陸軍航空隊が撮影したとみられる、非常にめずらしい空中写真を入手した。ちょうど、西落合2丁目968~990番地(のち同2丁目430番地)の四村橋Click!ぎわに建っていた、オリエンタル写真工業第二工場Click!の真上あたりから、ほぼ真東を向いて撮影された斜めフカンの空中写真だ。
 長崎地域から落合地域にかけ、改正道路Click!(山手通り=環六)の工事がまったくスタートしていないので、撮影は1942年(昭和17)以前、おそらく陸軍航空隊による他の写真類も考慮すると、1941年(昭和16)の撮影だとみられる。
 眼下には、オリエンタル写真工業の第一工場や井上哲学堂Click!哲学堂グラウンドClick!荒玉水道Click!野方配水塔Click!などが見えている。そして、妙正寺川沿いの高台には目白商業学校Click!(現・目白学園)から落合府営住宅Click!の全景、目白文化村Click!の全景、落合第一小学校Click!国際聖母病院Click!薬王院Click!、そして落合第四国民学校(旧・落合第四尋常小学校)Click!までが一望のもとに見わたせる、非常に稀少な写真だ。
 西武線Click!(現・西武新宿線)では中井駅Click!下落合駅Click!が、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)では椎名町駅がとらえられている。上屋敷駅Click!もとらえられているはずだが、遠景なので判然としない。
 なによりも貴重なのは、落合地域に建つ家々が真上からではなく、西からの側面だがそれぞれ立体で確認できる点だ。この時期、西落合にも田畑の間に住宅が次々と建ちはじめていた様子がわかる。落合分水Click!沿いの谷間では、耕地整理で田畑がひな壇状に宅地化されていく、まさに赤土がむき出しの整地作業中のエリアが見える。「妙見山」Click!は、三間道路が拓かれているものの、まだまだ深い樹林を残したままだ。



 下落合を見てみると、1940年(昭和15)から販売をはじめた勝巳商店地所部Click!による昭和版「目白文化村」Click!の敷地には、まだほとんど住宅が建てられていない。それに比べ、箱根土地Click!が大正期に販売した目白文化村は、ところどころに空き地が残るものの、ほぼ全域に住宅が建ち並んでいる。第二文化村の北側、箱根土地の社宅建設が予定されていたエリア(現・下落合教会/下落合みどり幼稚園Click!)にも、すでに大きな安本邸や水野邸の建設されているのが見える。
 第二文化村の南側は、改正道路工事を想定して丘陵地に茂っていた木々が伐採され、通称「翠ヶ丘」が一面の「赤土山」に変貌している。「赤土山」北東の高台には、旧・ギル邸Click!跡に建てられた巨大な津軽邸Click!が見えている。1941年(昭和16)の第一文化村の前谷戸には、いまだ弁天池があったはずだが、成長したモモの林(昭和10年代には谷底にモモ畑があった)がまわりを囲んでいて、水面を確認できない。
 また、旧・箱根土地本社Click!(のち中央生命保険倶楽部)のビルが、おそらく無人の廃墟になっていた思われるのだが、この時期まで壊されずに残っていたのがわかる。江戸期の建物が残る宇田川邸Click!の向こう側には、第四文化村の分譲地があるが、住宅が建ち並んでいる様子には見えない。
 これら目白文化村に建つ家々は、陸軍航空隊が同時期に東中野上空(南側)から撮影した、もうひとつ別の斜めフカン写真Click!×2点と対比することによって、かなり正確に意匠や形状を把握できるのではないかと思う。
 さて、落合第一小学校の北東側を見てみよう。わたしが初めて、本格的な3Dで目にする第三文化村だ。第三文化村の北西端に建っていた、目白会館文化アパートClick!の西側の切妻とエントランスがハッキリととらえられている。周囲の家々(それらも大きなお屋敷のはずだが)と比較すると、目白会館が飛びぬけて巨大だったのが見てとれる。手前の落合第一小学校より遠景にもかかわらず、その2階建て校舎のサイズよりもはるかに大きな建築だったのがわかる。




 第三文化村の先には、佐伯祐三アトリエClick!があるはずだが、濃い緑に覆われて確認することができない。聖母坂沿いには、国際聖母病院Click!の屋根に覆われた「シベリア鉄道」Click!(渡り廊下)が、白く光っている。聖母坂の向こう(東側)には、薬王院の本堂(現・方丈)の屋根と、その上(東側)には落合第四国民学校Click!の「Γ」型に折れた校舎の屋根が、それぞれ陽光を受けて白く光っている。
 鉄道沿線を見ると、中井駅前は改正道路の工事に備えて、やはり樹木が伐られ家々の立ち退きが終了し、赤土がむき出しの状態になっている。ちょうど、大規模なタタラ遺跡Click!が出土したあたりだ。いまだ一ノ坂Click!矢田坂Click!は残っているが、深く生い繁っていた樹木が次々と伐採され、周辺の環境は激変していただろう。中井駅前の落合第二国民学校Click!(旧・落合第二尋常小学校Click!)には、敷地いっぱいに校舎が建ち校庭が狭くなっている。聖母坂下の下落合駅の周辺では、東京護謨工場Click!が移転したあとの広い空き地が目立つ。
 武蔵野鉄道の椎名町駅周辺は、住宅街が形成されているものの、駅を少し離れると西落合と同様、すぐに空き地や田畑が拡がっている。そんな中、長崎国民学校(旧・長崎尋常小学校)の左手(北東側)には長崎アトリエ村のひとつ、「桜ヶ丘パルテノン」Click!の小さなアトリエが並んでいる。
 ひとつ気になるのは、椎名町駅の南南東側にあたる椎名町1丁目(現・目白5丁目)の、戦後は真和中学校になる校舎のあたりに、まるで水道塔を思わせるドーム状の構造物が建っている点だ。大邸宅の塔かとも思ったが、1945年(昭和20)の空襲前に撮影された空中写真を見ても、この位置にそのような建築物はない。これは、いったいなんだろうか?




 とりあえず、写真を概観して気がついた点を大急ぎで羅列してみたが、これからは落合地域で、あるいはその周辺域で発生するさまざまなテーマや課題によっては、同写真が大きな役割を果たしてくれるのではないかと期待している。特に、下落合の西部から中部にかけてを細かく検証するには、願ってもない空中写真なのだ。

◆写真:1941年(昭和16)の撮影とみられる、下落合の中西部を鳥瞰した空中写真。