2021年度にオープンを予定している大阪中之島美術館へ収蔵予定の作品に、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作で水彩画の『目白の風景』があるのを、pinkichさんよりご教示いただいた。欧州滞在中の作品Click!ならともかく、佐伯の水彩画はめずらしいのでさっそく取り上げてみたい。
 その後、2023年春に開催された「佐伯祐三-自画像としての風景-」展で同作を拝見したが、水彩画ではなく油彩画であることが判明している。
 この水彩画面の描画ポイントは、すでにこちらでも油彩のタブローでご紹介している『下落合風景』Click!と同一の場所だ。油彩の『下落合風景』(652×800mm/25号キャンバス)は、1979年(昭和54)に朝日新聞社から出版された『佐伯祐三全画集』にモノクロ写真で収録されている。油彩の同画面は、左手の街道筋まで入れたより広い画角で描かれているが、水彩の『目白の風景』は佐伯の“望遠”視点で、その中央部にあたる位置を拡大して描いている。さっそく、描かれているモチーフを見ていこう。
 まず、どんよりとした曇り空でわかりにくいが、建物の陰影が左側に多くみられるので、左手ないしは左手背後が北側の可能性が高い。枯れ草の様子から、季節は晩秋か初冬に近い季節で、煙突の煙は北風で南側へ流されているのだろう。水彩『目白の風景』だけでは、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに見られた工場街か……と、下落合のどこを描いたのか迷ったかもしれないが、より視点を引いたタブローの『下落合風景』が存在するので、描画ポイントの特定はかなり容易だった。
 左手に見えている、白い煙(薪材を燃やしているとみられる煙色だ)を吐き出している煙突は、中ノ道Click!(下ノ道=中井通り=新井薬師道)沿いに開業している銭湯「草津温泉」Click!だ。手前は耕地整理が終わり、宅地造成がスタートした工事中の住宅と商店の敷地で、原っぱには縁石あるいは築垣に用いる大谷石の切り石が、すでに到着して集積されている。油彩のモノクロ『下落合風景』ではわかりにくかったが、水彩『目白の風景』でハッキリと大谷石の石積み表現だったのがわかる。この大谷石の集積は、大正後期の目白文化村Click!ではお馴染みの光景Click!だった。
 描かれている道筋は、画面の右手から左手へ人が2~3人ほど歩いているのが、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!筋の道で、やがて中ノ道(現・中井通り)へとT字状に合流する。右にそのまま50mほど歩けば、寺斉橋に差しかかるはずだ。また、大谷石の石積みの右手からクネクネとつづいている道は、宅地開発とともに直線化されて、1933年(昭和8)ごろまで存在が確認できる小道(おそらく私道)だ。この小道は、1935年(昭和10)作成の「落合町市街図」では採取されずに消滅しており、1930年代前半のうちには廃止され住宅街の下になってしまったのだろう。
 話が前後するが、先ほど水彩『目白の風景』の左手に描かれた白い排煙の煙突を銭湯「草津温泉」(現・ゆ~ザ・中井)と規定したのは、すでにご紹介している油彩の『下落合風景』の描画ポイントを特定する際、落合地域にある銭湯を総ざらえした結果をベースにしている。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」、そして念のために1935年(昭和10)に作成された「落合町市街図」も参照して、佐伯祐三が「下落合風景」シリーズを制作していた時期に、開業していた可能性があるとみられる銭湯は、総数で19軒あることがわかった。



 その内わけは下落合が7軒、上落合が8軒、さらに葛ヶ谷(のち西落合)が4軒だった。そして、その銭湯の多くが目白通り沿い、また雑司ヶ谷道-中ノ道(新井薬師道)沿い、あるいは上落合の南端にあたる早稲田通り沿いで開業していた。
 それら銭湯の開業場所と、油彩『下落合風景』(全画集収録作品)に描かれている地形や道筋の形状、方角、建物の配置、煙突の数などすべてを総合して判断すると、それに合致する銭湯が下落合1866番地で開業していた「草津温泉」(現・ゆ~ザ・中井)の1ヶ所しかなかった……ということだ。そして、画面の右手に見えている細い煙突は下落合市場Click!の焼却炉に備えられた煙突か、あるいは煙管が細い描写なので遠景だと解釈すると、上落合436番地にあった銭湯(現・梅の湯)の煙突が目につき、佐伯は画面に入れて描いているのかもしれない。
 描かれている建物群は、寺斉橋筋の道のもう1本向こう側(東側)の道筋(南北道)沿いにならぶ建物群で、油彩の『下落合風景』では描かれているが、水彩『目白の風景』では省略されているように見える、右側の細い煙突下の建物(あるいは線路の敷設で解体?)か、ないしは水彩『目白の風景』の右端でトタン屋根の白いテカリとみられる建物のどちらかが下落合市場、つづいて左手のやはりトタン屋根とみられる白く反射する屋根の家が漆器店「塗物マル長」、つづいて左手の横長の建物が鈴木邸……という配置だろうか。
 油彩『下落合風景』では、これら建物前の空き地には木柵が設置されていたのだが、水彩『目白の風景』では赤土がむき出しの空き地に、手前と同じような大谷石の切り石が集積されているようにも見える。換言すれば、油彩『下落合風景』と水彩『目白の風景』は同時に描かれたのではなく、どんよりとした曇り空は共通でも、数日ないしは数週間のタイムラグがある可能性が高い。
 工事の進捗から想定すると、木柵をめぐらした油彩『下落合風景』が草刈りや整地の前の様子で、整地を終え赤土の地面に大谷石の集積と思われるフォルムが見える水彩『目白の風景』が、それ以降の作品のように思える。佐伯は、一度油彩の25号でタブロー『下落合風景』を仕上げたあと、同作の風景が気になって再びスケッチブックを手に現地を訪れ、改めて水彩で写生しているのではないだろうか。



