あけまして、おめでとうございます。なんだか、年末とはとても思えない暮れの暖かさでしたが、案のじょうケヤキをはじめ落葉樹の葉が枝々から落ちず、年越しの落ち葉掃きとなってしまいました。本年も拙ブログを、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 大正期から昭和初期のエッセイや小説に登場する、「喫茶店」Click!とは具体的にどのようなものだったのだろうか? 今日でも、喫茶店は存続しているけれど、ときに「カフェ」や「珈琲店」という名称で営業しており、多くの店では酒を置いていない。
 現代の喫茶店といえば、コーヒーClick!や紅茶、ジュースなどをメインの飲み物として用意し、軽めの食事も提供する“お休み処”、あるいは友人たちとの会話を楽しみ、ビジネスの打ち合わせをするロビーや会議室がわり、ときには執務室や書斎がわりに仕事をするサテライトオフィス的な場所……というイメージが強いだろうか。そこでは、アルコールや本格的な料理は出さず、あくまでもコーヒーClick!や紅茶の喫茶がメインだ。
 日本初の喫茶店である、1888年(明治21)に下谷五軒町(現・上野)に開店した「可否茶館」や、1911年(明治44)に京橋銀座でオープンした「カフェパウリスタ」(現存)、「カフェプランタン」(1945年閉店)、「カフェライオン」(ビアホールに転業し現存)なども、コーヒー喫茶が中心でアルコール類は提供していない。江戸期でいえば煎茶と軽食(団子や餅菓子、饅頭など)を出す水茶屋のことで、戦後の1950年代からつかわれた用語でいえば、これら明治期にスタートした店は「純喫茶」であるのが基本だった。
 ところが、時代を経るとともに「喫茶店」や「カフェ」には、別の意味あいが付加されるようになってくる。当初は、「純喫茶」だったはずの喫茶店にビールやウィスキーが置かれるようになり、「カフェ」は喫茶店とは無縁な、酒が主体のバーやキャバレーのように変貌していく。大正後期に「喫茶店」といえば、アルコールが置かれるのは普通になったし、「カフェ」にいたっては媚態をしめす女子たちが隣りの席へと座る、キャバレーかバーのように変貌していった。寺斉橋Click!の北詰めで、萩原朔太郎Click!の妻だった萩原稲子Click!がママをしていた下落合1910番地の喫茶店「ワゴン」Click!では、常連の檀一雄Click!太宰治Click!が1杯10銭のウヰスキーをひっかけながら入りびたっていた。
 同様に、喫茶ではなく新鮮な搾りたての牛乳を飲ませるミルクホールや、鉄道駅の近くにはミルクスタンドも明治末から開店しているが、後者はともかく前者のミルクホールは大正期に入ると、白いエプロン姿のきれいなお姉さんがニコッと笑いながらミルクを注いでくれるようになり、そのうちアルコールも置くようになって、やはり夜間営業ではキャバレーかバーのような風情に変わっていった。
 余談だが、親父は千代田小学校Click!から帰るとカバンを持ったまま、東日本橋で開店していた近くのミルクホールClick!でサンドイッチを食べミルクを飲みながら、「学」のあるお姉さんにその日の宿題をみてもらっていたそうだが、宿題が難しいから教えてもらっていたのではまったくなく、このきれいなエプロン姿のお姉さんに逢いたいために通っていたのだと、いまになって思いあたる。w 昭和10年代のミルクホールは、昼間はミルクに軽食を出す喫茶店のような営業をしていたが、夕方になると酒も出すバーのように店内の様子が一変していたのだろう。トナリ近所が顔なじみで気心の知れた(城)下町Click!だからこそ、親も許していた小学生のミルクホール通いだと思われる。
 では、当初の喫茶店の様子を、1924年(大正13)に日本評論社から出版された水島爾保布『新東京繁盛記』より、現代語訳が掲載された『モダン東京案内』(平凡社/1989年)から引用してみよう。ちなみに、著者はブラジル政府が肝煎りで援助した銀座の「カフェパウリスタ」が、地元でコーヒーを飲むことが習慣化したきっかけであり、コーヒーClick!の日常化を根づかせたのは同店だと規定しているが、確かに日本初の喫茶店は下谷の「可否茶館」だけれど、わたしもまた東京にコーヒーが根づき、その喫茶習慣が本格的に拡がっていったのは同店が嚆矢だと認識している。



