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画室には中村屋の娘の肖像が架けられていた。 [気になる下落合]

 洋画家・曾宮一念Click!は、もともと文章を書くのが好きだったのか、昭和期に入るとたくさんのエッセイを残している。日本橋に生まれ霊岸島界隈で育った彼は、江戸の残り香が濃厚な明治の東京について、しばしば随筆に残している。「東京おぼえ書」と題されたエッセイ群は、わたしの親父の話と重なる逸話も多く、読んでいてとても楽しい文章だ。
 また、「学生時代」とタイトルされたエッセイ群には、中村彝や会津八一など友人知人たちとの交流が描かれ、たいへん面白い内容となっている。住まいが近接していたせいか、しょっちゅう中村彝のアトリエClick!へ出入りしていた曾宮は、気をゆるしていた彝から日常的にいろいろな話を聞き出している。庭などでいっしょに写生Click!しながら、交わした会話などもあったのだろう。1965年(昭和40)前後に書かれた「学生時代」から、気になる記述をピックアップしてみよう。
  
 蛇足を加えると中村も会津も独身で終った。中村の晩年は三十八(ママ)とはいえ結婚に不適な重病であったが会津の独身は「独身者の偏狭」に至らせていたのかも知れない。中村は恋人の俊子が印度の志士ビハリ・ボースと結婚して後、死んでいる。思い出としては何も話さなかったけれども「私は貴婦人型は好かない。おさんどん型が好きだ」といっていた。これは俊子の頬の色をブンドウ(小豆の一種)色と称して好み、彼女の妹等に比して不美人で愚かであったという俊子に対して後々まで良い感情を持っていた。 (曾宮一念「二人の独身芸術家」より)
  
 彝の女性の好みがうかがえる、興味深い記述だ。洗練された町場の女性よりも、野暮ったくて田舎っぽい女性のほうが、どうやら彝の好みだったようだ。
 
 また、彝が下落合へアトリエを建てたあと、絶交状態にあった中村屋から突然、相馬黒光が見舞いに訪れる有名なエピソードがある。多くの書籍では、黒光が見舞いに訪れ、ベッドに横たわる彝と淡々と会話を交わしていた様子のみを記しているけれど、このとき同伴した中村屋の娘について触れている資料は少ない。でも、黒光が同伴した娘とは、俊子ではなかった。同じく、彝のモデルをつとめた二女の相馬千香だったのだ。曾宮一念は、つづけて書いている。
  
 ボースの一子は沖縄で戦死、これは私が最近俊子の妹ちか子さんから間接にきいた話である。私は俊子にあったこともないし、俊子に関して中村とはなるべく話題を避けていた。(中略) しかし彼も触れたくない古傷に自らさわってみたいのか、稀に自分の不遜が失恋を招いた懺悔話をした。中村の死の一年ぐらい前に俊子の母黒光が中村を訪れた。二人には長いわだかまりもそのころは薄らいで淡々と見舞って帰った。同伴した二女のちか子さんは娘ざかりで美しかった。ちか子さんの幼顔を私が知っているのは、五、六才のちか子さんが中村のソフト帽を被された八号が画室にぶらさげられていたからである。俊子の画は一つも壁にかけなかったのに、この愛らしい幼女像はかけ放しになっていた。 (同上)
  
 中村彝のアトリエには、ずっと新宿中村屋の娘の肖像が架けられていた。しかし、それは俊子の絵ではなく、彝のソフト帽をかぶった妹の千香の肖像だった。このとき、見舞いに訪れた美しく成長した千香を見て、女性の好みからいえば、やっぱり姉のほうがいい・・・とはたして彝は思ったのだろうか。中村屋時代の匂いのするものは、下落合のアトリエからは払拭されていたという表現の資料が見られるけれど、中村屋の娘たちを直接想い起こさせる作品が、長い間、壁面に架けられたままになっていたのだ。
 
 1912年(明治45)に描かれた『帽子を被った少女』の相馬千香をときどき見やりながら、中村彝は画室でなにを想っていたのだろう。

■写真上:曾宮一念描く、彝が存命中から有名だった一念マンガの「中村彝」。
■写真中は、1918年(大正7)ごろの相馬俊子。は、1911年(明治44)の相馬千香。
■写真下:彝描く、は『少女』(1913年・大正2)、は『帽子を被る少女』(1912年・明治45)。


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ChinchikoPapa

またまた、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-07-04 23:38) 

ChinchikoPapa

リンク先まで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-05 16:01) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2010-12-04 23:52) 

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