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“般若”の有田八郎vs三島由紀夫。(下) [気になる下落合]

有田邸跡.jpg
 『宴のあと』Click!には、1960年(昭和35)当時の「野口邸」のあった「椎名町」の描写(実は元住居のあった下落合界隈と思われる描写)が出てくる。同作から、2箇所ほどを引用してみよう。
  
 野口は椎名町の古い家に一人で住んでをり、世話をしてゐるのは中年の醜い女中であつたので、かづは安心した。(中略)野口の家を訪れるたびに、かつて野口のシャツの汚れやすりきれた袖口が気になつたやうに、左右が不均整になつた門扉や、ちりちりにけば立つて埃にまみれた木造の洋館のペンキや門内の銭苔や、壊れたままになつてゐる玄関のベルが気にかかる。(略)/野口の永い含嗽の音のあひだに、ときどき庭の梢にもつれる夜の蝉の囀りをきくことがある。それはつつと夜気を鋭い針で縫ふやうにきかれるが、短い末尾は必ずもつれて、夜の静けさの中へ吸はれてしまふ。このあたりの夜は本当に静かである。遠くで車がとまつて、酔つた声がきこえることもあるが、それも車の立去る唸りと共に消えてしまふ。
  
 小説の詳細な記述を、三島はどこで取材したのかといえば、当の有田八郎へのインタビューも含まれていたのではないかと思われる。2001年に出版された『決定版 三島由紀夫全集/第8巻』(新潮社)の巻末には、有田本人へ取材したと思われる内容を含む、詳細な取材メモ(創作ノート)までが収録されている。そこでは、本人あるいはごく親しい親族、さらに選挙のエピソード関連については選挙参謀しか知りえないような個人情報が、びっしりと書きこまれている。
三島由紀夫全集.jpg 三島原稿メモ.jpg
 都知事選に出馬した有田の家には、当時の社会党の鈴木茂三郎や浅沼稲次郎、佐々木更三らが相次いで訪問していた。新潟出身の有田が、なぜ東京都知事選に出る気になったのかは、小説では詳しく触れられてはいない。有田は、とうに政治の舞台から引退したと思っていたらしいが、社会党の都知事選の候補者が公示2ヶ月前になっても見つからず、また有名料亭を経営する妻の女将が夫をもう一度要職へ就けたがっていた・・・という“利害”が一致して、有田を猛烈に口説いたような気配が、詳細な取材メモからもうかがえる。
 保守陣営のご用達で、白金台に3,000坪の広さを誇った割烹料亭「般若苑」(小説では「雪後庵」)の女将・畔上輝井が、社会党の有田八郎の妻になると、保守系の代議士や金まわりのいい利用客は櫛の歯が抜けるように減っていった。そのときの夫妻の様子を、『決定版 三島由紀夫全集/第8巻』掲載の、三島が記録した取材メモから引用してみよう。
  
 先生は小森氏と一週一回勉強するだけ。/般若苑の客一人一人へる。/大野伴睦ら。林譲治ら。奥さんから金貰ふ。/労組が、般若苑を使ひ300円会費で宴会やりはじめる・客種落ちる。そのニュース 有田氏の耳に入る。/前の選挙で正々堂々戦つて来てゐる。女房が苦々しい。奥さんを呼びつけてはどやす。文字通り擲り合ひ。奥さん泣く。
  
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を見ると、近衛町の下落合426(427)番地にはすでに「有田」の名前が見える。また、1936年(昭和11)に撮影された陸軍の空中写真、および1938年(昭和13)制作の「火保図」にも、ちょうど広田内閣や第1次近衛内閣の外相をつとめていた時代の大きな有田の屋敷を確認することができる。そして、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲では、隣家までが焼けたが有田邸はかろうじて焼け残っているのが確認できる。これが、三島の表現した手入れの行きとどかない“野口”の「洋館」モデルとなったものだろう。
記事のアップ当初は有田邸は戦災で焼けたと書いたけれど、わたしの空中写真の区画特定ミスに気がついた。有田邸の東隣りまでは焼けているが、邸はかろうじて焼け残っている。
有田邸火保図.jpg 有田八郎邸1947.JPG
 外相時代の有田は、欧米協調派の考え方とは異なり、近衛内閣時代は「東亜新秩序」を口にしたものの日独伊三国軍事同盟の締結には一貫して反対し、テロを覚悟のうえで陸軍や右翼らの暴走にブレーキをかけつづけたことは銘記されていいように思う。
 東京地裁の判決後、有田が死去したのち、三島は「『宴のあと』事件の終末」と題する一文を、1966年(昭和41)11月28日の「毎日新聞」夕刊に寄せている。
  