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 ブラジルから特産のコーヒーが輸入され、同政府の補助経営によってカフェ・パウリスターというのが開かれたのはそう古いことではない。燕のようなボーイが評判され、キャビンのような部屋の造りが喧伝され、それから鬼のように黒く地獄のように熱く恋のように甘い――ということがコーヒーの条件だなどと宣伝された。今日でこそブラジルのコーヒーなんて三等品が何うして単独で飲めようなどと、禿鷹のような頸をフラフラさせて、さもボスポラス海峡の夕陽は眩しかったってえような顔をするヘチャムクレ共も敢て珍しくはないが、その当時はコーヒーといえば角砂糖へ小豆の粉を焦がして入れたようなものしかなく、それすら余程内容充実した家庭でなければ常備してはいなかったんである。少なくとも日本人がコーヒーってものについて彼是いえるようになった事も、亦コーヒーってものが一般に普及されるようになった事も、ブラジル政府の宣伝及びパウリスタ―の宣伝が大分与っているし、カフェってものの発祥も少なからず助長している。
  
 わたしが子どものころ、親とともに入った喫茶店には、カウンターの背後に洋酒壜がズラリと並んでいる店もあった。それは、カフェロワイヤルやアイリッシュコーヒーなどを作るためのものもあったろうが、夕方以降は客の注文があればそのまま酒類も出していたのだろう。そういった店は、不良少年のたまり場ともなっていたにちがいない。
 そのような、喫茶店かバーかわからない曖昧な店と区別するために1950年代に入るとアルコールを出さない“健全な店”のことを、あえて「純喫茶」と呼ぶようになったにちがいない。また、昼間は喫茶店のような“顔”で営業し、陽が落ちるとバーのような“顔”になる店のことを、「スナック」と呼びだしたのも1960年前後のことだろう。また、純粋に喫茶が目的の店ではなく、それなりに食事にも力を入れて出す店のことを、「軽食喫茶」と呼称するのも流行したように思う。
 わたしがよく通った「JAZZ喫茶」Click!は、純粋な喫茶のみでストイックに音楽へ耳を傾ける店と、アルコールも置いている店(ただし強い酒は出さない)と、ほぼ半々ぐらいの割合だったように記憶している。また、何度か入った「名曲喫茶」では、アルコールはご法度で置いていなかった。確かに、酒で酔っぱらって大声でしゃべる環境からは、そもそもほど遠いのがクラシックの名曲喫茶だった。
 柴田翔の『されどわれらが日々』(文藝春秋/1964年)に描かれた、六全協以降に登場したと思われる「歌声喫茶」に、わたしは一度も入ったことがないので不明だが、なんだか上条恒彦のような髭づらのヲジサンがビールジョッキ片手に『人間の歌』を唄い、前髪を斜めにたらした山本圭のようなヲニーサンが『若者たち』を唄っているようなイメージがあるのだけれど、きっとわたしの勝手ないつもの妄想なのだろう。



 昭和初期から戦後にかけ、「喫茶店など不良がいくところです!」などといわれ、酒やタバコの味を覚えるには最適な場所だったらしいが、わたしも高校3年生のとき(1970年代)に喫茶店でタバコの味を覚えている。小学生だった親父の、昭和初期のミルクホール通いに比べれば、なんの艶っぽさもないチャチな遊びにすぎない。(爆!) わたしはいっぱしの不良などではなかったが、戦前の神田神保町の喫茶店街は、ほんとうの不良のたまり場として東京市内では有名だった。「喫茶横丁」などと呼ばれた神田神保町の喫茶店街について、稲上健之助の『神田・喫茶室点描』を『犯罪都市』(平凡社/1990年)より引用してみよう。
  
