この春から、自由学園Click!に通っていた大正期ではもっとも“進んだ”女子たちClick!のことを書いてきたが、では、当時の一般的な家庭における女子は尋常小学校を卒業すると、どのようにすごしていたのだろうか。下落合に生まれて、目白の外交官の家へ行儀見習いに入り、ほどなく商家に嫁いでいる女性の話をご紹介してみよう。
 1911年(明治44)に下落合で生まれた福室マサ子という方は、まだ住宅地化の波が市街地から押し寄せてはこず、離れた農家がポツンポツンと点在している田園風景の中で育っている。川沿いは、春になるとレンゲが一面に咲き、夏になると江戸期と変わらずホタルClick!が舞うような環境だった。護岸工事などされていない、旧・神田上水や妙正寺川Click!の水中には、メダカや沢ガニがたくさんいたころだ。
 1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から出版された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、福室マサ子「落合の農家から商家に嫁いで」から引用してみよう。
  
 山手通りと新目白通りの交差するところを下ると小さな川があって、丸木橋を渡って落合尋常高等小学校に通いました。小学校六年の二学期の始業式が終わって帰ってきたら、関東大震災になったんですよ。地鳴りが続いてとてもこわかったので、外で野宿をしたんですの。家は何ともなかったんですけどね。
  
 語られている時代は大正時代なので、もちろん山手通りClick!新目白通りClick!も存在しない。書かれている小川は、福室家と同様の旧家・宇田川邸Click!の東側に通う市郎兵衛坂Click!から、崖地を下って小さな丸木橋わたる、前谷戸(大正中期から不動谷Click!)の谷底を流れていた湧水流のことだ。
 この小流れは、目白文化村Click!の第一文化村に建立されている弁天社の裏谷に湧水源Click!があり、そこには桃畑に囲まれて弁天池が形成されていた。小川は東南東へ流れ下ると、1923年(大正12)の初夏までに埋め立てられて暗渠化された、第一文化村の追加分譲地Click!の下を流れ、箱根土地本社Click!の庭園「不動園」Click!で湧水池を形成したあと、落合尋常高等小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)の西側に開発された第四文化村の谷底を流れ下り、やがては妙正寺川へと合流している。
 当時の小学生は、学校から帰るとたいがい家事(農家なら子守りや農作業で、商家なら商品の配達や開梱・陳列作業など)を手伝っていた。小学生でも家業の重要な戦力であり、特に家が裕福でもないかぎり、なんらかの役割りを分担させられるのがあたりまえだった。当時の下落合は、華族やおカネ持ちの大屋敷や別荘は建っていたものの、いまだ月給とりのサラリーマン家庭はあまり見かけない時代だ。
 高等小学校を卒業すると、彼女はさっそく習いごとに通わされている。もちろん、今日のような茶道や華道、ピアノなどの趣味的な教室ではなく、すぐに生活に役立つ実践的な習いごとだった。同書より、再び引用してみよう。
  
 高等科が終わってから、お弁当を持って裁縫所に通いました。先生は聖母病院の近くの人でみんなで出かけました。あの時分はみんな着物でしたから、縫えないと不自由なんですよ。出来ているものが売っているわけじゃないですから、お嫁に行ってもその日から困っちゃうでしょ。/お店はこの辺には何もなくて、買い物は椎名町まで行きました。油は小野田油屋が売りにきたり、買いに行ったりしました。椿油や胡麻油を計り売りで買いました。/福室の家では、そのころは人を使って百姓をしていました。私もなすやきゅうりをもいだり、草取りしたりして手伝いました。植木をたくさん作っていてそこの草取りが多かったんですね。
  



 先の山手通りと同じく、国際聖母病院Click!が竣工するのは1931年(昭和6)なので、証言者は場所がわかりやすいよう、現在の目標物を織りまぜながら話している。当時のいい方をするなら、落合尋常高等小学校の青柳先生Click!の家にちなんで名づけられた、青柳ヶ原Click!の近くに裁縫所があったのだろう。
 これまで、上落合の旧家だった福室家については、福室軒牧場Click!の記事に関連して紹介しているが、下落合西部の旧家だった福室家については、おそらく拙ブログでは初出だろう。落合尋常小学校への通学路の様子や、目白通りの椎名町Click!がおもな買い物先であること、小野田製油所Click!で油を購入している経緯などから、下落合にも複数ある福室家の中で、彼女は四ノ坂上の北西角、すなわち下落合2196番地に広い敷地や畑地を所有していた福室家のことではないだろうか。
 大正も中期をすぎると、周囲は宅地造成が急ピッチで進められ、特に関東大震災Click!後は東京市街地から郊外へドッと人口が流入していた時代だった。彼女の家の眼の前には、1920年(大正9)に吉武東里Click!大熊喜邦Click!の設計による大きな島津邸Click!が建てられており、追いかけて福室家の北東側には箱根土地による目白文化村が、つづいて下落合西部では東京土地住宅Click!のによるアビラ村(芸術村)Click!建設計画Click!が発表されていた。おそらく、福室家では郊外住宅の庭園には必須となる植木の需要急増を見こして、当時は自家の畑地で植木園を経営していたものだろう。
 彼女はしばらく家の農業を手伝ったあと、目白にあった外交官の家へ行儀見習いに出され、家事手伝いとして働いている。この外交官の家は、「前のチリ公使で、そのときは国際連盟の委員」と書かれているので、当時の外務省に勤務していた矢野真邸のことではないかと思われる。この記事をお読みの方で、どなたか当時の目白にあったとみられる矢野真邸をご存じの方がおられれば、ご教示いただきたい。
 同家は謹厳なクリスチャンの家庭環境だったらしく、食事はひとつのテーブルで彼女も家族といっしょにとっている。住みこみで食事つきの行儀見習いにもかかわらず、毎月15円の給金をくれていた。当時なら米を50kgも買える金額で、今日の価値にすると30,000円ぐらいだろうか。彼女は丸4年間そこで働き、1932年(昭和7)に23歳で結婚している。



