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第六御炮台場は健在だった。 [気になるエトセトラ]

 久しぶりに、東京湾を船でプカプカ遊覧してきた。10ノットも出ていないのに、さすがにデッキに出ると風が凍えるほど寒い。第三御炮台場の先がさらに埋め立てられて、あんなふうになっちゃったから、第六台場もどうなってしまったのか知れたもんじゃない・・・と危惧していたのだが、ちゃんとそのまま、元のようにひっそりと横たわっていた。
 7つあった台場の中で(第四台場と第七台場は造りかけで中止)、いま残っているのは第三と第六の炮台のみだ。ほかの台場は、そのまま周囲を埋め立てられて陸地となるか(第一・四・五・七台場)、あるいは航路の邪魔なので浚渫されて崩されてしまったか(第二台場)のどちらか。第三と第六の台場が残ったのは、このふたつが大正期に国の史跡に指定されたからだ。そして1928年(昭和3)、第三台場は公園に指定されて、東京市民に開放された・・・ということになっている。でも、この公園がなんともおかしな施設なのだ。いまでこそ、第三御炮台場は台場2丁目と陸つづきで歩いて渡れるが、公園化された当初は第三と第六ともに、海の上にポツンとふたつ並んだ、誰も出かけることのできない敷地だった。つまり、第三台場は船を雇って渡らないと利用できない公園だったわけだ。
 
 わたしは昔、親父に連れられてどちらかの台場へ渡っているが、第三だったか第六だったかまでは憶えていない。樹木がうっそうと繁り、ちょうどいまの浜御殿(浜離宮庭園)の石垣に見られるような、まるで城砦か要塞のような石組みが印象的だった。当時、品川の貯木場と隣接していて渡りやすかった、第三御炮台場のほうだったのかもしれないが、特別の公開日だった第六台場のような気もする。いまでこそ、第三台場は芝生が敷きつめられ公園然としているが、昔は第六台場と同様に木々が生い茂る森林だったのだ。
 2年前まで、うちの会社は台場(地名としての)にあるデータセンターへサーバをハウジングしていた。こう書けば、「ゆりかもめ」の駅名にもなっているので、もうどこのデータセンターだかわかってしまう。事故もなく安価でよかったのだが、SEが一度、年末にメンテナンスに出かけて悲鳴をあげた。クリスマスから正月にかけて、レインボーブリッジはもちろん、台場へ通う数少ない道路はどれも大渋滞で、そもそもサーバの設置場所へたどり着けないのだ。もし、システムにアクシデントが発生して、緊急のメンテナンスが必要になったとき、エンジニアがすぐに駆けつけられない可能性のある台場は超ヤバ・・・ということになって、システム一式を渋谷の奥へと引っ越した。埋立地のグズグスな地盤と、0m地帯なのも不安材料のひとつだった。
 
 なかなか行く機会の少なくなった台場を、今回は船の高いデッキ上から眺めてみた。第六台場は、お台場海浜公園の海上緑地帯とともに、いまや海鳥たちの営巣地となっているようだ。船で前を通ると、カモメ、ウミネコ、ミヤコドリ(ユリカモメ)などが樹木の間を舞っているのが見える。今度、機会があれば、手つかずの第六台場をぜひ訪れてみたい。
 台場を設計した「世直し江川大明神」こと、韮山代官の江川太郎左衛門は、湯島や韮山の鋳造場でせっせと大炮(砲)づくりをしていたが、御炮台場が海鳥の楽園や公園になろうとは、当時の緊迫した情勢からは夢想だにしなかっただろう。小春日和の、のどかな東京湾だった。

■写真上:第六御炮台場の全景。
■写真中:台場の空中写真。左が手つかずの第六御炮台場、右側の陸つづきで樹木が伐られ整備されているのが第三御炮台場。手前の海上緑地は、お台場海浜公園の一部。
■写真下:レインボーブリッジをくぐると、すぐ右手に第六台場が見えてくる。() ブリッジをくぐり終えると、第六台場の奥に第三御炮台場が見える。()


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