以前、落合地域を含めた「東京牧場」Click!をテーマにした記事Click!を書いたとき、参照した資料(東京牛乳畜産組合名簿/1919年)の中に、落合村の牧場数が2軒と記録されており、そのうちの1軒が上落合247・429番地にあった福室軒牧場Click!(1923年の関東大震災後に廃業)と判明して記事にしたことがある。もうひとつ、葛ヶ谷(のち西落合)374番地にあった斎藤牧場の詳細も判明したので、改めてご紹介してみたい。
 斎藤牧場の歴史は古く、1907年(明治40)ごろからすでに乳牛牧場として開業しており、1929年(昭和4)に廃業するまで約23年間も営業をつづけた牧場だった。古くから葛ヶ谷(西落合)にお住まいなら、親の世代から斎藤牧場について聞いている方も少なくないのではないだろうか。牛乳の納品・配達先は、森永牛乳や興真牛乳をはじめ、周辺の商店(アイスクリーム屋、氷屋Click!菓子屋Click!など)、日本女子大学寮Click!井上哲学堂Click!、近所に建ちはじめた個人邸など、企業から家庭まで多彩だった。
 斎藤牧場を実質的に経営していたのは、斎藤とりという女性だった。名義上は夫が牧場主だったようだが、早稲田大学を卒業した学究肌の人物だったらしく、プライベートな研究課題に熱心だったためか牧場事業をあまりかえりみず、とり夫人が事業のいっさいをとり仕切っていた。ただし、女手ひとつではすべての業務をこなしきれないため、家には女中をふたり置き、牧場にはスタッフを常時3人ほど雇い入れていたようだ。牧場には、最盛期に20頭以上の乳牛ホルスタインが飼われていた。乳牛1頭につき、1日に1斗(約18リットル)のミルクが搾れたという。
 牧場の経営はおしなべて順調だったようだが、1918年(大正7)ごろ2棟あった牧舎のうち1棟が火事になり、乳をよく出す乳牛の1頭が火傷が原因で死亡している。この火災には、地元の消防団Click!である葛ヶ谷消防隊も出動しているのだろう。牧舎全体に火がまわる前、牛をつないだロープを日本刀で次々と斬って逃がしたようだが、特に乳をよく出す「銘牛」の1頭は間に合わなかったらしい。記録には「銘牛」と書かれているので、どこかの品評会で優秀賞でも受賞した乳牛だったのかもしれない。
 とり夫人は、葛ヶ谷御霊社の祭礼時にはかなり多めの祝儀を出していたらしく、同社の神輿が葛ヶ谷を巡行するときは、斎藤牧場の中にまで入りこんで厄除けのためにかなり長時間にわたりもんでいった。また、先の牧舎が火災にみまわれたときは、葛ヶ谷消防隊がいち早く駆けつけ、斎藤家の母家へ火がまわらないよう、屋根上で纏をふって懸命に火の粉を払ってくれたらしい。現在でも葛ヶ谷御霊社の大・中神輿は、旧・葛ヶ谷374番地(現・西落合4丁目16番地)をかすめるように巡行しているが、斎藤牧場があった当時からの名残りなのだろう。
 斎藤牧場の想い出を語っているのは、とり夫人の子息である斎藤嘉徳という方だ。1997年(平成9)に、新宿区地域女性史編纂委員会が発行した『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、「葛ヶ谷で牧場を経営した母」から引用してみよう。
  
 母は明治二五(一八九二)年生まれです。朝は五時にはいつも起きていました。牛はきれい好きなものですから、まず若い衆といっしょに牛舎の掃除をしました。牛舎は藁葺き屋根だったんですよ。/餌は近所の農家から青草を目方で買いました。芋づるも牛の好物でしたね。夏場はそれで間に合いました。青草は干し草にしないで一日か二日で食べさせてしまうんです。飼料はその他に豆板(大豆かすを固めてプレスしたもの)や糠、ビールかすなどを問屋から車で何台も購入しました。おからも買いましたから豆腐屋がしょっちゅう出入りしていましたね。豆板はなたでけずり落として水で煮て柔らかくしてから、他の飼料と混ぜ合わせたもんですよ。竹やぶの竹に縄を張って、大根の葉っぱを干して干葉(ひば)を作りそれも餌にしたんです。そういうものを配合して食べさせると濃い牛乳が出るんですよ。飼料は飼料小屋に入れて保存しました。
  



 森永や興真など牛乳メーカーに、搾乳した乳を瓶詰めにして納品するときは、遠心分離機を使った品質検査が毎日あったという。1合瓶の牛乳を使い、遠心分離機に1分間ほどかけると、脂肪分の数値が検出される。脂肪分が高いほど、高価に買いとってくれたようで、脂肪分の低い数値が出るとエサの見直しや工夫が行われた。
 当時(大正後期ぐらいか)の牛乳は、1合瓶の1本が7~8銭で売られていた。大口の顧客への納品はトラックで運んだのだろうが、近所への配達は子どもも手伝っていた。自転車に仕切りのついた箱を取りつけ、1合瓶を15~16本ほど入れては、近くの商店や個人宅をまわって配達している。これらの業務いっさいを、牧場のスタッフや子どもに指示していたのが、実質牧場主のとり夫人だった。
 つづけて、同書の「葛ヶ谷で牧場を経営した母」から引用してみよう。
  
