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落合地域と人が重なる菊富士ホテル。 [気になる下落合]

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 1974年(昭和49)に講談社から出版された近藤富枝『本郷菊富士ホテル』を読んでいて、落合地域に去来した人物たちと重なることが多いことに気づいた。それらの人々の中には、落合地域やその周辺域に住まいをかまえたあと、菊富士ホテルへ滞在している人物もいれば、同ホテルへ滞在したのちに落合地域へと移り住んだ人物、落合地域の友人・知人宅へ頻繁に顔を見せていた人たち、そして落合地域から菊富士ホテルに住む知人宅へ通っていた人物など、実にさまざまだ。
 菊富士ホテルは、江戸期には本妙寺境内だった敷地の一部に建てられている。本妙寺といえば、1657年(明暦3)に発生した明暦大火(振袖火事)Click!の「火元」として有名だが、最新の研究では同寺に隣接していた老中・阿部伊予守の屋敷からの出火説が有力で、それを本妙寺で起きたとされる架空の「怪談話」にかぶせて責任を回避した(本妙寺の怪しいエピソードで火元をかぶってもらい、少なからぬ寄進を270年後の1920年代までつづけた)というのが、当の阿部家の子孫による証言や資料などで定説に近くなっている。巣鴨に移転した本妙寺も、戦後に何度か取材を受け記者会見まで開いて、自坊が「火元」ではないことを訴え、阿部家の証言を支持している。
 さて、菊富士ホテルの前身は、1896年(明治29)に本郷菊坂町16番地に建設された、和館2階建ての菊富士楼という学生下宿だった。つづいて、1907年(明治43)に本郷菊坂町82番地に、和館3階建ての菊富士楼「別館」が建設され、つづけて1914年(大正3)に同敷地へ和洋折衷の意匠で3階建ての「新館」が建てられ、この新館と別館が連結された建築を総称して、同年に「菊富士ホテル」と名づけられている。
 菊富士ホテルを経営していたのは、1895年(明治28)に岐阜県から東京へとやってきた羽根田幸之助・きくえ夫妻だった。先に同ホテルの新館を3階建てと書いたが、西側はバッケ(崖地)Click!になっていて地下の食堂部には南西向きの窓があり、3階の上階にはまるでペントハウスを思わせる「塔ノ部屋」と呼ばれた1室があったため、西側から眺めると実質5階建ての建築に見えたようだ。(なんだか一種住専で建築基準法をごまかし、5階建てを3階建てと強弁するマンション計画のようだがw) 当初は東京帝大に勤務する外国人や、訪日して滞在する外国人をターゲットにしていたが、大正期も半ばになると日本人の滞在者がほとんどになっている。
 早くから菊富士ホテルに住んでいた人物に、大杉栄と伊藤野枝Click!がいる。ふたりは、ちょうど神近市子Click!を含めた三角関係の日蔭茶屋事件が起きた、1916年(大正5)の秋に同ホテルへ入居した。関東大震災が発生したとき、大杉と伊藤は上落合のすぐ南にあたる淀橋町柏木371番地に住んでいたが、神近市子は1930年(昭和5)ごろから上落合469番地、つづけて上落合1丁目476番地に住んでいる。また、伊藤野枝の元夫である辻潤Click!もまた、1920年(大正9)ごろから上落合503番地の妹の家に寄宿しており、離婚したあとも大杉栄は伊藤野枝をともない、彼のもとを訪問していたとみられる。ちなみに、辻潤は1944年(昭和19)11月に、上落合1丁目308番地のアパート「静怡寮」Click!で死去し、大杉栄と伊藤野枝の遺体が焼かれた落合火葬場Click!で灰になっている。
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近藤富枝「本郷菊富士ホテル」1974.jpg 菊富士ホテル新館玄関.jpg
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 拙サイトでは安倍能成Click!との交遊や、『文楽首の研究』Click!(アトリエ社)などへ顔を出している谷崎潤一郎も、1918年(大正7)から翌年まで断続的に菊富士ホテルへ滞在している。また、同年の11月には、最愛の笠井彦乃Click!が肺結核で入院し、仲を引き裂かれた傷心の竹久夢二Click!が入居した。1915年(大正4)に、竣工したばかりの相馬孟胤邸Click!の西側、下落合370番地に夢二がアトリエをかまえていた時期、すなわち婦人之友社でAD(アートディレクター)を手がけていたころから、わずか3年後のことだ。下落合や雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)にいたころの夢二が恋の絶頂期だとすれば、菊富士ホテルに滞在していた2年間は、まさに彦乃を失った絶望で精神的にもどん底だっただろう。
 菊富士ホテルにおける夢二の様子を、前掲書から少し引用してみよう。
  
