村尾嘉陵Click!が下落合の藤稲荷Click!を訪れたとき、土人(江戸期は地元民の意)の面白い声をひろっている。御留山の中腹にあたる藤稲荷社より、南側に拡がる戸塚(現・高田馬場)から、戸山、角筈(現・新宿)方面の眺望をしばらく楽しんでいたときだ。
 村尾嘉陵は、事前に地誌本ででも調べておいたのか、目白崖線のこの先に七曲坂Click!があるのを知っていたようだ。そこで、なぜ「七曲(ななまがり)」という名称がついたのかを、そこにいた地元の住民に訊ねている。現在の下落合では、鎌倉期からつづく切通し状の坂道がもともとは7つの“曲がり”、つまりカーブをもっていたからというのが一般的だ。だが、江戸期に嘉陵が採取した話は、少し趣きが異なっていたのがわかる。
 1824年(文政7)9月12日(太陽暦で10月中旬ごろ)に、下落合へやってきたときに村人から聞いた証言だ。2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「藤稲荷に詣でし道くさ」から引用してみよう。
  
 (藤稲荷の)なかほどの平らになっている所から見渡すと、南側の田圃の向こうに木立が続いている。そのしまいに外山(ママ:和田戸山)にある尾張徳川家の下屋敷のこずえが見える。「七曲がりというのはどの辺りか」と尋ねると、「この山を登って行くにも、この先にも、どの道を行くにしても何度も曲がらずに行ける道はない。それでみんなが七曲がりと名付けたのだ」と言う。(カッコ内引用者註)
  
 おわかりのように、江戸期の下落合の住民は、「坂に7つのカーブがあるから七曲坂だ」とは規定していない。七曲坂の丘を上るにしても、坂道に出るにしても(このあたり言いまわしが微妙だが)、いくつもカーブがあるから「七曲」と付けられたと答えている。ただし、「どの道をいくにしても」の起点が明確にされてはいない。
 当時、幕府が制作した大江戸郊外の地図である『御府内場末往還其外沿革圖書』を参照すると、七曲坂Click!は現在とほぼ同一のかたちをしており(もちろんいまの道幅は拡幅されているが)、坂上までのカーブは3ヶ所しか数えられない。ところが、村人が証言するように、七曲坂へといたる道路を考慮に入れると、確かに七曲坂の下へたどり着くまで、7つのカーブを数えられる街道筋が3本ある。この場合の起点とは、隣り村との境界から下落合村へと入る3つの古道だ。
 七曲坂は下落合村(現・中落合/中井地域含む)の東部、「本村」Click!の東端にあるので、接する村は下高田村(のち高田村)と戸塚村ということになる。目白崖線の麓を通る雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)は、東側の下高田村へと抜けているが、その村境から七曲坂の下まで、7つのカーブを数えることができる。また、戸塚村から田島橋Click!をわたって下落合村に入り、七曲坂の下にいたる道もまた7つのカーブが数えられる。これらの道筋は、明治以降の拡幅や舗装とともにいまは直線化が進み、かなりカーブが修正されてはいるが、それでも曲がりくねった道のまま現在にいたっている。
 もうひとつ、北側の街道筋である清戸道Click!(せいどどう/1919年の『高田村誌』より)から南へ入り、鎌倉期の板碑が建つ七曲坂の下にいたる道筋もまた、7つのカーブを数えることができる。ただし、この道筋は七曲坂の坂上までは5つのカーブで、他の道筋と同様に鎌倉期の板碑が建立されていた、「本村」の入り口とみられる坂下まで数えないと、7つの“曲がり”にはならない。



 以上のように、下落合村から見ておもに大江戸の中核である千代田城Click!の方角からやってくる場合、七曲坂(の坂下にある板碑位置)までには、その道筋に7つの“曲がり”があると解釈することができそうだ。当時の地名や川(堀)名などが、千代田城(御城)を中心として付けられたことを考慮Click!すれば、村人が「どの道を行くにしても」のやってくる方角は千代田城、つまり大江戸市街のある東南側の村境と解釈しても不自然ではないだろう。
 さて、藤稲荷の境内がある御留山を下りた村尾嘉陵は、雑司ヶ谷道を再び西へとたどっていった。訳註を省略し、同書から再び引用してみよう。
  
