1930年(昭和5)2月、神戸にあるパルモア英学院の修業式のあと、小坂多喜子(ペンネーム:小坂たき子)Click!は家出同然に汽車で単身東京へとやってきて、そのまま下落合に直行している。当時、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建つ、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!に住んでいた、神戸時代からの知り合いである片岡鉄兵Click!を訪ねるためだ。
 だが、あいにく片岡鉄兵は講演旅行に出て不在で、当時は片岡家の書生だった大江賢次Click!と光枝夫人が応対している。何度も映画化された『絶唱』で有名な小説家・大江賢次だが、独立して上落合732番地で暮らすようになる少し前の話だ。のちに大江賢次は、上野壮夫Click!と小坂多喜子が結婚して住みはじめた上落合829番地の“なめくじ横丁”Click!へ、頻繁に顔を見せるようになる。
 片岡邸で1泊したあと、神戸時代からのつき合いだったボーイフレンドを下宿に訪ねるが迷惑顔をされ、しかたがなく神戸からあらかじめ電報で知らせておいた、上落合469番地Click!神近市子Click!を訪ねている。昼にカレーライスをご馳走になったあと、多喜子はそのまま神近市子の家に寄宿することになった。
 その当時のことを、小坂多喜子は鮮明に憶えている。1986年(昭和61)に三信図書から出版された、小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 東中野から曲りくねった道をかなり奥迄行くと、西武線の中井駅の方におりてゆく道がある。そのゆるく曲った角の石だたみの奥深くに神近家はあり、隣家は鈴木文史朗という朝日新聞の論説委員か何かをしていた人の家だったが、私の家出してきた時には喜劇俳優の古川ロッパ邸であったように思う。その隣家の庭の木立ちがすかして見える垣根に沿った奥深い家の玄関に、娘にしてはすこし年をとった律儀そうな女中さんが三ツ指をついて、「先生が電報を差上げようかといっておられたところでした」といった。
  
 ちなみに、鈴木文四郎Click!(ペンネーム:鈴木文史朗)の家は上落合470番地で、古川ロッパ邸Click!は道をはさんだ向かいの上落合670番地で別々の家だ。
 神近市子Click!と鈴木厚の夫妻には、すでに3人の子どもたちがいて安定した生活をつづけていた。「寒い時にはも足が痛むのですよ。刑務所の冬の寒さが一番身にこたえました」という彼女の言葉を、小坂多喜子は記憶している。神近市子は、小坂多喜子にいろいろな仕事を紹介しはじめた。その中に、牛込区四谷左内町31番地の長谷川時雨Click!が主宰する「女人藝術」編集部Click!や、飯田橋駅の近くにあった全国購買組合連合会中央会事務所などで校正業務のアルバイトがあった。
 それでも生活は苦しく、身につけてきた高価なものは質草となって次々に消えていった。ある日、片岡鉄兵から3円のカネを借りてもどると、神近市子はいつになく激昂して多喜子を叱った。21歳の娘が、人から借りた(半ばもらった)カネで生活しようという性根が、神近市子には我慢ならなかったのだ。
 こういうところに、神近市子の潔癖で妥協しないまっすぐ性格が垣間見えるのだが、多喜子はカネを返そうとはしなかった。本人に断りもなく、片岡鉄兵は多喜子をモデルにした『生ける人形』(1928年)を発表し、彼女はすぐに抗議の手紙を送っていたので、作品のモデル料というような感覚も含まれていたのかもしれない。
 神近市子の姿を、もう少し『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 あるとき雑誌か何かの座談会に出るため盛装して、隣家の朝日新聞論説委員鈴木文史朗邸の垣根の側に立った神近さんの美しさに私は一瞬息を飲む思いだった。お召の着物に黒っぽい蔦の葉模様か何かのこはまちりめんの羽織姿で、薄くおしろいをはたいたほりの深い顔はつりあがった眼が奥深く輝いていて、私はそのときどういうわけかドイツの女性を連想して重ね合わせていた。私がそのときアメリカでもフランスでもなくドイツの女性を連想したのは、その無駄のないひきしまった知的な美しさからそう感じたのだった。
  



