茅ヶ崎海岸の沖1,600mほどのところにある姥島(うばじま)の烏帽子岩が、鎌倉時代の侍烏帽子(さむらいえぼし)のかたちから、現在のようにやや傾いたただの「三角岩」になったのは、1946~1953年(昭和21~28)ぐらいまでの間のことだ。もちろん、敗戦により進駐した連合軍(おもに米軍)が茅ヶ崎・辻堂海岸を射爆演習場にしていた際、沖の姥島を標的にして大量の砲弾を海岸から撃ちこんだせいだ。
 この演習による砲撃音が、平塚や大磯のほうまで鳴り響いていたのは、同地域のさまざまな資料にも見えている。わたしの親たちも、この湘南海岸に設置されていた射爆演習場についてはときどき話していたが、親父の仕事の都合で平塚へ転居Click!してきたころには、すでに砲撃演習は行われていなかっただろう。ただし、茅ヶ崎・辻堂海岸の射爆演習場が日本に返還されたのは、1959年(昭和34)のことなので、わたしが生れて間もないころまで接収されたままだったのだ。このとき、地元の茅ヶ崎市や藤沢市から神奈川県庁Click!あてに、猛烈な返還運動が展開されている。
 当時、親父が勤めていたのは神奈川県庁の土木建築部門であり、知事の内山岩太郎あてに提出された地元自治体の請願書「湘南観光道路の演習地貫通並びに湘南砂丘地帯の荒廃保護に関する請願」には、ひととおり目を通していたと思われる。将来を見こんで、地元自治体では「湘南観光道路」などと書いているけれど、これは昭和初期に藤沢の鵠沼海岸から大磯の北浜海岸までの海辺沿いに設置された「湘南遊歩道路」Click!のことで、わたしの時代には転訛して地元では「ユーホー道路」(わたしが物心つくころには、いまだ散歩する人たちの下駄の音や乗馬・馬車の音が聞こえていた)、またはクルマの往来が激しくなると「湘南道路」と呼ばれていた、現在の西湘バイパスと結ぶ国道134号線のことだ。
 敗戦から1940年代後半まで、米軍は朝鮮戦争を想定した敵前上陸訓練も、茅ヶ崎・辻堂海岸で行っていた。また、1950年(昭和25)6月に朝鮮戦争が勃発すると、砲撃演習や上陸演習が頻繁に行われるようになる。この演習を目撃し、姥島の烏帽子岩破壊や砂丘破壊について、米軍(GHQ)に激しく抗議した人物がいた。茅ヶ崎在住で、戦前から戦中にかけ「興亜十人塾」を開校し、戦後は茅ヶ崎市公安委員を勤めていた小生第四郎(夢坊)だ。その抗議が原因で、彼はGHQに逮捕・投獄されている。
 そのときの様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された、小谷汪之『「大東亜戦争」期出版異聞―「印度資源論」の謎を追って―』より、小生第四郎の随筆を孫引きだが引用してみよう。ちなみに、小生第四郎『小生夢坊随筆集』(八光流全国師範会/1973年)はぜひほしいエッセイ集なのだが、古書となった現在では高価で手がでないでいる。
  
 ボクは一人で、あの占領下の爆破被害の修理を強く要求したばっかりに、逆に別のイン謀でそのことが悪用され、占領政策違反に問われた。(中略) 変質な情報屋のネタでコネあげられ「占領政策違反容疑」で四十一日間も豚箱にカン禁された。「悪質な二世通訳」が深夜僕の家にやって来た時にはアキレたね。威張ること威張ること泥酔してベロベロだった。
  
 このGHQによる逮捕がきっかけで、小生第四郎は1950年(昭和25)9月に茅ヶ崎市公安委員の職を追われている。形式は依願退職だが、「占領政策違反容疑」で検束されたのが原因なのだろう。戦前は特高からひどいめに遭い、戦後はGHQに弾圧されたのはどこか宮武外骨Click!に似ていなくもない。朝鮮戦争が激しくなると、1952年(昭和27)7月にはサンフランシスコ平和条約が発効しているにもかかわらず、同年7月より姥島の烏帽子岩が米軍による砲撃演習の標的に設定され、大量の砲弾が撃ちこまれ破壊された。
 少し横道へそれるが、藤沢の鵠沼で米軍に拉致・誘拐された鹿地亘Click!は、その拘禁過程で茅ヶ崎市菱沼海岸(射爆演習場内)にあった米軍USハウスで一時的に監禁されているが、おそらく「占領政策違反」の小生第四郎も、逮捕後の41日間に同ハウス内か、あるいは近くにあった留置所で拘留されていた可能性が高い。このあたり、米軍の謀略部隊だったG2(のちCIA)などの動きとからめ、いまだ闇につつまれた米軍施設の一端だ。