 若い衆は三人ぐらいはいつもいましたから、牛の体を洗ったりのきつい仕事は任せられましたが、牛のお産や搾乳など何でも母はやっていましたね。女中も二人いたので家事は任せていたようですけれど。若い衆は月給制で月二、三〇円でした。母のいうことを「はい、はい」とよくきいていましたね。/牛乳の入った大きなバック(タンク)の中に、瓶詰にした牛乳を入れて蒸気で蒸す高温殺菌法と、氷のバックに入れて冷却殺菌する方法と二通りありましたんです。氷で殺菌する方が牛乳が「しまって」好まれましたね。燃料は主に石炭でした。電気は大正の初めに引かれました。ずっと井戸を使っていて、水道を引いたのは終戦の翌年です。
  
 牛乳の殺菌法で、フランスのパスツールが開発した低温殺菌法(パスチャライズド)が日本で一般化してくるのは、大正末から昭和初期にかけてなので、この証言はそれ以前の大正時代に見られた殺菌法の様子だろう。石炭の火力を使った高温殺菌では、牛乳の成分が変化して風味が変わってしまったかもしれず、氷による冷却殺菌では細菌の数をたいして減らせなかったのではないかと思われる。
 大正初期に葛ヶ谷には電気が引かれているが、東隣りの長崎村や西隣りの江古田村もほぼ同時期だったろう。湧水が清廉で美味しく、近くに野方配水搭Click!があるにもかかわらず、荒玉水道Click!の水を使わなかったのは落合地域のどこでも同じだ。下落合では、1960年代に入ってからも美味しい井戸水の使用をやめない邸がかなりあった。



 1923年(大正12)9月の関東大震災のときは、斎藤牧場にほとんど被害は出なかったが、牛乳の卸問屋が業務を停止してしまい販売が不可能になってしまった。そこで、とり夫人は震災直後の3日間、5斗(約90リットル)の牛乳を荷車に積んで、近くに被服廠跡Click!もある被害がもっともひどかった本所界隈に出かけていって、毎日牛乳を被災者に配り歩いた。カルピスClick!三島海雲Click!と同様に、残暑がきびしい時季だったので、腐敗防止のために冷却殺菌用の氷も積んで、よく冷えた牛乳を配って歩いたのかもしれない。ちょっと、守山商会Click!(守山牛乳Click!)の大震災による被災者の群れを絶好の商機ととらえた、守山兄弟Click!に聞かせてやりたいようなエピソードだ。w
 昭和初期になると葛ヶ谷の耕地整理が進み、下落合と長崎の両方面から宅地化の波が押し寄せてきて、衛生や周辺への臭気の問題から、斎藤牧場は徐々に肩身のせまい事業となっていく。さらに、警視庁Click!や自治体からの衛生管理も年々きびしくなり、乳牛の飼育環境から搾乳法、牛乳の管理、果ては搾乳する作業員の健康管理にいたるまでやかましくいわれるようになった。守山商会の事例で、この時期に酪農家をやめる事業者が続出している記事を書いだが、斎藤牧場でも殺菌室の設置など新たな設備投資をあれこれ指示され、とても採算が合わないために廃業へ追いこまれている。
 ほとんど事業継続を断念させるような、この時期の酪農家への締めつけは、名目は誰にも反対できない牛乳や乳製品に関する衛生品質の向上(消費者利益をうたいながら)だったが、大手牛乳メーカーと行政が手を組んで中小の酪農家をつぶして淘汰し、潤沢な設備資金があり大牧場を抱える大手企業の、市場独占をもくろんだ策動のようにも見える。



 さて、斎藤牧場の経営をとり仕切ったとり夫人と、裁判官をめざしていたらしい早大の連れ合いとは、当時ではめずらしい恋愛結婚だった。とり夫人は仕事をやめたあと、さまざまな思い出が詰まった牧場経営について息子に語って聞かせたらしい。戦時中、西落合はオリエンタル写真工業Click!の工場や野方配水搭Click!などの周辺は空襲を受けたが、斎藤牧場跡は無事だった。とり夫人は、戦争が終わった直後の1949年(昭和24)に死去し、牛乳配達のお得意先だった井上円了Click!が眠る近くの蓮華寺に葬られている。

◆写真上:第2回帝展に出品された、1920年(大正9)制作の三上知治『仔牛』。渡仏前の作品だが、大正後期には下落合753番地に住んだとみられる三上知治Click!なので、このホルスタインの仔牛も近くの牧場で写生したものかもしれない。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に撮影された斎藤牧場跡。は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる斎藤牧場。は、斎藤牧場跡の現状。
◆写真中下は、1994年に新宿歴史博物館より出版された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』(資料A)に掲載の葛ヶ谷御霊社中神輿巡行ルート。は、大正期の葛ヶ谷消防隊。(『おちあいよろず写真館』コミュニティおちあいあれこれ/2003年より) は、1954年(昭和29)ごろの西落合に残る藁葺き農家。(資料Aより)
◆写真下は、昭和20年代に撮影された住宅街のあちこちに畑が残る西落合風景。(資料Aより) は、1913年(大正元)ごろに撮影された西巣鴨保里牧場で産まれた仔牛たち。(「ミルク色の残像」展図録・豊島区立郷土資料館/1990年より)