 夢二の菊富士生活は、一種のパニック状態ではじまったため、何もかも気に入らないことばかりだった。「何々県人何某」と入口に名札を出している部屋を「この田舎者奴が」と軽蔑の目で眺め、食堂へ出ればインド人や中国人や学生などと並んで食事をすることに神経を逆撫でされるような嫌悪を感じた。味噌汁まで「薄情な味噌汁だ」と罵らずにはいられない。もちろん画など一枚もかけはしなかった。/そこで朝はパンとコーヒーにサージン、夜はすき焼きなどを、不二彦とともに自室でとることにした。というのも彦乃の面影がちらつき、理不尽な別れ方をしたことへの悲しみが日夜夢二を責めさいなんで、食堂などへ出る心境にならなかったからである。
  
 夢二は、笠井彦乃が入院する病院で「村正」の短刀をふりまわして、彦乃の父親と取っ組み合いのケンカをし、病院の階段を転げ落ちたことになっているけれど、どこまでが創作でどこまでが事実なのかは不明だ。
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 下落合の吉屋信子邸Click!林芙美子邸Click!などへ、頻繁に顔を見せていた宇野千代Click!もまた、1922年(大正11)に菊富士ホテルへ尾崎士郎とともに滞在している。このあと、ふたりはホテルを出て大森の馬込村Click!に家庭をもったが、7年後に宇野が「人に好かれ過ぎるというのが、唯一の欠点のような男でした」と、未練のあるらしい総括をして離婚している。
 このサイトでは、大磯とのからみで登場することが多い高田保Click!も、1923年(大正12)と1927年(昭和2)の二度にわたり滞在している。高田保は新館の2階に住み、ときおり本妙寺坂沿いに建っていた岡田三郎助Click!の女子美術学校や、ホテル北側に面した菊ノ湯の脱衣場を、宇野浩二とともに性能のいい軍用望遠鏡でのぞいていた。高田が望遠鏡をのぞいていると、女子美術学校からは鏡に太陽を反射させて彼の顔をねらう女子学生たちの“反撃”が、ときおり行われていたという。
 さて、下落合や長崎に住み1930年協会の前田寛治Click!の友人だった福本和夫Click!も、1926年(大正15)6月から12月までの半年間を菊富士ホテルですごしている。ちょうど、前田寛治が下落合1560番地のアトリエClick!で暮らしたあと、下落合661番地の佐伯祐三Click!アトリエに寄宿していたころと重なっている。そして、1926年(大正15)12月に、佐伯アトリエから目白通りの北側、すなわち長崎町大和田1942番地の家へ転居すると、なぜか玄関に「前田寛治」と並んで「福本和夫」の表札を堂々と掲げている。その後、特高Click!に逮捕されるきっかけとなったエピソードだが、前田寛治は長崎のアトリエで福本といっしょに住んでいたわけではなく、立ち寄り先のアジトのひとつとして、家を提供していたのだろう。同書より、再び引用してみよう。
  
 この年の秋、福本は党の国会請願運動に加わった嫌疑で本富士署に留置された。刑事によって福本の部屋が捜索されたが、このときその机の曳き出しに、七千円記入の預金帳が無造作に放りこまれてあり、立会いの菊富士ホテルの長男富士雄と刑事は顔を見合わせて驚いた。多分現在の一千万円ぐらいにも相当するだろう。このときは証拠不十分で、二、三日で釈放された。
  
 1930年(昭和5)11月になると、翌1931年(昭和6)にかけて宮本百合子(中條百合子)Click!湯浅芳子Click!が菊富士ホテルに滞在している。ふたりが別れたあとも、湯浅芳子は1932年(昭和7)から翌年にかけ、また1936年(昭和11)と頻繁に同ホテルを利用していた。宮本百合子は1934年(昭和9)に、上落合2丁目740番地に建っていた坂上の借家Click!へ転居してくるが、翌1935年(昭和10)5月に淀橋署に逮捕されている。釈放後に住んだのは、下落合のすぐ北側にあたる目白町3丁目3570番地の、彼女が獄中の宮本顕示にあてた手紙によれば「小さい、だがしっかりした家」だった。
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 さて、1936年(昭和11)3月になると、菊富士ホテルに坂口安吾が転居してくる。同ホテルから、坂口は下落合4丁目1986番地の自宅Click!にいる矢田津世子Click!あてに、せっせと手紙を書いていた。矢田津世子Click!もまた、ときおり菊富士ホテルの彼の部屋へ顔を見せにくるのだけれど、彼女と「風博士」のエピソードは、また、別の物語……。

◆写真上:本妙寺坂から入った、本郷菊坂町82番地(現・本郷5丁目)の菊富士ホテル跡。
◆写真中上は、1914年(大正3)に竣工した和洋折衷の新館。中左は、1974年(昭和49)出版の近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(講談社)。中右は、菊富士ホテルの玄関(新館)。は、1924年(大正13)の市街地図にみる菊富士ホテルとその周辺。近藤富枝の著書では「佐藤高女」とされているが、佐藤高等女学校は女子美内の付属校なので女子美術学校そのもののことだ。大正末には、女子美の北に「工科学校」が採取されている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる菊富士ホテル。ちょうど坂口安吾がいたころで、本妙寺坂沿いには女子美術学校の校舎が見える。は、本妙寺坂の現状で右手の茶色いマンションが女子美跡。は、1916年(大正5)から翌年にかけて滞在した大杉栄()と、1918年(大正7)から息子とともに3年間滞在した竹久夢二()。
◆写真下は、1926年(大正15)に滞在した福本和夫()と、1930年(昭和5)から翌年にかけて滞在した中條百合子(宮本百合子/)。は、本妙寺坂から菊富士ホテル跡(正面)を眺めたところ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる菊富士ホテルの焼け跡。1944年(昭和19)3月にホテルは廃業し、すでに旭電化へ売却されていた。