 さて、茅ヶ崎に住み「興亜十人塾」を経営していた小生第四郎(夢坊)という人物が、複雑怪奇な生き方でよくわからない。石川県金沢生まれで、画家(日本画)をめざしていたが途中で漫画家の道へ進み、「小生夢坊」の筆名で描いた野球漫画が広く知られるようになる。大正期に入り東京へやってくると、社会主義に共鳴したのか堺利彦や山川均Click!らのグループに接近している。その左翼寄りの風刺画や原稿と、プロレタリア作家の中西伊之助Click!らとともに交通分野の労働組合運動に取り組んだことから、「特別要視察人(乙号)」として警察よりマークされ尾行2名が常時つくようになったとされる。けれども、小谷汪之の調査によれば同時期の警察が記録した「特別要視察人近況概要」には、小生第四郎(警察記録では「小生第次郎」と誤記)の名前は見あたらないとのことだ。
 このあと、小生第四郎は浅草私娼撲滅反対運動や死刑囚の救援活動へ参画したり、新劇の常盤楽劇団を結成してゴーリキーの『どん底』でみずから文士劇の舞台に立ったり、浅草の演劇界(曾我廼家五九郎一座)に接近したりと、かなり紆余曲折したわかりにくい道を歩いていくことになる。その過程では、画家の林倭衛Click!や添田唖蝉坊、タダイストの辻潤Click!、詩人の佐藤惣之助Click!らと知りあっている。
 昭和期に入ると、小生第四郎は国内の言論弾圧から逃れ朝鮮や満洲、台湾などを歴訪して「新亜細亜主義」に共鳴するようになる。そこでは、いともたやすく関東軍が掲げる「五族協和」に賛同し石原莞爾Click!や、アナキストの大杉栄Click!伊藤野枝Click!たちを虐殺した甘粕正彦Click!らと交流している。この「新亜細亜主義」にもとづき、小生第四郎は茅ヶ崎に「興亜十人塾」を開設して、日本・朝鮮・満洲・蒙古・台湾の5地域から、それぞれふたりずつ優秀な学生を募集して「五族協和」的な教育を実践しようとした。
 広さ300坪ほどの「興亜十人塾」があったのは、茅ヶ崎町菱沼南浜竹1948番地で、近くには大正期からのドイツ村がある別荘地だった。この塾には、ダット乗合自動車Click!労働争議Click!でストライキを指導した、当時は藤沢町鵠沼に住んでいた中西伊之助も訪れている。小生第四郎と中西は、共著で『愛国読本』を仕上げているが(中西は「関義基」ペンネーム)、「愛国」と銘打ってはいるものの内容は唯物史観的な記述であったためか、どこの出版社でも引き受けてはくれず、1943年(昭和18)にようやく興亜文化協会から刊行している。




 そろそろ、敗戦後の茅ヶ崎にもどろう。茅ヶ崎・辻堂射爆演習場の被害は、姥島の景観被害にとどまらず、当然、周辺海域で漁業をいとなむ漁師たちの生命をも脅かされていた。この課題は、第16回特別国会の衆議院外務委員会でも問題化し、漁業補償に関して茅ヶ崎演習地対策委員会の委員長が参考人として国会へ招致されている。そのころの様子を、同書より小生第四郎の随筆から孫引きしてみよう。
  
 ドカン!/ドカン!/と連日名所エボシ岩が、基地の砲撃にぶっ叩かれる。岩が変形し、海上の平安を祈る八大竜王の祭神がマトで粉ッ葉(ママ:木っ端)みじんと砕け、いまが盛りであるべきキスの漁が少くなり、この一体(ママ:一帯)のアミ元をはじめ、佐倉宗五のような決意を固めかけて来たようだ。/やっとのこと衆院の外務委員会に証人として送り込まれるチガサキ対策委員長の新倉吉蔵[と]漁業組合長の宮川勇吉が、進歩的県議添田良信とともに、本舞台に昇った。(カッコ内引用者註)
  