 結婚した相手とは“いとこ”同士で、煮豆や佃煮、干物、漬物などを売る商店を経営していた。嫁ぎ先もやはり地元で、店舗は自性院Click!も近い西落合にあった。おそらく、目白通りか新青梅街道沿いの商店だったのだろう。このあと、店を手伝いながら子育てをする主婦の生活が長くつづき、1985年(昭和60)に夫と死別している。新宿区の地域女性史編纂委員会のメンバーが取材に訪れたとき、彼女は86歳だった。
 証言の中に、落合地域のめずらしい雑煮の話が出てくる。いままで落合の地元の雑煮について取材したことがないので、同書より引用してみよう。
  
 お正月三が日は男がお雑煮を作るんですよ。朝、若水を汲んで神棚にあげて、お雑煮は里芋と小松菜を入れて鰹節のだしで作るんです。そのころお雑煮はごちそうでしたものね。今でも同じようにしていますよ。一、二月は寒餅をたくさんつきました。夕方から夜通しかかってみんなで寄り合ってつくるんです。きびを入れるとしっかりして長持ちするんですって。夏になるまで水餅にしておいて畑仕事のお茶うけに食べるんです。/春になると、徳川さまのお屋敷の牡丹がとてもみごとでみんなで見に行きました。池のそばの藤棚には藤が咲いて温室にはバナナがなっていました。バナナってこんなふうになるんだなあって感心して見たものです。そのころはバナナは珍しかったですから。方々からみなさん牡丹を見にみえて、絵描きさんが写生をしていました。
  
 「男が雑煮を作る」という習慣は同じだし、鰹節の出汁をとるのも同様だが、わたしの家の雑煮Click!にサトイモは入れない。また、わたしは小松菜があまり好きではないので、塩茹でしたホウレンソウをミツバとともに最後に添えることが多い。省略した証言なので不明だが、落合地域の名産だったダイコンやニンジン、長ネギや、ニワトリを暮れにしめた鶏肉(あるいは鴨肉Click!)なども入っているのかもしれない。
 文中に出てくる「徳川さま」Click!は、もちろん西坂の徳川義恕邸Click!のことで、「牡丹」は東京郊外の名所だったボタン園「静観園」Click!のことだ。徳川邸の温室でなっていたらしいバナナClick!は、大正末から昭和初期にかけてはまだまだめずらしく、庶民にはなかなか手がとどかない高価なフルーツだった。



 もうひとつ、彼女は興味深い証言を残している。関東大震災のとき、上落合にある落合火葬場の煙突が折れたというものだ。火葬場の出来事なので、地元では後世に伝承されにくかったものだろうか、わたしには初耳なので詳しい資料がないかどうか、ちょっと調べてみたくなった。事実だとすると、大震災時に憲兵隊隊長室で虐殺Click!された大杉栄Click!伊藤野枝Click!、橘宗一の3人の遺体は、折れた煙突の焼却炉で焼かれたことになる。

◆写真上:下落合2196番地の、四ノ坂上にあった福室邸跡の現状。(画面左手)
◆写真中上は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる福室邸。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同邸。は、1907年(明治40)撮影の落合尋常高等小学校卒業写真。証言者も、明治期の古い校舎で学んでいた。
◆写真中下:上は、福室邸から落合尋常高等小学校までの通学路。中は、坂下の湧水流(暗渠化)に丸太橋がかかっていた跡の現状。下は、1929年(昭和4)5月24日に撮影された新校舎竣工直後の落合第一尋常小学校。撮影者は松下春雄Click!で、不動園のモッコウバラ垣ごしに西側の校舎と講堂(画面左手)をとらえている。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)撮影の徳川義恕邸「静観園」。中は、1916年(大正5)ごろに撮影の西落合の貫井家で行われたカルタ取り。(『おちあいよろず写真館』より) 下は、戦災前の1938年(昭和13)に撮影された自性院本堂。(同上)
おまけ
今年も、下落合で大きなカブトムシを見かけた。子どもたちに見つからないように……。