大正期に入ると、東京では各地に今日の生協の基盤となる、生産者と消費者を直結する「消費者組合」が誕生している。落合地域でも、下落合を中心にそのような組織が活動していた。下落合の東部では落合家庭購買組合Click!が、中部では落合府営住宅Click!目白文化村Click!を中心にした同志会Click!が、西部から上落合あるいは西落合にかけては落合消費組合(のち城西消費組合)が結成されていた。
 これらの組織の中でもっとも古いのは、吉野作造Click!の民本主義思想をベースに結成された家庭購買組合だ。三岸好太郎Click!が一時期、本郷購買組合に勤務していたことはご紹介したが、大正期には中村彝アトリエClick!の斜向かい、林泉園Click!の西側にあたる下落合397番地に、1935年(昭和10)すぎには目白通りに面した、目白中学校Click!の跡地にあたる下落合(1丁目)437番地に移転して活動している。
 また、下落合の中部では目白文化村や落合府営住宅の住民たちが中心となり、1932年(昭和7)すぎに結成された同志会Click!という組織があった。無教会派のキリスト教徒が発起人の中心で、事務所は第一文化村の前谷戸にあった弁天池が背後に見える下落合(3丁目)1605番地に置かれていた。そして、さらに西側と南側の下落合や上落合、西落合には落合消費組合(のち城西消費組合)が結成されていた。
 落合消費組合(1932年より城西消費組合に改称)が結成されたのは、目白文化村の同志会よりも古く1929年(昭和4)のことだった。1935年(昭和10)に10周年記念大会を開催しているので、それ以前の東京共働社による家庭会時代を入れると、消費組合のスタートは1925年(大正14)ということになる。したがって、落合府営住宅や目白文化村も含め、下落合の中部から西部の家々では同志会よりも以前から、落合消費組合のほうへ加入していた家々があったかもしれない。
 消費組合の母体となる家庭会結成は、新居格や金井満、笠原千鶴、橋浦泰雄、橋浦時雄、奥むめおたちが発起人となり、会長には与謝野晶子Click!が就任している。東京市内で徐々に会員を増やしながら、役員や賛同者には橋浦泰雄Click!大宅壮一Click!江口渙(換)Click!神近市子Click!村山知義Click!柳瀬正夢Click!壺井栄Click!宮本百合子Click!平林たい子Click!、丸岡秀子、勝目テルなど、落合地域とそのすぐ周辺域に住んでいた人々も少なくない。
 戦前戦後を通じて、城西消費組合の仕事を手伝っていた、当時は西落合1丁目306番地(のち303番地)に住んでいた松岡朝子の証言が残っている。この住所は、旧・松下春雄アトリエClick!の地番であり、松岡朝子とはもちろん柳瀬正夢Click!が1939年(昭和14)1月に再婚した連れ合いのことだ。松岡朝子について、1996年(平成8)に岩波書店から出版された井出孫六『ねじ釘の如く』から引用してみよう。
  
 地下鉄ストで馘首された松岡朝子は、自立のため一年洋裁学校に通って、洋裁を始めた。築地小劇場の女優たちのアルバイトであるマネキンの衣装を縫った。原泉がブラウスを注文しようとしたら、夫の中野重治が「もっとちゃんとした人に頼んだらどうだ」と言ったと伝わってきた。このことばが松岡朝子に一念発起させ、デッサンの基礎を身につけねばと思わせた。
  



 地下鉄のストライキに参加し、特高Click!に逮捕されて会社をクビになった松岡朝子は、西落合にあった柳瀬正夢アトリエへデッサンを習いに通いはじめるのだが、1939年(昭和14)の結婚と同時に夫が役員をやっていた関係から、城西消費組合(旧・落合消費組合)の仕事へも少しずつ参画していくことになる。
 当時、朝子夫人も指摘しているように、消費組合の役員や会員には男性名が名を連ねていても、実質はその連れ合いが活動していたケースが圧倒的に多いようだ。1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された、松岡朝子へのインタビューをまとめた『新宿に生きた女性たちⅣ』から当時の様子を引用してみよう。
  
 一九三九(昭和一四)年、二四歳の時、プロレタリア政治漫画も描く画家の柳瀬正夢と結婚して、淀橋区の西落合に住みました。いきなり、子ども二人の母親になって、家事がたいへんで、私はあまり外にはでられませんでしたね。落合消費組合はもう、城西消費組合になっていたようですが、何をしていたかはよくわかりません。/組合の会員名簿は男の名前が多いけれど、実際は奥さんが一生懸命やっていましたよ。奥さんがやっていても、昔は夫の名前を出していました。奥さんは、名前を出しませんでしたから。でも、落合消費組合は女の人の名前が多いですね。班会議というのをやっていたようでしたが、出たことはありませんね。新婚でしたし。/(中略) 勝目テルさんはよく知っています。小沢清子さんもよく知っています。林芙美子さん、神近市子さん、壺井栄さん、あまり外へでなかったから面識はないけど、名前は知っています。林芙美子さんの夫は画家ということですが、夫とは付き合いはありませんでした。初代の婦人部長は与謝野晶子さんということも知っています。よくやっていらっしゃったという半田さんという方は知りません。/荻郁子さんという方がおもしろかったですよ。高田馬場で酒場をやっていて、交渉なんかあるととても活躍した人でした。先頭にたってやる人でした。独身で鉄火肌の人でしたね。
  