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10銭でできる手製料理の味は? [気になる下落合]

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 下落合1731番地に住んだ武者小路実篤Click!だが、愛人である小説家の真杉静枝Click!は下落合に住む辻山春子Click!林芙美子Click!、上落合の大田洋子Click!らと誘いあっては下落合2108番地の吉屋信子邸Click!を訪問していた。そんな真杉静枝が、宇野千代Click!松井直樹Click!が編集する『スタイル』に、10銭でできる料理を紹介している。
 かなり以前、10銭でできる手製料理として、黒田初子Click!の「イクラのカナツペ」を紹介Click!しているが、真杉静枝の10銭手料理もそのシリーズのひとつだ。「私の十センお手製料理」と題された記事には、「十銭玉一つでこんなにおいしい御料理が食べられるとは――これこそ洒落た国策料理」というリードがついている。10銭の手料理が「国策料理」になるとは思えないが、「スタイル」という英語の雑誌名への風当たりが強くなっていた日米開戦の直前、せめてもの協力姿勢を見せた表現なのだろう。
 1940年(昭和15)前後の10銭は、現在の200~300円ほどの価値になるだろうか。100円よりは、少し価値が高そうに思う。母親が遊びにいくため、親父が小学生のときに毎日もらっていた50銭Click!銀貨の価値の、およそ4分の1から5分の1の価値まで下がっていただろう。今日でいうと、100円玉が2~3枚でできる料理というような感覚だろうか。さっそく、真杉静枝の手料理レシピを引用してみよう。
  
 栗飯  真杉静枝
 栗…五十匁・十セン・二人前/鰯…四匹・八セン・二人前/大根一本…二セン・二人前/栗飯には、鰹節のダシと味の素を入れて美味しく煮あげます。鰯を食べる直前に片栗粉をまぶして強火のラードでからりと、あげまして、生姜を入れた醤油でいただきます。/他に大根おろしを味の素とまぜて美味しくして出します。
  
 わたしとしては、栗飯にはできれば塩とみりんか酒を少し入れるだけにして炊き、鰹節などは入れず栗の甘さと香りだけにしてほしい。ましてや、「味の素」(グルタミン酸ナトリウム)などもってのほかで、雑味が増して舌が刺激的にピリピリするだけだ。
 大根おろしにも味の素など不要だし、ダシ入りが地域の味(真杉は福井出身)だというのなら、大根を半分(1銭分)だけ買い、あとは昆布と鰹節(1銭分)を煮詰めて、ちゃんとした本物のダシを混ぜてほしい。ひと手間多くかかるのかもしれないが、味の素の刺激味がしたらせっかくの料理が台なしだ。
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 ちょっと余談だが、最近の納豆には「ダシ」と称する小袋がついているのだけれど、あれはいったいなんのつもりなのだろうか? カラシやワサビ(黒豆納豆)の添付はわかるが、納豆には高品質の生醤油が相場であり、せっかく大豆が発酵した納豆ならではの香ばしい風味が、ダシの雑味でうまさ半減だ。納豆が苦手な人向けの、ささやかな“おまけ”なのだろうか? 納豆の持つ力強い風味が美味なのであって、鰹節や昆布のダシなどまったく不要でお呼びでない。
 さて、こちらでも大磯Click!とのからみや佐々木孝丸Click!の記事などで何度かご紹介している、劇作家でエッセイストの高田保Click!だが、料理と呼べるのかどうかさえわからない、奇抜で面白い「手製料理」を紹介している。
  
 大根おろし  高田保
 大根の皮、剥いても、剥かないでもよろし、おろしにかけ、汁は絞つても絞らないでもよろし。醤油をほどよくかけて食します。/世に「大根おろし」とか云ふよし。小生の家代々つたはる妙味にて候。滋養もあり、かたがた十センあれば随分食べられる。食べれば食べる程、腹がヘル。
  
 なんだか、胃腸の消化剤(ジアスターゼ=アミラーゼ)を飲むような、あまり手間のかからない腕力だけの「料理」だが、真杉静枝の文章にもあるように当時は2銭で大根が1本買えたようだから、大根を5本摺りおろして食べることになる。
 さすが、一度にそれほど食べれば消化器系を傷めると思うのだが、大根おろし好きにはたまらないのだろう。高田保は、もともと胃腸が弱かったのかもしれない。わたしも、大根おろしにかけるのは生醤油のほかには考えられないが、身体を温めるのであれば薬研(七色唐辛子)をほんの少し、ふりかけてもいいのかもしれない。
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 そもそも、この料理記事を企画したのであろう、宇野千代が紹介する手製料理はちょっとズルイ。10銭が条件の手製料理のはずだが、やたらお勝手の“余りもの”の材料を利用することになっている。そして、江戸東京地方だと風邪などの病気のとき以外はまず口にしない、雑炊(おじや)Click!のレシピを紹介している。
  