 わたしが小坂多喜子に興味をもったのは、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿2丁目71番地の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎Click!の「出版・入獄記念会」の記念写真Click!で、亀井勝一郎の前に立つ彼女の姿を見てからだ。昭和初期に入獄中の人物は除き、プロレタリア芸術運動をになった在京の人々が勢ぞろいしている写真だが、その中でひときわ派手なコスチュームを着て写る彼女が、場ちがいのように浮いて見えた。彼女を追いかければ、落合地域をめぐる興味深い物語がたくさん見つかりそうだと直感した、わたしの勘はまちがっていなかったようだ。
 その後、神近市子の紹介から山田清三郎と富本一枝Click!に会い、東京へやってきてから約1ヶ月後に戦旗社出版部への就職が決まった。1928年(昭和3)現在、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!は新宿駅西口の淀橋浄水場Click!近くへ移転しており、同様に中井駅からすぐのところにあった上落合689番地の戦旗社出版部Click!は、有楽町駅近くの五番館2階へと移転していた。
 ちょうどこのころ、戦旗社は全日本無産者芸術連盟(ナップ)からの独立問題をめぐってゴタゴタがつづいていた時期と重なる。特に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)内での対立がつづき、独立反対派には山田清三郎や鹿地亘Click!川口浩Click!らが、独立賛成派には江口渙や貴司山治、西沢隆二たちがいた。同誌の主要な執筆者だった小林多喜二Click!中野重治Click!壺井繁治Click!たちはみな獄中にあり、蔵原惟人Click!は海外にいて戦旗社の内紛には関われなかった。
 小坂多喜子が戦旗社につとめはじめたころの様子を、2007年(平成19)に図書新聞から出版された多喜子の次女である堀江朋子『夢前川』から引用してみよう。



  
 目の高さに電車の走るのが見える線路よりの部屋が編集部、その反対側の部屋が出版部だった。猪野省三が出版部長、部員は多喜子一人。向かい合わせの机で、校正やわりつけの仕事をした。月給三十円。/その頃、戦旗社主事山田清三郎、経理部長壺井繁治、組織部長宮本喜久雄、編集長林房雄、のちに中野重治、そして上野壮夫。古澤元や田邊耕一郎なども姿を見せた。/小林多喜二「蟹工船」と徳永直「太陽のない街」の新聞広告原稿を猪野が作成し、そのゲラが刷り上がった。猪野が、その身体つきのように丸っこい字で書いた原稿がゲラ刷りになった感激で多喜子は高揚していた。朝日新聞横ぶち抜きの広告ゲラだった。猪野と二人で、ゲラを見ていると、うしろから上野壮夫がのぞき込んだ。編集部に時々顔を見せる男だ。
  
 小坂多喜子が、神戸の家を出たのが1930年(昭和5)2月、神近家から独立して近くに小部屋を借り戦旗社Click!に就職したのが1ヶ月後の3月下旬、そこで上野壮夫と出逢い結婚したのが2ヶ月後の5月、ほぼ同時に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)加入……と、彼女にとっては目のまわるような激動の1年間だった。
 神戸時代から、多喜子は東京で発行されていた文芸誌「若草」などへ作品を送っていたが、本格的な小説は1932年(昭和7)に文芸誌「プロレタリア文学」に執筆した『日華製粉神戸工場』だ。最初期の同作について、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎『プロレタリア文学史/下巻』から引用してみよう。
  
 小坂たき子「日華製粉神戸工場」(同上)、作者は神近市子をたよって東京に出、上野壮夫と結婚した。この作は、満州事変で中国市場を一時的に失った日華製粉が、支店合併と従業員の整理で不況をきりぬけようとするのを、会社側に協力する組合幹部をけって総連合の革命的反対派の指導で、出征兵士の丘陵の全額支給、馘首者の即時復職、時間延長の割増金要求の闘争が、ストライキに発展するまでのことをあつかっていねが、こうした題材にさけがたい概念的なつくりものからすくわれ、ダラ幹の阪本、酒飲みで正義派の中年職工の秋原、阪本と「鞄」の組合書記の河上、反対派の若い闘士で大胆で人なつこい松本などの個性が、かなり浮彫りに描かれていた。
  

 
 小坂多喜子は、戦前戦後を通じて小説家でありエッセイストだが、当初は「小坂たき子」のペンネームで執筆していた。それは、プロレタリア文学の雄である小林多喜二Click!と名前が3文字までかぶり、本人からもそれを指摘されて気おくれがしたからのようだ。その小林多喜二とは戦旗社出版部で初めて出会い、築地署で虐殺された際は夫の上野壮夫とともに通夜の席へ駆けつけることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:小坂多喜子が何度も歩いたカーブの道で、右手にある上落合公園の向こう側が古川ロッパ邸跡で、道をはさんだ向かい側が鈴木文四郎(文史朗)邸跡。
◆写真中上は、小坂多喜子が修業式から東京へ飛びだした神戸市中央区のパルモア英学院。は、下落合1712番地の第二文化村にあった片岡鉄兵邸跡で右手の白い柵あたり。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる片岡鉄兵邸。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸跡。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる神近市子邸。鈴木文四郎邸は五味邸をはさんだ2軒隣りであり、小坂多喜子の文章は記憶ちがいだろうか。は、1928年(昭和3)に上落合460番地で結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部跡。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる神近市子邸とその周辺で、赤い矢印は冒頭に掲載した現状写真の撮影ポイント。下左は、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎の「出版・入獄記念会」記念写真に写る小坂多喜子。下右は、1934~35年(昭和9~10)ごろに撮影された小坂多喜子。