 「何をしていたかはよくわかりません」と答えていながら、かなり内情には詳しいようなので、おそらく朝子夫人以上に活躍していた、当時の先輩の女性たちを意識した謙遜ではないかと思われる。城西消費組合は、各地の消費組合に比べガス代値上げ反対運動を展開するなど「戦闘的」だったようだが、特に婦人活動が活発で子供会や郊外の立地を活かしたピクニック、講演会、映画・演劇など文化活動に力を入れていた。


 1929年(昭和4)の設立当初、落合消費組合の事務所がどこにあったのかはハッキリしないが、上落合2丁目549番地の壺井繁治・壺井栄宅Click!の隣家に住んでいた、同組合の設立者のひとりで戦後は宇野学派の国独資マル経経済学者Click!となり、のちに東京経済大学学長となる井汲卓一Click!夫妻の自宅あたりではないだろうか。
 つづけて、松岡朝子のインタビュー「落合消費組合の思い出」から引用してみよう。
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 今は、あのあたり高いマンションが建っているけれど昔は畑がたくさんあって、練馬に近いからそこで取れた土地のものを直接仕入れたのを売りにきました。それで、一銭でも安くって。今の産直ですね。/その当時は、落合から吉祥寺あたりまでは道路は赤土のままで、砂利も入らず荷車の轍の跡や、自転車のタイヤの跡などで、でこぼこのぬかるみでした。そこを自転車にリヤカーをつけて物を運んでました。/当時は魚が主で、肉はあまり食べませんでしたね。麻袋入りの米、みそ、一升瓶入りの醤油、砂糖、ちり紙や石鹸など日常品も売っていました。/城西消費組合は、一〇家族くらいの班組織が基礎になっていて、そこから班長を選出し、班長会議、役員会議で経営方針を決めていました。/(城西消費組合創立十周年記念ポスターを見ながら)これは、夫柳瀬がつくったんですよ。男性のモデルは常務者の宮尾さん、一九三五年のことで、結婚前ですから、私は知らなかったのですけど、徳川無声(ママ:徳川夢声)、アルト歌手の四家文子さんなどをよんで盛会だったようです。(カッコ内引用者註)
  
 この時期の城西消費組合落合支部(旧・落合消費組合)がどこにあったのか、朝子夫人が回想する「高いマンションが建っているけれど昔は畑がたくさんあって」という表現から推測すれば、朝子夫人が結婚した1939年(昭和14)現在、上落合地域にはすでに住宅がほぼぎっしりと建ち並び、もはや「畑がたくさん」はないので、西落合の新青梅街道沿い、あるいは目白通りも近いどこかではないかと想定している。
 
 

 結婚後わずか6年で、夫の柳瀬正夢は諏訪に疎開していた長女のもとへ布団をとどけようと、新宿駅の西口広場Click!にいたところを、B29から投下され炸裂したM69集束焼夷弾Click!の破片を受けて死亡する。1945年(昭和20)5月25日午後11時ごろのことだった。

◆写真上:1933年(昭和8)まで松下春雄アトリエだった、西落合1丁目306番地(のち303番地)の柳瀬正夢アトリエ(左側)。右側は、鬼頭鍋三郎Click!アトリエ。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる落合家庭購買組合。ほどなく、下落合1丁目516番地の目白中学校跡地へ移転している。は、1932年(昭和7)に目白文化村と落合府営住宅の住民が中心になり設立された同志会事務所。は、1939年(昭和14)1月に撮影された結婚直後の松岡朝子と柳瀬正夢。
◆写真中下は、1935年(昭和10)2月21日に開かれた「小林多喜二を偲ぶ会」の柳瀬正夢(右端)。深刻なぎこちない表情での撮影のあと、撮影者が「笑って」と声をかけ思わず笑ってしまった出席者たち。母親の小林セキを中心に原泉Click!中野重治Click!中野鈴子Click!片岡鉄平Click!、村山知義、村山籌子Click!、壺井繁治、壺井栄、宮本百合子、窪川鶴次郎Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!蔵原惟郭Click!上野壮夫Click!など、拙サイトではお馴染みの落合地域とその周辺で暮らしていた顔ぶれが多い。は、1935年(昭和10)制作の東北飢餓飢饉支援ポスターで柳瀬正夢『飢えたる農民に労働者の手をのばせ!』。城西消費組合のポスターも、このようなタッチだったのだろうか。
◆写真下中左は、内務省の特高資料に残る1932年(昭和7)作成の「城西消費組合創立総会議定書」。同年2月29日の発禁スタンプが押され、内部には「サヴエート礼賛」「彼等戦争観」など特高の検閲メモがそのまま残っている。中右は、松岡朝子インタビューが掲載された『新宿に生きた女性たちⅣ』(新宿区地域女性史編纂委員会/1997年)。は、焼夷弾が炸裂して落ちていく1945年(昭和20)5月25日午後11時ごろの新宿駅西口広場。死を目前にした柳瀬正夢も、この光景を眼下のどこかで見ていたはずだ。
おまけ
 「笑って」とカメラマンが声をかける前の写真だが、誰かが「明るくいきましょうや」とでもいったのか、右端の柳瀬正夢と上野壮夫、真ん中右寄りの村山籌子、そして左端の原泉などはすでに笑みを浮かべている。今日の視点から見ると、この席に小林多喜二の妻だった下落合の伊藤ふじ子Click!がいないのがかえって不自然な光景だ。