 ごもく雑炊  宇野千代
 ネギの青いところ(〇セン)/大根のシツポ(〇セン)/人参のシツポ(〇セン)/その他何でもお野菜の残りを小さく刻んで、オアゲ(三セン)/カツブシ(三セン)/昼間のお肉(何肉でもよし)の残つたの一キレ(〇セン)/ゴハンの残つたの(〇セン)/お肉もおあげも小さく刻んで、カツブシのおだしをたつぷりとり、ゴハンと野菜のミジンを一緒に入れ、ちよつと火にかけて、塩、酒(小サジ一パイ)醤油一滴で味をつけ、熱い中にフウフウ吹き乍らタベます。寒い冬の朝、夜、こんなオイシイものはありません。
  
 おそらくこの雑炊(おじや)を調理するには、実質20銭以上はかかっているのではないだろうか。そんなに都合よく大根や長ネギ、人参のシッポがあるはずなく、ましてや肉やご飯の残りもタイミングよくそろっていそうもないので、これらの費用に油揚げと鰹節の6銭を加えると、ゆうに20銭は超えていると思われる。(肉の種類にもよるが当時は現代とはちがい、少量の肉だけでも10銭は軽く超えただろう)
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 そのほか、女優の水戸光子Click!が「魚のカレー粉まぶし」のレシピを紹介している。鰯でも秋刀魚でも、10銭以内で数尾手に入る魚を買ってきて、メリケン粉にカレー粉を混ぜたものをまぶし、フライパンで油炒めをして食べるというレシピだ。調味料は、塩とも醤油、ソースとも書いてないが、魚丸ごとでも、骨や内臓を抜いた魚の身だけでも香ばしく焼けば、これは現代でも通用しそうな、秋の食卓にのぼる家庭料理の1品だろう。

◆写真上:ほぼ毎日、刻んだ長ネギと生醤油で食べる発酵食の水戸納豆。余談だが、このごろ納豆を購入すると「ダシ」(カツオと昆布??)と称するおかしなものが付いている。納豆には質のいい本醸造の生醤油が最適であり、発酵した大豆のいい風味を根底から台なしにする「ダシ」の雑味などお呼びでない。
◆写真中上は、ときどき力みすぎて指までおろして痛い思いをする大根おろし。は、小説家の真杉静枝()と劇作家で随筆家の高田保()。
◆写真中下は、発熱する風邪には定番の雑炊(おじや)。下左は、1941年(昭和16)に発行された「スタイル」3月号の表紙。下右は、編集責任者の宇野千代。
◆写真下:「スタイル」に掲載された、5人の「私の十センお手製料理」記事。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(4) [気になるエトセトラ]

