品(版画)があったのでご紹介したい。
 宇都宮市天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)は、スイスの建築家であるマックス・ヒンデル(Max Hinder)が1932年(昭和7)に設計した、ロマネスク様式(ロマネスク・リバイバル)の大聖堂を大谷石とコンクリートを用いて再現したスケールの大きな教会建築だ。下落合で設計し竣工した、国際聖母病院Click!の翌年にあたる作品だ。
これまで、Max Hinder設計の国際聖母病院本館を、地元の史料や呼称を優先し「フィンデル本館」としてきたが、人名にかかわるテーマなので地元史料を引用の際はそのまま「フィンデル本館(ママ)」とし、記事中では「ヒンデル本館」と表現する。
 「二つの教会をめぐる石の物語」展の会場には、さまざまな石造建築の写真や模型、絵画などが展示されていたが、その中に明治末からはじまる創作版画(新版画)Click!の運動へ参加した、水船六洲(みずふねろくしゅう)の『聖母病院』と題する作品があった。1932年(昭和7)に制作されたもので、ちょうどヒンデル設計の宇都宮市天主公教会二代聖堂が竣工したのと同年であり、国際聖母病院が完成してから1年後の作品ということになる。
 水船六洲は、1931年(昭和6)に東京美術学校彫刻科へ入学したが、同科に在籍しつつ版画の勉強もスタートしている。版画には中学時代から興味をもっていたらしく、特にムンクの木版画に惹かれていたと伝えられている。1936年(昭和11)に東京美術学校を卒業すると、関東学院中等部の美術教師をつとめるかたわら、美術団体に所属し彫刻と版画の双方を制作し展覧会へ出品する作家となった。
 東京美術学校では、任意活動の版画部に所属して幹事をつとめているが、校内に臨時版画教室が開設されると木版画を履修し、西落合1丁目157番地(現・西落合3丁目)に住んだ木版画の平塚運一Click!に師事している。また、臨時版画教室ではエッチングも学んでいるとみられ、そのいくつかは戦後の作品でも観ることができる。彼はよくインタビューなどで、「彫刻家なのか版画家なのかどちらが専門?」……と問われることが多かったらしく、その質問に対してはこんなふうに答えている。
 広島県呉市にある、呉市立美術館のWebサイトから引用してみよう。
  
 水船は「私はよく-版画が本職ですか、彫刻が本職ですか-という質問をうける。その度にぎくりとして-二本立ての映画館です。あとの一本はサービスです。-と逃げるが、これは私自身にも答えられない難しい問題だ。第一あとのサービスが彫刻なのか版画なのかはにわかには判じがたい。」と冗談めかして語っています。/彫刻は強い存在感を主調(と)する永続的・記念碑的・社会的な、峻厳な芸術形態であり、版画は移ろいゆく存在や生命の一瞬を表現することのできる身近で親しみやすい私的な媒体です。彫刻と版画は水船の中で一つのものとして繋がっていると同時に、その芸術衝動を適度に分散させ、二つの領域によって相互に充足されるものであったようです。(カッコ内引用者註)
  
 
 

 水船六洲が落合地域に足しげくやってきたのは、師の平塚運一Click!が西落合に住んでいたからか、あるいは創作版画運動の一大拠点となっていた、西落合1丁目31番地(現・西落合1丁目9番地)の白と黒社Click!、すなわち版画雑誌の「白と黒」や「版芸術」などを発行していた料治熊太Click!がいたからだろうか。彼は目白通りを歩いていて、版画のモチーフとなった国際聖母病院を見つけたのだろう。山手線・目白駅から西落合の平塚運一アトリエまでは直線距離で2.3km、目白駅から同じく西落合の白と黒社までは2.1kmで、国際聖母病院はほぼその中間点の位置にあたる。ちなみに、当時は背の低い建物しかなかったので目白通りから聖母病院はよく見えたろうが、現在はまったく見えなくなっている。
 『聖母病院』の画面を観察すると、国際聖母病院のヒンデル本館(特に尖塔部分)がかなりデフォルメしてとらえられており、白いはずの雲に刷りインクが載って黒く表現されているため、太陽が西へかなり傾いた夕刻の風景だと思われる。光源は、左手やや奥の比較的低い位置にあり、画面はほぼ逆光の位置から西側を向いて描かれている。すなわち左手が南側であり、ヒンデル本館の東側に突きだしたウィングが描かれていることになる。また、手前に描かれた和風の住宅と、病院の間に距離があるように感じるのは、当時の補助45号線(現・聖母坂)Click!が通っているからだ。
 画面の手前には、いかにも庭木らしい枝ぶりの樹木が見られるので住宅の庭か、あるいは空き地のようになっており、地面には雑草の繁っているのがわかる。大正期からこの東西の敷地には、東京高等師範の数学教授だった佐藤良一郎邸Click!(手前)と、東海電極製造の監査役だった森孝三邸(奥)が建っていた。だが、聖母坂に面した日本家屋の森孝三邸らしい建物は描かれているものの、手前に佐藤邸があるようには見えない。住宅が解体された跡の、空き地のような風情だ。また、森邸は昭和10年前後に大規模な増築が行われ、画面に描かれている邸の倍近くの規模になっていると思われる。




