遅くなってしまったが、2020年夏休みの「自由研究」は、大江戸時代(江戸後期)の落合地域がテーマだ。なぜ彼を取りあげないのかな?……と思われていた方もおられるかもしれないが、郊外散策の達人・村尾嘉陵の「落合散歩」について、まとめて記事にしてみたい。
  
 徳川清水家の家臣だった村尾正靖(村尾嘉陵)という人物は、文化~天保年間(1807~1834年)にかけ、大江戸(おえど)の郊外を散策する様子を克明に日記へつけつづけている。たまに勤めの休暇がとれると、当時の言葉でいえば物見遊山、現代風にいえば大江戸の場末(江戸期は郊外の意)へハイキングを繰り返していたわけだが、その日記は今日から見れば江戸期の郊外を知るための、非常に貴重な記録となっている。
 日記なので、当初からタイトルは存在しなかったが、国会図書館では『四方の道草』という題名で、内閣文庫では『嘉陵記行』という題名で写本が保存されてきた。(『嘉陵行』ではなく『嘉陵行』のタイトルに留意) また、後世の通称としては、一般的に『江戸近郊道しるべ』という表題で呼ばれている。この村尾正靖が郊外散歩をした中に、落合地域やその近隣を訪れた記録が何度か登場している。
 『江戸近郊道しるべ』と題する現代の書籍は、当時の文章のまま註釈つきのものが、平凡社の東洋文庫版から出版されている。だが、当時の文章そのままではわかりにくいので、現代語訳で出版されている講談社版の村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』(阿部孝嗣・訳)を使って、少しずつ落合地域とその近隣の様子をご紹介してみたい。記録されているのは、1800年代の初めごろに見られていたこの地域の風景だ。
 村尾正靖という人は、いわゆる徳川御三卿のひとつ清水徳川家(十万石)の家臣で、広敷用人をつとめていた人物だ。広敷用人とは、主人のプライベートな屋敷(奥座敷)である大奥と、表座敷(役務や客間などのある座敷)の間を取り次ぐ執事や秘書のような役職で、何人かの部下(広敷番頭)を束ねて雑事をこなす仕事をしていた。
 彼は休暇がもらえると、家庭を放りだしてせっせと大江戸の周囲をひとりで、ときには仲間たちと散策するのが趣味だった。多くが日帰りの散策だったが、現代の多摩地域や神奈川県、埼玉県など遠方へ出かけるときは、宿泊してくることもあった。そして、帰宅すると散策の途中で観た風景や、「土人」(地元民の意)から聞いためずらしい話などを日記に書きとめている。休みのたびに外出するので、家内の用事はすべて妻が仕切っていたようで、ときどき文句をいわれていた気配が文中から漂っている。
 もともと発表することを前提とした本づくりとは異なり、そこには遠慮会釈のない率直な感想や意見がそのまま書きこまれており、広重Click!北斎Click!の郊外散策本、あるいは「名所」といわれる場所ばかりを選んで記録し描いた斎藤家三代・著+長谷川雪旦・画『江戸名所図会』Click!ともまた、ちがった趣きの表現となっている。
 さて、最初の回は、練馬の貫井村から谷原村(ともに現・練馬区)をめざす道すがら、下落合村の北側を通る清戸道Click!(せいどどうClick!/『高田村誌』の呼称より)=おおよそ現・目白通りを西進する様子を記録したものだ。1815年(文化12)9月8日(太陽暦では現在の10月中旬ごろ)に、千代田城北ノ丸の清水門内にあった清水屋敷(現・武道館から南側一帯の北ノ丸公園内)を午前中に出発すると、5人連れの散策仲間は江戸川橋Click!から目白坂Click!を上り清戸道へ入ったとみられる。
 以下、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「谷原村長命寺道くさ」から引用してみよう。ただし、本文中に挿入された阿部孝嗣によるカッコ内の注釈は、とりあえず省略して記述してみたい。落合地域など地元における事績や伝承、解釈、あるいは他の記録資料との齟齬が多々見うけられるので、あとから気づいた点があれば、つれづれ追加で書いてみたいと思う。



  
 四家町を過ぎて東北の方をかえりみれば、森の中に大行院の屋根が見える。今日の眺望はここに極まれり、である。西北を望めば安藤対馬侯の屋敷があり、その左側が鼠山である。小径を登っていけば南面が打ち開かれていて、落合の方のこずえが見える。南西の端の方に木立が見えるが、そこが落合薬王院の森だと、近くにいた翁が言う。
  