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 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!では、混乱のどさくさにまぎれてアナキストや社会主義者、労働組合の活動家が、つまり政府に反対する思想をもった人々が、憲兵隊や警察の手で次々と虐殺されている。甘粕事件(大杉事件)や亀戸事件などが、その代表的なものだが、震災後に出版されたグラフ誌や写真集Click!の中で、これらの事件に直面し大正デモクラシーへの強い危機感をおぼえ、いち早く大々的に取り上げているのが小石川区大塚仲町にあった歴史写真会だ。同会が、1923年(大正12)11月1日に出版した『歴史写真/関東大震大火記念号』では、甘粕事件(大杉事件)をめずらしい写真とともに報道している。
 なぜ歴史写真会が、甘粕事件をことさら重大視したのかといえば、アナキストの大杉栄Click!をはじめ社会主義者の堺利彦Click!、民本主義者の吉野作造Click!や大山郁夫らを殺害する目的をもった憲兵隊が、思想的な対立軸(=主敵)には直接規定していない妻の伊藤野枝と、無関係な甥の橘宗一(7歳)までを、のちの事件発覚や証言を怖れて「ついでに」殺害し、行方不明を装うために姑息にも死体を隠ぺいしているからだ。
 つまり、思想的な対立者と規定して「敵」の主体を意識的に「抹殺」するのではなく、無関係な人間をいともたやすく虐殺する、単なる愚劣な人殺しにすぎないと位置づけたからだろう。そこには、政治的理念による対立軸がすでにブレにブレて、思想的な荒廃や腐敗が進んだ、もはや一般の刑事事件と同レベルの単なる感情的な人殺しの腐臭のみが漂う、甘粕正彦とその部下たちの姿を見たからだ。
 日本史上で、初めて思想的な対立をもっともらしく「理由」に掲げながら、まったく関係のない市民を次々と虐殺していったのは、「尊王攘夷」思想のもとで幕末の大江戸Click!の市民の間に世情不安や混乱(パニック)を起こそうと、示現流Click!による辻斬りや火付け盗賊を繰り返していた、薩摩藩の益満休之助Click!と数百名(一説では500名を組織化した)にのぼるといわれる薩摩の人殺し集団だ。特に、市中で暮らす女性や子どもたちを辻斬りで無差別に虐殺したり、街角の商家へ押し入り強盗や殺戮のあげく火付けをしてまわったのは、ちょうどアルカイダやIS(イスラム国)による市民虐殺、あるいはオウム真理教による地下鉄サリン事件とまったく同レベルの手口であり、曽々祖父の時代からわたしの世代までいまだに許容できない、この街の歴史のひとつだ。
 「尊王攘夷」派を徹底して弾圧した大老・井伊直弼が、登城途中の桜田門外Click!で水戸浪士たちなどに襲われ暗殺されたのは、その思想的な対立の背景から彼が“首謀者”と主体の規定がなされているので、まだなんとか“理解”することができる。赤穂浪士が、幕府の法治下における幕閣裁定に不満をおぼえ、吉良邸へ討ち入り吉良義央Click!と抵抗する家臣たちを殺害したのも、心情的にはかろうじてだが“理解”できる。
 だが、アルカイダが直接なんの関係もない市民が乗る飛行機をジャックし、ワールドトレードセンターへ突っこんでジェノサイド(機内にもビル内にも外国人や、米国のアフガニスタンへの軍事介入に反対していた米国市民たちもいただろう)を行なったのと同レベルで、あるいはオウム真理教が地下鉄で行った愚劣な所業と同列に、薩摩藩が敵対する主体や組織をまったく規定しえず、ただ単に混乱を引き起こすためだけを目的とし、「武士道」とも無縁な思想的荒廃・腐敗による大江戸市民への無差別虐殺は、まったく理解することも許容することもできない。特に、辻斬りでねらわれ殺されたのが、ほとんど無抵抗な市井の女性や子どもたちだったことが、よけいに勘弁ならないのだ。
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 おそらく、歴史写真会の編集部にも甘粕事件(大杉事件)の相貌に、幕末の薩摩と同様の思想的腐臭を強くかぎとった人物がいたのだろう。以下、同誌から引用してみよう。
  
 無政府主義者の一巨頭大杉栄は大正十二年九月十六日内縁の妻伊藤野枝と共に神奈川鶴見在の実弟を訪問し実妹の長男橘宗一(七ツ)を伴ひ其の夕方東京市外淀橋町柏木なる自宅に立帰らんとする途中、予て大杉の主義と言動とを憎悪し邦家の為め是を葬り去らんと企てゐたる麹町憲兵分隊長大尉甘粕正彦等の為め三人共麹町区大手町憲兵司令部に検束せられ、その夜八時半頃司令部応接室に於て大杉は甘粕大尉の為め柔道の手を以て突如咽喉部を絞められて悶死し続いて午後九時二十分頃妻野枝は東京憲兵隊隊長室に於て同大尉の為めに絞殺せられ、同時に少年宗一は鴨志田憲兵上等兵等に依て是又絞殺され三人の屍骸は司令部構内の古井戸に投げ込まれた。事件発覚と共に甘粕大尉等は第一師団の軍法会議公判に付せられ審判せらるゝことになつた。
  
 このあと、3人の遺体を裸にして菰包みにし、司令部の敷地内にあった古井戸へ夜陰にまぎれて投げこみ、上から馬糞やレンガを投げ入れて埋め立て、あたかも震災で崩れたように見せかける、巧妙な死体遺棄の組織的な隠ぺい工作を行っている。冒頭の写真は、死体が隠されていた井戸を写したもので、中央部の崩れた小屋根とともにレンガが積み上げられている位置が、3人が投げこまれた古井戸だ。
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 つづけて、『歴史写真/関東大震大火記念号』から引用してみよう。
  
 九月十六日の夜甘粕憲兵大尉が大杉栄及び其妻伊藤野枝を絞殺するや少年橘宗一の屍体と共に三個の遺体を真裸にして菰包みとなし部下の森曹長、鴨志田、本多両上等兵に手伝はせて其夜深更是を司令部構内の古井戸に投入し、九月一日の震災に依り崩潰した附近建物の煉瓦其他を集めて井戸を埋め巧みに是を隠蔽したのである。
  