 さて、下落合や上落合にお住まいの方、あるいは拙サイトを読んでこられた方なら、あちこちに縁石や築垣用の大谷石が集積され、なぜ宅地造成が急速に進んでいるエリアなのか、もうすでにおわかりのはずだ。佐伯祐三がこの風景を描いたとみられる1926年(大正15)の晩秋から初冬、右手へ歩くとぶつかる妙正寺川に架かる寺斉橋の手前で、井荻駅付近からスタートして初代・下落合駅Click!(氷川明神前駅)までつづく、鉄道連隊Click!による西武線の線路敷設の演習工事Click!が行われていたからだ。
その後、鉄道連隊が軌道敷設工事の本部にしていた家の方の証言から、同連隊は山手線の西側土手下の仮駅設置位置まで軌道を敷設していたことが判明Click!している。
 油彩『下落合風景』の街道が描かれた左手枠外には、目白崖線がつづく下落合の丘が連なっており、佐伯はちょうど蘭塔坂(二ノ坂)Click!の下あたりにイーゼルをすえ、ほぼ東を向いて仕事をしていることになる。つまり、この風景のエリアは翌年の4月に設置される西武線・中井駅Click!の駅前となることが少し前から判明しており、宅地造成あるいは店舗建設が急ピッチで進められていたのだ。
 描画ポイントをこのように特定してみると、水彩『目白の風景』のタイトルがいかにピント外れかが、おわかりいただけるだろう。このタイトルは、水彩『目白の風景』の画面裏に記されていたものだろうか? わたしにはそうは思えないのだが、ほかの「下落合風景」シリーズの画面と同様に、展示会の際などに作品を差別化するためにつけられた、あと追いのタイトルではないだろうか。あるいは、大阪の山本發次郎コレクションClick!にちなみ、「下落合風景」を最寄りの山手線の駅名に引きずられて、つい「目白風景」と呼んでしまう“慣例”に倣ったものだろうか。
 佐伯祐三が大阪で描いた、「中之島風景」の1作である『肥後橋風景』Click!(1926年)のことを、おそらく地元の大阪の方はいちばん近くのJR東西線の駅名からとって、「北新地風景」などとは決して呼ばないだろう。(北新地駅から肥後橋までは南へ約600mほど離れている) 同様に、JR山手線の目白駅Click!から西南西に2kmも離れたところにある下落合1866番地界隈の風景を、地元では誰も『目白の風景』などとは呼ばない。強いて駅名にこだわるのなら、佐伯が同作を描いていたときに軌道(レール)の敷設が急速に進み、およそ4~5ヶ月後の1927年(昭和2)4月16日に開業することになる、西武線・中井駅にちなんだ『中井の風景』ということになるだろうか。
 あるいは、現場とはまったく一致していない見当はずれな地名をタイトル化するのであれば、むしろ『洗濯物のある風景』Click!とか『散歩道』Click!『テニス』Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!などのように描かれているモチーフをタイトルに含めて表現するのが適切だろう。そのタイトル例を踏襲するなら、水彩『目白の風景』はさしづめ『石積みのある風景』、『切り石(大谷石)のある風景』、『銭湯の煙突がある風景』、『住宅造成地の風景』、あるいは『坪(ヘイ)にする大谷石のある風景』w……あたりだろうか。




 1926年(大正15)の秋現在、目白駅の周辺はこれほど鄙びてはおらず、すでにコンクリート建築の銀行や商店が並んだ“街”なので、目白(豊島区/文京区)が地元の方々から「なんだこりゃ、このタイトルは?」という、半ばあきれ半ばお怒りの感情も考慮するとすればw、あまりのピント外れに、ちょっと再考していただきたい課題だろう。佐伯が好んで描くのは、下落合(新宿区)の街外れかことさら工事中・造成中の現場が多い。でも、描かれているのは確かに下落合なので、『下落合の風景』でいいのかもしれない。

◆写真上:1926年(大正15)の晩秋から初冬にかけて制作されたとみられる、銭湯「草津温泉」の煙突が見える佐伯祐三の水彩『目白の風景』。
◆写真中上は、先に描かれたと思われる佐伯祐三の油彩『下落合風景』(25号)。は、水彩『目白の風景』に描かれた銭湯「草津温泉」の煙突の拡大。は、油彩『下落合風景』に描かれた同煙突のクローズアップ。
◆写真中下は、1923年(大正12)6月に撮影された第一文化村の前谷戸埋立地。新たな造成地の縁石や共同溝、築垣などに用いられる大谷石の切り石が大量に集積されている。は、水彩『目白の風景』に描かれた大谷石の集積部分の拡大。は、油彩『下落合風景』に描かれた大谷石のクローズアップ。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。(油彩『下落合風景』の視点で) 中井駅はなく、工事中の線路が描かれている。中上は、1926年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる同所。画面に描かれた私道とみられるクネクネ道が、すでに直線化され地番がふられている。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中井駅前の様子。以前に規定した描画ポイントよりも、もう少し南の位置から描いたのかもしれない。銭湯「草津温泉」の煙突から、白煙が立ちのぼっているのがとらえられている。は、上落合436番地の「梅の湯」(大正末の銭湯名は不明)の高い煙突。写真はリニューアルされる前の古い煙突で、ひょっとすると戦前からのものかもしれない。