 神殿の前を下って西に行くと、道の傍らに寺がある。石を敷き並べ、見た目にはきれいである。薬王院という。門を入って右に鐘楼、石の宝塔があり、「宝暦九年当寺十三世隆音建」と刻まれてある。その年号から開基がそう古くないことが分かる。向かいに客殿、左に庫裏がある。みな茅葺きである。庭には大きな柿の古木がある。後ろの山には松や杉が生い茂り、眺めは素晴らしい。建物の垣根に沿って狐や兎が通る小径を登っていく。まさにここも七曲りなのであろうか。
  
 当時の薬王院(東長谷寺)Click!は、本堂や庫裏(方丈)、鐘楼などの配置が今日とはまったく異なっている。このとき村尾嘉陵は、戦災で焼失した茅葺きの太子堂Click!を見ているはずだ。せっかく裏山へ上ったのだから、藤稲荷社と同様に少しは眺望の様子を記録してくれたらと思うのだが、あまり興味を惹くものが目に入らなかったのだろう。わたしとしては、このときすぐ右手に見えていただろう摺鉢山Click!の様子が気にかかる。
 村尾嘉陵の想像どおり、下落合の薬王院は彼が訪れる150年ほど前、実寿上人が延宝年間に再興した寺だが、もともとの開基は彼の想像を超えて鎌倉時代までさかのぼる。しかも、1730年代の後半(元文年間)に火災で大半が焼失しており、村尾嘉陵は旧来の堂宇が再建されない状態の境内を観察していることになる。現在、山門を入って右手の庫裏は1878年(明治11)の建築で、正面の鉄筋コンクリート製の本堂は戦後のものだ。「狐や兎が通る小径」は獣道のことだろうが、現在はタヌキClick!が周囲を徘徊している。




 つづいて、薬王院の裏山の様子を引用してみよう。
  
 木の根や葛などが絡まりあっている道を幾度も曲がって登り詰めると、上は広い畑になっている。畑の向かいは四家町から上板橋に行く道である。さらにそのはずれが、鼠山の辺りであろう。他からでも眺められる景色ばかりで、四方の見晴らしがきくわけでもない。木の下には小笹が生えていて足元がおぼつかないので、先に進むのはやめて、またもとの道を下ってくると、思いもかけず足元から雉子が飛び立っていったのが面白い。牛込辺りまで帰る頃には、月がくっきりと照っている。
  
 目白崖線の丘上に出た村尾嘉陵は、ほうぼうを歩きまわってさすがに土地勘がついたのか、畑の向こうに清戸道Click!鼠山Click!を的確に認めている。でも、眺望がきかないのが不満だったらしく、せっかく傾斜が急な丘上まで上ってきたにもかかわらず、再び薬王院のある山麓へと下りてしまっている。
 足もとに小笹が密集して歩きづらいと書いているが、これはわたしも学生時代にオバケ坂Click!で経験している。当時の急なオバケ坂は、両側から小笹の枝葉が足もとを覆っていて、舗装されていない道幅は50cmも見えるかどうかの細い山道だった。わたしの場合は、あえて好んでオバケ坂をよく利用しアパートへ帰っていたわけだが、夜遅く通るときなどは真っ暗で、スリルがあって楽しかった。
 村尾嘉陵も書きとめているが、当時の下落合にはキジが多く棲息していたらしい。中野筋にあたる御留山Click!で、頻繁に鷹狩りを繰り返した8代将軍の徳川吉宗Click!だが、獲物の中にはほぼ毎回キジが含まれている。




 村尾嘉陵は、下落合村ばかり訪れている印象だが、当時は下落合村より石高が豊かだったとみられる上落合村へも足を運んでいる。次回は7年後、藤稲荷や氷川明神社Click!、薬王院と順ぐりに再訪し、落合富士のある浅間社まで足をのばした記録をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:鎌倉時代の開拓らしく、騎馬が通れる傾斜を確保した切通し状の七曲坂。
◆写真中上:鎌倉時代に魔除けの板碑が設置された、「本村」東端の七曲坂下へと向かうカーブの多い江戸期の道筋。幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースにした街道筋の7つのカーブ。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より)
◆写真中下:七曲坂の四季折々。
◆写真下:旧・本堂(方丈/上2葉)が落ち着いた味わいの、四季折々の薬王院境内。