 古井戸から掘り出された3人の遺体は、検視のあとそれぞれ名前を墨書きした棺に入れられ、9月25日に上落合の落合火葬場Click!に運ばれて荼毘にふされた。
 そして、10月8日から青山の第一師団軍法会議新館法廷で第1回公判が開かれ、甘粕正彦は取り調べの際の供述をひるがえし、橘宗一の殺害をめぐる責任を否定(つまり部下が勝手に忖度して殺したことに)しているが、3名の殺害に関する上層部からの指示の有無については、ついに審議されることはなかった。12月8日の判決では、殺人主犯の甘粕に懲役10年(実際は3年弱で出所)、殺人幇助の森慶次郎に懲役3年、「命令に従っただけ」の鴨志田安五郎と本多重雄らは無罪をいいわたされている。
 甘粕事件(大杉事件)をめぐり、欧米諸国が同事件へ関心を寄せていたのかがわかる外交文書が、国立公文書館に残されている。各国在任の大使や公使、領事などへ同事件についての問い合わせが多かったらしく、外務省へ詳細を知らせるよう問い合わせが相次いでいたようだ。外務省では、事件発生の経緯から甘粕正彦らが取り調べに対して供述した内容、軍法会議での審議の様子などをレポートにして各国へ打電している。つまり、同事件は海外から日本というアジアの「新興国家」を評価する、ひとつのバロメーターとして作用していた様子がうかがえるのだ。
 甘粕事件(大杉事件)に関して、婦人之友社Click!が行った洋画家・長沼智恵子Click!への取材記録が残っている。「他人の生命に手をかけるなんて、何という醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です」と、その答えは憤怒に満ちていた。
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 『歴史写真/関東大震大火記念号』は、1923年(大正12)11月1日に発行されているにもかかわらず、9月3日から5日にかけて起きた亀戸事件に関する写真報道がない。亀戸警察署に連行された社会主義者や労働組合の活動家ら計10名が、同署内あるいは荒川放水路で次々と刺殺あるいは斬殺された、より規模の大きな虐殺だが、事件の隠ぺいがつづきようやく発覚したのが10月10日と遅く、グラフ誌の編集に間に合わなかったのかもしれない。同事件は、関東大震災のどさくさにまぎれ亀戸警察署や習志野騎兵第13連隊の殺人犯たちは、追及されることなく不問にふされた。
                                <つづく>

◆写真上:3人が裸で投げこまれていた、遺体発掘直後の憲兵隊司令部の古井戸。
◆写真中上は、1923年(大正12)7月28日に銀座の「カフェ・パウリスタ」Click!で開かれた渡仏していた大杉栄の帰朝歓迎会で、手前右が大杉栄で左が伊藤野枝。は、同年8月に労働問題の講演会に出席した大杉栄(前列右)。下左は、同年1月の渡仏直前とみられる大杉栄。下右は、同年撮影の伊藤野枝と大杉栄の娘・魔子。
◆写真中下は、同年10月8日に開かれた軍法会議公判の様子。被告席に立つのは、甘粕正彦(手前)と森慶次郎(奥)。は、外務省から欧米各国の大使や公使、領事あてに打電された甘粕事件の経緯を報告するレポート電文の一部。
◆写真下は、同年9月25日に上落合の落合火葬場へ到着した遺体。杉材の棺には、墨書きで「宗ちやん」「栄」「野枝さん」と書かれている。は、左から右へ殺害された大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の3人。最後の写真4点は、いずれも東京朝日新聞より。

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新しがり村山籌子の上落合生活。 [気になる下落合]

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 上落合(1丁目)186番地のアトリエで、村山知義Click!と暮らしていた村山籌子Click!は、無類の新しもの好きだったようだ。その新しもの好きは、単に最先端の舶来品である生活家電が輸入されたから、さっそく自分も試してみたい……というような流行を追いかけるのではなく、それらの機器を導入することによって、主婦の労働負荷がどれだけ軽減され、効率的な生活が送れるかの1点のみに関心があったようだ。
 自身も童話作家だった村山籌子は、家事の合い間に仕事をするというのではなく、あくまでも仕事が主体であり、その合い間に家事をこなすという生活が理想だったようだ。当時、欧米から輸入された最先端の生活家電は、ちょっとした小さな家なら建てられるほど高価な製品が多かった。こちらでも、そのような家電に給料の多くをつぎ込んでいた、早稲田大学教授・山本忠興Click!「電気の家」Click!をご紹介している。ガス管の敷設が遅れた下落合(現・中落合/中井含む)の西部、目白文化村Click!アビラ村Click!の屋敷では、電気レンジや電気オーブン、電気ストーブが導入されたが、それらは目の玉が飛び出るほど高かった。
 たとえば、米国ウェスチングハウス社製の電気オーブンや電気レンジは、大正後期の価格で650円もしている。大正の前期、中村彝アトリエClick!の建設費は600円であり、佐伯祐三Click!が1927年(昭和2)に日本からシベリア鉄道でパリへ出かけ、一家で当座の生活ができる金額のめやすが600円だった。当時の最先端技術を装備した輸入家電が、いかに高価だったかがうかがわれる。
 2001年(平成13)にJULA出版局から刊行された、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
  
 とにかく母は無類の新し物好きであった。父に臨時収入があると、パン焼き器、電気掃除機、電気洗濯機、電気冷蔵庫など、すべて外国物で、日比谷のマツダデンキという輸入品専門店で買ってくるのであった。当時、それらはかなり高価なものであり、父は、「えっ、また買ったの? しょうがねえな、しょうがねえな」と、部屋の中を熊のように行ったり来たりして、心を落ち着けるのであった。このうち、掃除機はイギリス製で、まるで消防自動車のサイレンのようなけたたましい音をたてたので、さすがに母は隣近所をはばかり、窓を閉め切って使っていた。だが、これらは結局、生活の合理化のためであり、掃除機もホウキやハタキにくらべていかに能率的で衛生的であるかを、こんこんと講義するので、父は仕事机にもどり、天井を仰ぎ、タバコを矢鱈にふかすのであった。
  