 最近、雨後の筍の如くに簇生した喫茶店が如何に近代珈琲人の趣向と並行線を辿らんと否、現に辿りつつあるか、茲に千万の呶呶(どど)を費す前に喫茶室が描くニュアンスとセンジュアとの交錯明暗を記して見よう。/喫茶店が持つスタイルの千態万様は到底この筆紙に尽せ相もないが、特異な風貌を持った茶寮を摘記して各の角度から神田喫茶室アワンチウル(アヴァンチュール)を描いて見たいと思う。(中略) 『諸君、あの路次を一度這入って御覧! 大小幾多の赤い灯、青い灯の蘭灯を掲げた喫チャ店(ママ)が宛ら古代迷宮図の如くに諸君を誘惑しようと待ち構えていますぞ! そこは諸君は知らないだろうが、喫茶横丁と言って世界的に恐れられている不良マクツ(魔窟)である……』と薬本売りが月に向って喝破した、其の所謂喫茶横丁又の名をジャズ通り――。恐らく東京市中で此の喫茶横丁ほど喫茶店が軒々相摩して密集している地帯は見出されないであろう。(カッコ内引用者註)
  
 文中に登場する「ジャズ」とは、今日でいうビ・バップ革命以降のインプロビゼーションを主体としたモダンJAZZ(さらにそれ以降のコンテンポラリーJAZZ)のことではなく、しっかり譜面のあるダンスミュージックとそこから派生した初期のビッグバンドによるスウィングジャズのことで、現代のいわゆるJAZZとは異なる音楽のことだ。JAZZをご存じない方(たとえば名曲喫茶が好きな方)には、ヘンデルとヒンデミッドを同列同次元に並べて扱ってしまうほどのおかしさ……とでも表現すればおわかりいただけるだろうか。
 稲上健之助がいた昭和初期、「ジャズる」という言葉が流行ったようで上記の文中にも登場するが、「浮かれて踊って大騒ぎする」というような、不良用語としてつかわれていたらしい。喫茶店にいるキレイなお姉さんがシナをつくり、帰りぎわに扉を開けながら「又いらっしゃいねえ」と耳もとで囁いて見送ってくれるので、当時の学生たちはまた小遣いをせっせと貯めて「ジャズり」にこなくちゃと思ったのだろう。今日の、即興的になにかをアドリブでこなす「ジャズる」とは、まったく異なる用法だったらしい。
 わたしは学生時代、アルバイトでコーヒーショップのカウンターClick!を1年ぐらいつづけたが、平日のモーニングセットがある日は早起きをしなければならず、かなりつらかったのを憶えている。モーニングセットのない日曜・祝日に比べ、勤務が平日の場合は1時間ほど早く起きて、卵を茹でたり斤単位でとどくパンを切ってトーストの準備をしたり、野菜類を洗って適当に切りガラスの小皿へ盛っておかなければ、開店に間にあわないからだ。



 「こんなサービスを考えたのはどこのどいつだ!」と、ブツブツ野菜を切っていたのだけれど、どうやら1936年(昭和11)にオープンした銀座の「トリコロール」で、コーヒーとエクレアをセットで提供しだしたのが、東京におけるモーニングセットの嚆矢らしい。

◆写真上マッキンブルーClick!が光り、JAZZが流れる喫茶店で飲むコーヒーはことのほか美味だ。以下は、大正末から昭和初期に開店していた各地の喫茶店。
◆写真中上は、早稲田の学生街にあった喫茶店「いなほ」。は、神楽坂の花街にあった喫茶店「紅屋」。は、収容客数が多い新宿の大型喫茶店「華城」。
◆写真中下は、新宿にあったオシャレな喫茶店「大陸」。は、新宿にあった和風の意匠の喫茶店「江戸むらさき」。は、神田を代表する喫茶店「フロリダ」。
◆写真下:喫茶部から、独特な“フルーツパーラー”へと進化した3店。は、江戸期から有名な水菓子屋で本店をはじめフルーツパーラーの嚆矢となった中橋(現・京橋)「千疋屋」Click!は、同じく江戸期からの水菓子屋で神田にあった「万惣」Click!は、松本順Click!の教え子・福原有信Click!が明治になって創立した銀座の「資生堂」Click!喫茶部。