大正期のさまざまな資料を参照していると、1918~1920年(大正7~9)にかけての3年間で、「スペイン風邪」Click!に罹患して死亡した人たちの記述が目立つ。当人も罹患しつつ、なんとか回復して生き残れたが、親や兄弟姉妹が死亡しているケースが多い。また、記録者の本人は発症せず、友人たちを喪った記録にもたびたび出あう。
 当時は、いまだウィルスという存在が知られておらず、単なる「流行性感冒」の治療ぐらいしかなかったわけだが、3年間に三度におよぶ流行のピークがあったようで、いちばん猖獗をきわめたのは世界じゅうで変異ウィルスが暴れまわったとみられる2年目だった。換言すれば、ウィルスに対抗するなんらかの医療技術や手段が存在せず、完全に放置状態(つまり自然の推移にまかせたまま)の状態だと、新たなウィルスの出現から、その存在がどこかへ潜伏して終息するまで、3年間(三度のピーク)が“必要”だったことになる。
 その史的な経験に倣えば、来年もまた三度目の流行がありそうだけれど、今年よりは来年のほうが感染者数のピークがやや低めではないかとの予測もできるだろうか。ただし、新型インフルエンザとされるスペイン風邪のウィルスと、今回のCOVID-19に共通性があり、ウィルスの拡がりからどこかへ消えていく(潜伏する)までのサイクルが近似しているという前提での予測であって、大正期の経験がそのまま通用するかどうかは不明だ。
 来年もまた、1年目と同じような流行がつづくとすれば、かろうじて2年目を乗りきった息ぎれ寸前の事業や店舗が、致命的なダメージを受けることは避けられないだろう。2年目でさえ、周辺を散策すると店舗を閉めてしまった飲食店や、知らないうちに別の店に変わっていた事例が多いのに気づく。あるいは、持ち帰りや出前(蕎麦屋や寿司屋、中華屋、うなぎ屋にテイクアウトやデリバリーという外来語はまったく似合わない)のみになり、客を店内には入れないところも多くなっている。
 わたしの仕事も、例年とあまり変化がなくバタバタと忙しい貧乏ヒマなしは相変わらずなのだけれど、この2年間をふり返ると確実に案件の数が減少している。また、ほとんどの会議がリモートになり、打ち合わせに出る機会が急減した。つまり、外での打ち合わせついでに飲食をする機会が激減したため、街中の様子がリアルタイムに把握できなくなっている。これは、拙ブログの記事を書くときも同様で、現場へ取材に出向いたり、あちこち出歩き資料や情報を収集したりすることができず、すでに手もとにある資料類や、以前に撮影しておいた写真などへ依存せざるをえなくなっている。
 そんな状況下でも、COVID-19禍の影響をあまり受けていない業種業態があることに気づいた。営業形態はB to BあるいはB to Cを問わず、それほど注文も減らずにいつも通りの地味な仕事をコツコツとつづけている、江戸期からあまり変わらない特殊な職人の世界だ。別に店舗をかまえる必要はなく、工房あるいは作業場さえあれば仕事ができる昔ながらの職人たちだ。刀剣の研ぎ師Click!も、そんな特殊な専門職の世界に入るだろう。
 B to Bすなわち刀屋Click!からの研ぎの注文も、またB to Cつまり個人の愛好家からの注文も、それほど仕事量が変わらずに推移していたらしい。特に、家庭ですごすことが多くなった個人からの研ぎの注文は、逆に増加傾向にさえあるようだ。いままで多忙だった人たちは、自邸にある先祖から伝わった刀剣類を顧みることなく、なかなか研ぎ師へ出せなかったものが、新型コロナ禍で家の中の整理や掃除をする機会が増え、刀剣類に水錆が浮いているのに気づき、あわてて研ぎ師Click!のもとへ持ちこむようなケースもあるのだろう。




 最近は、研ぎに関する細かな注文内容をあらかじめメールでやり取りし、宅配便のコワレモノ品扱いで研ぎへ出す人も増えており、知りあいの研ぎ師によれば「何ヶ月か先まで、予約が埋まっちゃってるんですよ」と、以前よりも需要が増えているようなのだ。また、ネットの普及で非常に便利になったことがある。手もとの刀剣を研ぎに出す際、「あなたの美意識にかなうよう、好きな研ぎにしてくれ」といった研ぎ師まかせのケースはまず皆無で、愛好家は細かな注文や条件を提示して研ぎに出すことが多い。