 村山家には戦後に普及したテレビClick!がないだけで(ラジオはあったろう)、電気冷蔵庫に電気洗濯機など1960年代に生活の理想とされた「家電三種の神器」が、ほぼそろっていたことになる。この性格は母親(岡内寛)ゆずりだったようで、彼女の母親も米国から洋服を取り寄せ、乗馬や水泳、英語などを習う明治期の“ハイカラさん”だった。
 村山籌子は、幼い亜土にも早くから水泳を教えていたようで、出かけた先は「落合プール」Click!、すなわち二二六事件Click!の際に岡田首相Click!が隠れた佐々木久二邸Click!の、もともと敷地内にあった下落合(3丁目)1146番地の旧・邸内プールだった。もちろん水泳好きな村山籌子も、水着に着替えて息子といっしょに泳いでいたのだろう。同書から再び引用してみよう。
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 (前略)水泳の好きな母は、原さんを誘って、落合プールや明治神宮プールに出かけた。昭和十年頃、毎夏二週間ほど鵠沼海岸の画家のアトリエを借りた時も、新協劇団の俳優さんたちと一緒に原さんも来て、水泳の帰りに八百屋の店先で、西瓜を指でポンポンとはじいて、「ほらね、こういうにぶい音のほうが、甘いのよ」と自慢げに言ったのをおぼえている。
  
 「原さん」とは、中野重治Click!の夫人で女優の原泉Click!のことだ。原泉は、上落合48番地から上落合481番地、そして小滝橋近くの柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと、常に村山アトリエの近くに住んでいた。
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 1933年(昭和8)2月21日、いつも穏やかな原泉が目を吊り上げ血相を変えて、庭先から村山アトリエへ飛びこんできた様子を、村山亜土はハッキリと記憶している。「あたし、先に行ってるからね」と半泣きのような顔でいい、原泉は駈け去った。築地署で小林多喜二Click!が虐殺された翌日、村山アトリエで見られた情景だ。
 村山籌子は、地下に潜行した共産党のレポ(連絡係)を、ひそかに引き受けていた。以前、佐多稲子Click!(窪川稲子)の『私の東京地図』(新日本文学会版)から、新宿通りに面した「近江屋」で、正月用品の買い物をタダでするエピソードClick!をご紹介したが、窪川稲子を誘いにきたふたり連れのうちのひとりとは、まちがいなく村山籌子だろう。その近江屋で、彼女は店員のレポとひそかに接触している。同書より、再び引用してみよう。
  
 年に一度だけ、私の誕生日に、母は新宿の中村屋で、一円のインドカリーを食べさせてくれた。当時、デパートの食堂のカレーは二十銭であった。そして、その隣に近江屋という小さな食料品屋があった。母はその店の前に立つと、いつもなにげないふうに奥へ目をやりながら、店頭のタラコを一腹つまみあげ、わざとゆっくり鼻に近づけて、クンクン匂いをかいだ。人目もあるのにと、私は恥ずかしかったが、母はすぐ、「ちょっと古いわね」とか言って、タラコをもどすと、指をハンカチでふきながら店をはなれ、真裏にあたる薄暗いコーヒー店に入った。すると、さっき店の奥に坐っていた若い男が、人目をはばかるようにひょいとあらわれ、母に手紙のようなものを渡して、たちまちいなくなった。母は何か秘密の連絡係のようなことをしていたらしい。
  
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近江屋跡.JPG
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 このとき、おそらく夫が豊多摩刑務所Click!に収監されていた村山籌子の背後には、特高Click!の刑事がピタリと尾行をしていただろう。特高はコーヒー店には入らず、店の外で張りこんでいたのか、あるいは彼女とシンパらしい近江屋の店員とをあえて泳がせていたものか、ふたりは検挙されていない。
 ちなみに、淀橋区角筈1丁目12番地にあった近江屋の真裏の「薄暗いコーヒー店」とは、新宿ホテルをまわり西へ少し入った右手、新宿武蔵野館の真ん前に開店していた角筈1丁目1番地の喫茶店「エルテルヤ」だろう。
 村山亜土は、子どものころ「人一倍臆病」だったらしく、火事の半鐘を聞いただけで「アワアワ、ガタガタと震え出」していたらしい。そこで、村山籌子はときどき起きる火災に慣れさせるため、あるいは息子に度胸をつけさせるためか、上落合で頻繁に燃えた前田地域Click!(工場地区)の火災を、小高い原っぱにのぼって見物させている。引きつづき、同書より引用してみよう。
  