 その直後、1953年(昭和28)7月に朝鮮戦争は休戦状態になり、翌年からは烏帽子岩への砲撃訓練は行われなくなった。同時に、漁業補償の課題から射爆演習場の全面返還へと運動が盛りあがり、神奈川県知事あてに先の請願書が提出されている。だが、茅ヶ崎・辻堂射爆演習場が接収解除となり、日本へ返還されたのはそれから6年後、先述のとおり1959年(昭和34)になってからのことだった。
 敗戦後、親友だった中西伊之助が日本共産党から立候補して国会議員になったが、小生第四郎は彼を応援することは一度もなかった。むしろ、にわかに勢いづく日本共産党に対しては「人民天狗」と揶揄し、思想運動ではなく「政治行動」に移ったことに批判的だった。ところが、「六全協」Click!を境に小生第四郎は一転して日本共産党を支持するようになる。小谷汪之は同書で、同党には「反米感情に訴えるものがあったのだろう」と推測しているが、彼のアジア主義(あるいは民族主義)的な志向が、1960年代以降に見せた同党の姿勢のどこかに共鳴したものだろうか。



 
 小生第四郎は、戦後も茅ヶ崎に住みつづけているが、なぜか東京の(城)下町Click!への思い入れがふくらみ、1977年(昭和52)には「下町人間の会」を結成している。おそらく、浅草ですごした青春時代が強烈な印象として脳裏に焼きついていたのだろう。彼のいう「下町」とは、戦前まで地付きの人々が意識して用いた“城下町”の略称=下町のことではなく、庶民が数多く住んでいる地域としての欧米式“ダウンタウン”に見立てた戦後の街々のことで、彼のいう「下町」に旧乃手=城下町の丘陵地帯は含まれていない。晩年は同運動にのめりこみ、竜泉の樋口一葉記念館建設や不忍池の下町博物館建設を手がけている。けれども、金沢出身のこの人物については「よくわからない人」というのが、わたしの正直な感想だ。

◆写真上:茅ヶ崎海岸の沖1.6km余に浮かぶ、相模湾の姥島にある烏帽子岩近影。
◆写真中上は、明治末に撮影された茅ヶ崎海岸の地曳きClick!と烏帽子岩。は、鎌倉期の侍烏帽子。は、1935年(昭和10)ごろ撮影の烏帽子岩。
◆写真中下は、大正期に撮影された茅ヶ崎海岸のドイツ人別荘街(ドイツ村)。正面奥に富士山が見え、手前に見える山は大磯丘陵の高麗山と湘南平(千畳敷山)で左手に見える道路が湘南遊歩道路。中上は、昭和初期に茅ヶ崎で撮影された湘南遊歩道路(ユーホー道路=現・国道134号線)と江ノ島Click!方面。中下は、朝鮮戦争に備えて実施された茅ヶ崎・辻堂射爆演習場の敵前上陸演習で、右手遠景に薄っすら江ノ島が見えている。は、馬入川(相模川)寄りの茅ヶ崎海岸(茅ヶ崎海水浴場)からの辻堂・鵠沼海岸方面の眺め。
◆写真下は、姥島烏帽子岩の現状。中上は、茅ヶ崎海岸の東側(菱沼海岸)で沖に見えるのが烏帽子岩。中下は、辻堂海岸の夕暮れで遠景に富士山と箱根・伊豆連山を望む。下左は、小生第四郎と中西伊之助の共著による出版拒否の連続だった『愛国読本』(興亜文化協会/1943年)。下右は、2013年(平成25)に出版された小谷汪之『「大東亜戦争」期出版異聞―「印度資源論」の謎を追って―』(岩波書店)。
おまけ
 1949年(昭和24)に制作された『晩春』(監督・小津安二郎)には、湘南遊歩道路をサイクリングする原節子と宇佐美淳のふたりが登場している。藤沢の片瀬・鵠沼海岸あたりから、米軍の射爆演習場になっていた茅ヶ崎・辻堂海岸を丸ごとすっとばして、いきなり平塚・大磯海岸あたりの風景が記録されており、この映画の撮影直後には朝鮮戦争が勃発して米軍による激しい砲撃演習や上陸演習が行われるようになる。同作に描かれた鎌倉や湘南海岸の情景は、平和をとりもどした小津映画ならではのテンポで描かれる穏やかな日常などではなく、新たな戦争前夜のキナ臭い風景だったことに改めて気づく。同作の3シーンのうち鵠沼海岸は最初の1枚目のみで、下の2枚は右手に湘南平(千畳敷山)Click!高麗山Click!の山影が見える平塚~大磯の湘南遊歩道路。映像をそのまま解釈すれば、ふたりは稲村ヶ崎Click!あたりから大磯近くまで往復40km余のサイクリングを、午後のきわめて短い時間で楽しんだ並はずれた健脚の持ち主で、立ちこぎが得意なスピード狂ということになる。w わたしが物心つくころ(4歳前後)まで、ユーホー道路はクルマもめったに通らないこんな情景だった。