SSブログ

下落合を描いた画家たち・織田一磨。(1) [気になる下落合]

 

 一時期、落合村で暮らしていたらしい織田一磨が、1917年(大正6)に描いた『落合風景』だ。佐伯祐三が、地元の地名や地域の呼称、村や町の境界などにきわめて敏感で、パリでもいつも地図とにらめっこしていたのとは反対に、織田は地元の地理にはきわめて無頓着だったようだ。彼は、下落合を流れる川の名前さえ、はっきりとは認識していない。
 「神田川の上流が落合村を流れてゐる姿である。落合といつても哲学堂附近で、・・・この当時は釣魚の好適地として、漁人がよく出掛けた場所である」、これは『落合風景』に添付された織田本人の解説だ。でも、下落合を流れる神田川(旧・神田上水)は下落合字本村(現在の下落合駅付近)までで、そこから南へ大きく屈曲Click!し、上落合から大久保方面へと流れていく。下落合の目白崖線に沿って、そのまま哲学堂方面まで流れているのは妙正寺川だ。当時、妙正寺川をさかのぼると、葛ヶ谷御霊神社の南側に「釣魚の好適地」があった。大きな池だ。
 のちに版画家として、東京各地の風景を描いて有名になる織田だが、この作品は初期の水彩画のひとつ。カラーでないのが残念だけれど、川がゆったり蛇行して、崖線に沿って流れている様子が描かれている。でも、この崖線は木立の様子からして、旧・下落合の南側にみられる崖線の高度ではなさそうだ。約30mほどはある目白崖線だが、この崖はそれほど高くはない。だが、下落合の西外れで妙正寺川が北へと大きく湾曲し、織田が書いているとおり井上哲学堂Click!へといたるあたりの崖線は、葛ヶ谷(現・西落合)の台地に沿って徐々に低くなっていく。また、付近には千川上水から分岐した葛ヶ谷分水(地域によっては落合分水)も流れていた。ちなみに、織田は絵のタイトルを『落合風景』としているが、当時この地域には落合の地名はなかった。葛ヶ谷と上高田が接したあたりの風景で、ここでも彼が地理にうとかったのがわかる。
 
 手前に拡がる水面は、流れが感じられずよどんでおり、どうやら川面を描写したのではなさそうだ。近くの泉が形成する、下落合界隈でもよく見られた湧水池のような風情だ。鈴木良三が描いた妙正寺川の流れClick!とは、また別の水面を描いたように思われる。このような想定をベースに、当時の地図を拡げてみると、葛ヶ谷の西、妙正寺川の北側にピッタリな描画ポイントを見つけることができる。確かに、井上円了の哲学堂はもうすぐそこだ。
 地形図を見ると、そこには妙正寺川に沿って大きな池が形成されていたのがわかる。少しばかり遠出をしても、いかにも釣り人たちが集まりそうな池だ。細長い池の中ほどには土橋がかかっていたらしく、この橋上から糸をたらす釣り人も多かったにちがいない。『落合風景』の描画ポイントも、土橋の上あたりにイーゼルを据え、南を向いて描いたものかもしれない。そう考えると、妙正寺川の小流れは、手前の広い水面のすぐ向こう側、画面が少し暗くなっているあたりを右手から左手へと流れ、前方の崖線に沿って流れ下っていく。崖は、遠くにいくにしたがって高くなっていくように描かれており、やがて下落合(中井)御霊神社のある崖下へとつづいているのだろう。
 この下流の一画、御霊神社の下あたりを、1926年(大正15)の秋と冬に佐伯祐三が描いているけれど(「洗濯物のある風景」Click!)、その時代からさらにさかのぼること9年、このあたりには家が1軒も見あたらない。まさに、武蔵野の風情がそのまま残る一帯だった。
 オリエンタル写真工業.jpg
 この大きな池は、大正期の地図には記載されているが、1930年(昭和5)の地図には埋め立てられたのか消えてしまっている。ただし、1936年(昭和11)現在の空中写真を見ると、池の中にあった2つの島の痕跡を、いまだはっきりと確認することができる。おそらく、農業の灌漑用にも使われていたと思われる池だが、農家の減少とともに埋め立てられたのだろう。
 葛ヶ谷のこのあたりが拓けはじめるのは、作品が描かれた翌々年、1919年(大正8)に創業した写真フィルムや印画紙を生産するオリエンタル写真工業(株)が、ちょうどこの池の北西部、葛ヶ谷御霊神社の前に工場を建設し操業を開始する1921年(大正10)ごろからのこと。住宅街が本格的に押し寄せてくるのは、戦後になってからのことだった。