 換言すれば、研ぎの細かな条件や注文に対して支障が出た場合、従来は時間をかけていちいち注文主に確認をとらなければならなかった。たとえば、いま以上に物打(ものうち)を研ぐと芯鉄(しんがね)が顔を出す可能性があるとか、鋩(きっさき)あたりに鍛え傷が出そうな気配だがこのまま研ぎをつづけてもいいかとか、それが馴染みのある個人からの注文なら電話で相談すれば短時間で済むが、刀屋経由の仕事だと一度委託された研ぎが中途の作品を店にいったんもどして、所有者の判断を改めてあおがなければならない。それが、ネットを介して詳細な画像つきでスピーディなやり取りができるようになったせいで、研ぎ師の業務効率が格段に向上したというわけだ。
 わたしも、「地鉄の性質に見あうよう、思いどおりに研いでみて」と研ぎ師に注文したのは、いつかご紹介済みのこの地域から出土Click!した古墳期の錆びた鉄刀Click!ぐらいのもので、通常の刀剣はやはり細かな条件や留意点を付加しながら研ぎに出すことになる。なぜなら、刀剣は鍛造された時代や地域、目白(鋼)Click!の品質、あるいは刀工の環境などによってその出来は千差万別であり、「ふつう」や「一般的」な研磨では通用しない場合が多いからだ。もっとも、これらの条件はベテラン研ぎ師のほうがよほど詳しく知悉しているので、愛好家と研ぎ師との信頼関係にも大きく左右される。特に初心者の場合は、ベテランの研ぎ師に任せてしまったほうがまちがいがない。
 刀工が置かれた生活環境ひとつとってみても、用いられている目白(鋼)の品質が左右されるし、有名な刀工でも貧乏な時代Click!は良質の目白(鋼)が調達できず、また生活費を稼ぐため短期間で数多く制作した作品も少なくないため、鍛え割れや地肌の荒れが出やすい……などといった具合で、研ぎ師は細心の注意を払いながら仕事を進めることになる。そして、研ぎの進捗過程がネットの普及で精細画像とともに刀剣の所有者へリアルタイムでとどけられ、なにか確認が必要になった場合でもスムーズなやり取りが可能になった。
 先年、ずいぶん以前に知人から譲っていただいた平造り(ひらづくり)の無銘短刀が、古研ぎの状態のまま曇りが気になっていたので、そろそろ研ぎどきかなと馴染みの研ぎ師に相談してお願いした。すると、下地研ぎから仕上げ研ぎまで、最低でも13工程ほどある研磨作業のうち、要所の段階を終えるそばから精細な画像でレポートをいただいた。数日おきにメールで報告を入れてくれ、その出来の状態を確認しつつとても満足のいく仕事をしてくれた。「かなり上質な鋼が練れた、重ねも十分で研ぎやすくいい出来の作品です」ということで、特に問題も起きずにスムーズな作業だったようだ。
 研ぎ師によれば、砥石への当たり具合からおそらく江戸前期に鍛造された作品らしく(このあたり、各時代の作品研磨を数多くこなしている研師の経験と勘は確かだ)、数打ちものではなく非常にていねいに鍛造された注文打ちの作品らしい。1尺ちょっとの寸延び短刀なので、研ぎの料金は6万円余で済んだが、面白いオマケがついた。





 研ぎ師から、「茎(なかご)に銘をつぶした跡がありますね」との連絡をいただいた。わたしも、作品をお譲りいただいたとき、茎の改変というか“傷”は指摘されていたので知っていたが、おそらくあまり人気のない美濃の関鍛冶あたりの刀工銘をつぶして鑢目も変え、有名刀工の無銘作かなにかに仕立てた、江戸時代の刀屋の仕業だろうと考えてあまり深くは観察しなかった。ところが、「つぶし具合から銘を推測すると、<村正>の銘を消しています」 と聞いてちょっと驚いた。旧・所有者は茎に傷があったため、あえて日刀保Click!には出さず折り紙Click!(鑑定書)は取得していなかった。
 とすると、前後の史的な事情は大きく変わってくる。室町末から江戸後期まで栄えつづけた千子村正一派は、芝居や講談ではその鋭利さとともにつとに有名だが、美術刀剣としての価値はその人気ほどには高くない。銘を消して人気刀工の作品にスリカエようとした江戸期の刀屋の「詐欺」商売とは別に、この短刀は徳川家の家臣か、あるいはその妻女が身につけていたものではないかという疑いが濃くなった。