 ここに登場している「四家町」は、雑司ヶ谷村四家町(四ッ谷町)Click!のことで四世南北の『東海道四谷怪談』Click!の舞台になった町だ。現代語の訳者は、四家町を現在の行政区画で「豊島区雑司が谷二丁目から目白一、二丁目」としているが、小石川村側にも道つづきの四家町があるので、現在の文京区目白台1~2丁目も含まれる。
 「大行院の屋根」は、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の本堂の屋根だが、その「西北」を望むと「安藤対馬侯」の屋敷があると書いている。もちろん、この安藤屋敷は延宝年間には受領名が異なっており、下落合の神田上水に架かる田島橋(但馬橋)Click!の由来となった「安藤但馬守」Click!の屋敷のことで、江戸末期になると短期間だが感応寺Click!の境内となる三角形の敷地のことだ。現代の住所表記でいうと、豊島区目白3~4丁目と西池袋2丁目にかかる、清戸道に立つ村尾嘉陵の視点からいうと、記述のとおり「西北」に見えていた広大なエリアで、訳者が註釈で指摘する「文京区大塚二丁目、現お茶の水女子大学」(村尾嘉陵の視点でいうと東北)とは、まったくの方角ちがいで誤りだ。
 この時期の「鼠山」の概念は、いまだ清戸道に立つ村尾嘉陵から見て安藤屋敷の「左側」、つまり西北側に限定されていたのがわかる。すなわち長崎村の南東端と、池袋村の南西端にあたるわけだが、将軍の鷹狩場としての鼠山Click!の範囲がもう少し池袋村側へ拡がるのは、幕末近くになってからのようだ。
 また、訳者の阿部孝嗣は註釈で、鼠山の位置を「下落合四丁目辺りの台地」としているが、これも明らかに誤りだ。鼠山は、将軍家鷹狩場の「戸田筋」Click!に属する池袋村と長崎村のエリアであり、下落合村の鷹狩場だった御留山Click!(御留場)は筋ちがいの「中野筋」の狩り場だった。鼠山と下落合の御留山とでは、鷹場役所や村々の鷹場組合もそれぞれ別であり、訳者は幕府で規定された鷹狩場エリアの「筋」を混同している。
 


 つづけて、村山嘉陵の記述を同書より引用してみよう。
  
 椎名町の入口に一軒の豪家がある。慶徳屋という。古くからこの地に住んでいる者で、穀物を商っている。この他にも椎名町の商家には貧しそうな家が見当たらない。鼠山の西南、縄手路の左に小径があり、七曲がりに通じているという。しばらく行くと小名五郎窪である。さらに行くと左に道がある。恵古田村に通じるという。
  
 ここでいう椎名町Click!とは、現在の西武池袋線の椎名町駅Click!のことではなく、そこから南へ500mほど下った清戸道(だいたい現・目白通り)沿いに拓けていた町のことだ。江戸と郊外とを往来する人々の中継所、あるいは物流拠点となっていた町のひとつで、現在の目白通りと山手通り(環六)の交差点あたりから東西に長くつづいていた。物資が中継され、江戸へまたはその逆を往還する拠点だったため、町全体が裕福だったのだろう。
 したがって、椎名町は長崎村と下落合村にまたがった繁華街のことであり、戦前までは下落合側の聖母坂Click!にも関東バスの停留所「椎名町」Click!(終点)が、また長崎側と下落合側の双方に東環乗合自動車Click!のバス停「椎名町」が存在していた。訳者の「椎名町」註釈では、「豊島区南長崎」と限定されているが、それに加えて豊島区目白5丁目、新宿区下落合4丁目、中落合2~3丁目が加わる。
 また、「恵古田村」=江古田村Click!も、今日の江古田(えこだ)駅周辺のことではなく、いまの行政区画では中野区エリアの江古田(えごた)のことだ。清戸道から分岐した練馬街道に入ると、五郎窪Click!(五郎久保)の小名が収録されている。当時から稲荷が有名であり、椎名町の住人から立ち寄ってみるように奨められたのかもしれない。

 
 さて、村尾嘉陵の「日記」が面白いのは、先に記したようにプライベートな記述のため、公表を前提とする表現の自主規制がなされていないことと、訪れた地域の土人(地元の人々)と積極的に交流して取材し、情報を仕入れていることだ。また、目的地へ着くまでの道すがらの風景や、おそらく好奇心が旺盛だったのだろう、細かな事象にまで目をとめて記録している点も興味深い。次回もまた、下落合村や上落合村の界隈を紹介してみたい。
                                <つづく>

◆写真上:将軍家鷹狩場の「戸田筋」にあった、鼠山界隈にある雑木林の現状。
◆写真中上:『御府内場末往還其外沿革図書』より、1670年代の延宝年間にみる安藤但馬守屋敷(のち安藤対馬守屋敷/)と、1834年(天保5)現在の感応寺境内()、そして感応寺の破却後1842年(天保13)の武家屋敷街()。
◆写真中下は、内閣文庫で保存されている村尾嘉陵『嘉陵記行』の一部。ほとんどの書籍や資料では『嘉陵行』とされているが、原典写本の『嘉陵行』が正しい。は、清戸道とほぼ重なる現在の目白通り。は、旧・鼠山の坂道のひとつ。
◆写真下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる椎名町。は、平凡社版の『江戸近郊道しるべ』()と、講談社文庫版の同書()。