 ちょうど同じような時期に、水船六洲の描画位置から180度反対の方角を向いて描いた画家がいた。武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した資料に収録されている、『風景(仮)』と題された作品番号OP284およびOP285Click!を制作した清水多嘉示Click!だ。わたしは、周囲の風情や曾宮一念アトリエClick!の増築の様子から、OP284とOP285の制作時期を1931年(昭和6)をすぎたあたりと推定していたが、これら2点の画面の手前に描かれた佐藤良一郎邸の敷地も、やはり建物が存在しない空き地のような風情に表現されている。すなわち、佐藤邸は1931~1932年(昭和6~7)ごろに解体され、どこかへ転居しているのではないだろうか。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)にも、すでに佐藤良一郎の名前は収録されていない。
 また、水船六洲『聖母病院』や清水多嘉示『風景(仮)』×2作品の6年前、1926年(大正15)の夏にごく近くでイーゼルを立てていた画家がいた。暑いさなかに仕事をしていたのは、連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描いた佐伯祐三Click!だ。さらに、水船六洲の『聖母病院』からさかのぼること9年前、佐藤邸の門前から東を向いてキャンバスに向かっていた画家もいる。1923年(大正12)に自身のアトリエClick!浅川邸Click!の土塀を入れて、『夕日の路』Click!を制作した曾宮一念Click!だ。
 水船六洲は当時、これらの画家たちを知っていたかどうかは不明だが、少なくとも自身の立場と酷似している彫刻家で画家だった“二刀流”の清水多嘉示Click!と、『聖母病院』の描画位置から振り返れば、すぐ目の前にアトリエが見えていた曾宮一念Click!のことは知っていたのかもしれない。また、師の平塚運一や創作版画の仲間たちから、落合地域に集う数多くの画家たちの名前を聞きおよんでいた可能性もありそうだ。
 さて、木版画『聖母病院』の画面観察にもどろう。水船六洲は、諏訪谷へ急激に落ち込むバッケ(崖地)Click!、元(?)佐藤良一郎邸の敷地ギリギリのところに立ってスケッチをしているように見える。画面の左手から背後にかけ、当時は7~8mはあった崖の下に谷戸(諏訪谷)が口を開けている。崖には、いまだ擁壁が築かれておらず、むき出しの急斜面には草木が繁っていたはずだ。この崖地の部分にコンクリートの擁壁が設置されるのは、戦後も10年以上がすぎて焼け跡に建った簡易住宅が減り、諏訪谷の再開発が改めて進捗してからのことだ。すなわち、水船六洲は下落合731番地の旧(?)・佐藤邸庭の崖淵から、下落合669~673番地に建つ国際聖母病院のヒンデル本館を描いていることになる。




 版画『聖母病院』の描かれたのが夕方で、周囲の草木が青々としていそうなことから日の長い夏季だとすれば、そろそろ聖母病院のチャペルの鐘が鳴り響きそうな時間帯だろう。水船六洲は、その鐘の音を聴きながら、スケッチブックに描きとめた風景なのかもしれない。

◆写真上:1932年(昭和7)に制作された、水船六洲の木版画『聖母病院』。
◆写真中上は、宇都宮のカトリック松が峰教会聖堂()と、設計者のマックス・ヒンデル()。は、1935年(昭和10)制作の水船六洲『婦人像』()と、作者の水船六洲()。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる諏訪谷界隈。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる水船六洲『聖母病院』の描画ポイント。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同界隈。中下は、1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空襲11日前の同界隈と各画家の描画位置。は、戦後の1955年(昭和30)に撮影された諏訪谷と聖母病院と描画位置。いまだ、バッケ(崖地)にはコンクリート擁壁が築かれていない。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『夕陽の路』。は、周囲の情景から1931年(昭和6)すぎの制作とみられる清水多嘉示『風景(仮)』のOP284()とOP285()。は、1926年(大正15)の夏に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。
おまけ
 現在のGoogleEarthから見た、水船六洲『聖母病院』(1937年)の描画ポイント。もちろん、家々が建てこんでいるので、水船六洲がスケッチしていた位置には立てない。