 われわれはプライバシーの権利を重んずべきことについて、係争中、異を唱へたことは一度もなかつた。しかし、日本最初のプライバシー裁判としては「宴のあと」事件は、まことに不適切な、不幸な事件であつた。/もしこれが、市井の一私人が、低俗な言論の暴力によつて私事をあばかれたケースであつたとしたら、プライバシーなる新しい法理念は、どんなに明確な形で人々の心にしみ入り、かつ法理論的に健全な育成を見たことであらう。原告被告双方にとつて、この事件はプライバシーの権利なるものを、社会的名声と私事、芸術作品の文化財的価値とその批評的側面などの、さまざまな微妙な領域の諸問題へまぎれ込ませてしまつた不幸な事件であつたといふ他はない。
  
般若苑1.jpg 般若苑2.jpg
 さて、小説『宴のあと』では、選挙に敗れた“野口”は椎名町の土地と邸宅を売って、西武新宿線沿線の花小金井へと逼塞(実際の有田は早くから西武池袋線先の埼玉県豊岡町へ転居)、ゆっくりと老後の引退生活をする決意をするのだけれど、妻の“かづ”は「雪後庵」をあきらめ切れなかった。膨大な借金の抵当に入った3,000坪の料亭を再建するため、奉加帳を作って真っ先に駆けつけたのは、戦後に何度も組閣して首相をつとめ、鎌倉へ引退はしたものの与党内へ隠然たる影響力をもったままの“沢村尹”のところだった。もちろん、政治から引退した「鎌倉の沢村」とは、大磯Click!の城山公園(三井別邸)近くに住む吉田茂Click!のことだ。
 女将の畔上輝井は、その後も料亭を経営しつづけた。彼女の死後も、数年前に解体・移築されるまで、「般若庵」は白金台の畠山記念館にその面影をとどめていた。

■写真上:下落合の有田邸跡の現状で、しばらく前から低層マンションとなっている。
■写真中上は、『決定版 三島由紀夫全集/第8巻』(新潮社・2001年)。は、創作ノートの取材メモから起こしたらしい、『宴のあと』のプロットを書きなぐった原稿メモ。
■写真中下は、1938年(昭和13)制作の「火保図」にみる下落合426(427)番地の有田邸。は、1947年(昭和22)に上空から撮影された有田邸で三島も目にしていると思われる。
■写真下:数年前まで営業をつづけていた、白金台の料亭「般若苑」。お昼のランチが5名様以上で各20,000円~という、わたしにはまったく縁もゆかりもない東京の「食いもん屋」だった。


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ChinchikoPapa

モズクガニのこと初めて知りました。地元の「うまいもん」なんですね。一度、味わってみたいものです。nice!をありがとうございました。>yamagatnさん
by ChinchikoPapa (2008-11-04 12:24) 

ChinchikoPapa

スーパーなどで買うサケの切身は甘塩で、茶漬けにしてもうまくありません。昔ながらの塩鮭は、いまや貴重品なのでしょうか。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-11-04 12:30) 

ChinchikoPapa

ミンガスの曲にも、どこか柑橘系のすっぱさを感じることがあります。わたしは、秋刀魚には真っ青なスダチです。^^ nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-11-04 12:58) 

ChinchikoPapa

昔、庭でよく咲いていたのがマリーゴールドでした。懐かしい花ですね。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-11-04 19:45) 

ChinchikoPapa

ナンチャン・マンニャンの風邪、心配ですね。おだいじに。
nice!をありがとうございました。>パルの大冒険さん
by ChinchikoPapa (2008-11-05 14:04) 

ChinchikoPapa

色づきはじめる木々の葉を通じて、季節のうつろいを実感できる時間がすぎていきますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-11-05 23:27) 

ChinchikoPapa

わたしも関東や北陸、米どころ東北の日本酒しか味わってこなかったのに気づきます。nice!をありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2015-02-05 15:56) 

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