 歴史好きの方なら、もうおわかりだろうか。家康自身が村正の鎗の穂先や小柄(こづか)で何度かケガをしたという伝説や、徳川家が村正には代々祟られつづけているという、まことしやかなウワサが江戸期にどこかでつくられ、巷間にまで流布するようになっていった。どこまでが事実で、どこからが作り話なのかはさだかでないが、倒幕をめざす幕末の諸藩士たちが、徳川家に祟るといわれる村正を好んで指していたのは有名な事実だ。
 ところが、幕府の旗本や御家人の間でもそんなウワサが浸透していき、幕臣たちは謀反を疑われないよう先祖から伝承された村正の銘を、わざわざつぶしている。この短刀も、そんな危機感を抱いた幕臣(の妻女)が、茎の改変を刀屋に依頼したのではないか……という、もうひとつ別の物語が見えてくる。もっとも、のちに徳川家の武具蔵Click!にも村正が存在していたことが明らかになり、徳川家に祟る「妖刀村正」の伝説は、芝居や講談好きな誰かが流布した創作がひとり歩きして、徐々に拡がったのではないかと疑われるようになった。家康は、息子のひとりに村正の大刀を形見として授けてるし、もちろん徳川美術館Click!にも同家に収蔵されていた村正は展示されている。
 江戸期の村正一派も、そんなウワサを気にしたせいかあえて銘を切らなかったり、村正ではなく「藤正」などと刻んだりしている。藤の花は「むらさき」なので、言わず語らずわかるでしょ?……というシャレのめしだ。研ぎ師に指摘され、そういう目で改めて短刀を見直すと、地鉄がよく練れた板目で、錵(にえ)本位の刃文は尖がり刃に箱刃らしきものが混じり、ところどころ駈け出しそうな刃文が見られるなど、確かに村正ないしは千子一派らしい出来だ。茎が極端なタナゴ腹をしていないのは、上記のウワサが浸透してきた時期、すなわち江戸時代も中期にかかる後代村正(三代以降)の作品なのかもしれない。
 「あなたからいただいたこの懐刀、よく見れば村正の銘が入っててよ」
 「そりゃいかんな。すぐに刀屋で銘をつぶしてもらおう」
 「あらぬ疑いをかけられては、代々直参の家柄の恥ですからね。お願いしますよ」
 「一両もあれば、足りるだろう」
 「……では、さっそく京橋の研處までお出かけなされませ」
 「いや、四分もあれば足りるかもしれんな」
 「……早くおいきなされませ。あすこは現銀掛値なしで安うございますから」
 「それが、今月は手許不如意でな。少しばかり、その、なんだ……」
 「月々のものは、きちんとお渡ししております。では、いってらっしゃいませ」
 「……そうか、村正は懐中にもずいぶんと祟るの」






 おそらく刀剣が生まれた時代からつづく、日本でもっとも古い職業のひとつである研ぎ師が、最先端のICTを活用して作業のリードタイム短縮や効率化、ひいては注文増につながっているというのはとても面白い。刀の研ぎ師に限らず、新型コロナ禍の中にあってもICTをフル活用して仕事に励んでいる職人の世界は、わたしが知らないだけで意外と多いのかもしれない。そういえば、東日本大震災Click!を忘れないよう波模様でつくられた、福島の伝統玩具「赤べこ」ならぬ復興をめざす希望の玩具「青べこ(青海波べこ)」が、注文が多すぎて手づくりのために製造が4ヶ月待ちというのも、現代ならではのエピソードなのだろう。

◆写真上:手先の器用さや繊細さはもちろん、広範な日本史や刀剣史、各時代の作品に関する深い知識と観察力、そして美意識(審美眼)が問われる専門職人としての研ぎ師。
◆写真中上は、「地鉄の感触に見あうように研いで」と研ぎ師に委託した古墳刀の研磨。は、伝統的な研ぎ師の工房で棚には工程にあわせ何十種類もの砥石が並ぶ。
◆写真中下は、研ぎを依頼した無銘短刀の研磨進捗を報告する画像。は、研ぎ師の現代的な工房で、奥のクッションの手前に見えている道具は各種砥石を足で押さえる伝統的な踏まえ木。新型コロナ禍の影響をあまり受けず、注文が多い専門職人の世界だ。
◆写真下は、研ぎが刃取りや磨き(最終段階)に入った進捗の報告画像。は、注文が多く制作が間にあわない東日本大震災を記念した福島の復興「青海波べこ」。