■写真上は、1917年(大正6)に描かれた織田一磨の水彩画『落合風景』。描かれているのは落合村ではなく、妙正寺川が流れる葛ヶ谷(現・西落合)の一帯で、前方の崖上が下落合方面。は、池があったあたりの現状。グラウンドの向こう側に、妙正寺川が南東の方角へ流れくだっている。
■写真中は、1918年(大正7)の「早稲田・新井1/10,000地形図」にみる同地域。は、描画ポイントあたりの拡大。近くの光徳院は、以前にこちらでもご紹介Click!している。
■写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真。は、この池の北西にあったオリエンタル写真工業の第二工場。1932年(昭和7)の『落合町誌』より。
レンズ工場?.jpg


読んだ!(6)  コメント(10)  トラックバック(3) 
共通テーマ:アート

読んだ! 6

コメント 10

ChinchikoPapa

東京の森にシマフクロウ君がいると、だいぶカラスはおとなしいと思うのですが・・・。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-04-16 18:49) 

ChinchikoPapa

大正期から昭和初期の住宅地を調べてますと、築後わずか10年20年で惜しげもなく建て替えられている家が多いのに驚きます。代が変わる、住む人が変わるとすぐに建て替えということで、いまよりも消耗品だった感触と、「験直し」という感覚が強かったんじゃないかと思いますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-04-16 19:05) 

ChinchikoPapa

今世紀に入るころから矢野顕子のピアノが、段違いにうまくなりましたね。ビックリしました。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-04-16 19:18) 

ChinchikoPapa

みごとな枝垂れですね。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-04-17 00:06) 

エム

オリエンタルの建物、なんとなく記憶にあります。
門から建物まで大きな木が何本かあって鬱蒼とした感じだった
ように記憶しています。

池があったあたり、今はグラウンドに隣接した公園の部分のようですね。
今でも道路から階段を数段下ったところに公園があります。
昔は池だったんですね。


by エム (2008-04-17 15:21) 

ChinchikoPapa

エムさんご無沙汰です。コメントをありがとうございました。
そうなのです、ほんとはこのグラウンドの南東エリアから、公園のほうへ向けて撮影したほうが、より描画ポイントに近いと思うのですが、グラウンドは関係者以外立入禁止でした。(^^
ここに池があったのは、妙正寺川の流れによって形成されたのではなく、葛ヶ谷の崖線からやはり泉がいくつも湧いていて形成されたように思います。いまでも、ひょっとすると暗渠化されて、このグラウンドや公園の下を流れているのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2008-04-17 15:59) 

ChinchikoPapa

書き忘れました。オリエンタル写真工業(上の写真は第1工場)の近くに、「写真学校」や「レンズ工場」があって、大きな西洋館が建っていた写真が残っていますけれど、歩かれた当時、ご記憶がありますか?
by ChinchikoPapa (2008-04-17 16:03) 

ChinchikoPapa

東京でも、「どんど焼き」は昔から盛んですね。鉄板の上にキャベツなどが盛り上がっている様子が似ているから、「お好み焼き」のことを下町方言で「どんど焼き」というのだと思います。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-04-17 16:06) 

エム

写真学校やレンズ工場は今サッカーグラウンドになっているあたりにあったの
でしょうか?建物の記憶は残念ながらありません。
あのあたりはクルマかバスで通り過ぎることが多かったので、じっくり周りを
眺めながら歩いたことはないんです。

by エム (2008-04-21 11:22) 

ChinchikoPapa

エムさん、コメントをありがとうございます。
記事末に、当該の写真をアップいたしました。第1工場のおそらく東南側に建っていた建物で、レンズ工場の一部が写っているのではないかと想像しているのですが・・・。ご記憶でしたら、お知らせください。
by ChinchikoPapa (2008-04-21 15:18) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 3

トラックバックの受付は締め切りました