 そこはちょっと小高くなっていて、今のように高いビルがないので、見晴らしがよく、かなり離れた火事場がパノラマのようによく見えるのであった。とりわけ、上落合のゴム会社とか氷会社の大火事は、すぐ近くで、火の粉がパラパラと落ちて来て、二時間以上も燃えつづけた。母は、私がどんなにもがいても、手をゆるめず、じっと見物させた。そのうち、私は、ふきあげる焔に見とれて、いつのまにか震えが止まっているのであった。
  
 「ゴム会社」とは上落合136番地の堤康次郎Click!が経営していた東京護謨Click!の工場、「氷会社」とは上落合3番地の山手製氷の工場で、昭和初期ともに大火事で焼失している。特に山手製氷の火事は、村山アトリエからわずか200mほどのところで起きている。
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 村山籌子は、落合地域とその周辺に住んでいた原泉をはじめ、中野鈴子Click!壺井栄Click!藤川栄子Click!などと親しく交流し、多彩なエピソードを残している。村山亜土も、それらのめずらしい情景を記憶しているようだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:村山和義・籌子夫妻のアトリエがあった、上落合186番地界隈(右手前)。
◆写真中上は、邸内にプールがあった昭和初期の佐々木久二邸。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる佐々木邸から“独立”して町内プールとなった「落合プール」。は、1929年(昭和4)ごろに撮影された村山籌子。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる食料品店「近江屋」と真裏の喫茶店「エルテルヤ」の位置関係。は、工事中の近江屋跡(手前)で奥が新宿中村屋。は、1970年(昭和45)に制作された村山知義『村山亜土像』。
◆写真下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる村山邸周辺の高台空地と前田地区。は、東京護謨工場跡に建つ落合水再生センター。は、月見岡八幡社の境内だった八幡公園の現状。境内の北東側に、眺めのいい高台の原っぱがあった。

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ハイゼの原から仰ぐ雑司ヶ谷異人館。 [気になるエトセトラ]

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 昨年、雑司ヶ谷の異人館Click!に住まわれていた正木隆様より、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された邸の写真をお送りいただいた。明治末近くに竣工した同邸は、明治政府の雇用外国人として1902年(明治35)に来日し、東京高等商業学校(現・一橋大学)や学習院でドイツ語教師をしていたドイツ人のリヒャルト・ハイゼが建てたものだ。だから、当初より「異人館」と呼ばれていたのだろう。
 陸地測量部Click!が作成した、明治末の1/10,000地形図を参照すると、弦巻川Click!に沿って南北に形成された河岸段丘の斜面には田畑が拡がり、北岸にある宝城寺や清立院、南岸にある大鳥社や本納寺、そして雑司ヶ谷鬼子母神の森が点在するゆるやかなU字型の谷間から眺めた高台に、ポツンと大きな西洋館が建っているような風情だった。異人館の北と東側には、東京市の雑司ヶ谷墓地が造成されていて、1910年(明治43)時点の地図でも異人館の周囲には、住宅はただの1棟も存在しなかった。
 やがて、雑司ヶ谷の宅地化が進むにつれ、弦巻川両岸の田畑は耕地整理が行われ、大正末から昭和初期にかけては、なにもない原っぱが拡がるような風景に変わっていった。そのころ、周辺に住む子どもたちの遊び場はこの原っぱであり、ことに正月などには凧揚げには格好の広い空き地となっていた。誰が名づけるともなく、この広大な原っぱは「ハイゼの原」と呼ばれるようになっていた。
 当時、ハイゼの原で遊んだ子どもたちの様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された一艸子後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
  
 文字焼は現代のお好焼の元祖ともいうか、うどん粉を砂糖蜜に溶かし鉄板の上で焼き、熱いのをふきふき食べる。寒い正月には格好な食べものであった。/風のない日は羽根をつく女の子が喜び、風が出れば男の子が喜ぶ。風が出ると男の子は凧上げの場所に行く。場所はおおかた大鳥神社に近い異人屋敷につづく傾斜の原っぱである。
  
 また、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』にも、四季を通じてハイゼの原で遊ぶ子どもたちの様子が記録されている。
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 この異人館の東側の斜面が、宝城寺の墓場まで宏大な空地で、私達はこの空地を「ハイゼの原」と呼んでは天気さえよければ、自分達の運動場として使わせて貰ったものである。春から秋にかけては適当な長さの草が生い茂っていて、相撲をとって転がっても怪我もしなかったし、また草の斜面を下までゴロゴロと転がり落ちてあそんだりしたものである。毎年冬になって雪が積ると、此の斜面を利用して、スキーの真似ごとをしてあそんだこともあった。仲間の悪の中には隣接の宝城寺の墓場へ行き、卒塔婆を引き抜いてきて足の下へはき、スキーのつもりですべった者もいたが、よく仏罰が当らなかったものだ。/私がはじめて秋田雨雀さんと会ったのも、この「ハイゼの原」であった。
  
 ハイゼの原では、ときどき時代劇の映画ロケが行われたり、サーカスの小屋掛けがあったりして、周辺に住む子どもたちを楽しませていたようだ。
 リヒャルト・ハイゼは、大正期に入ると日本が第一次世界大戦でドイツに宣戦布告したため、敵性外国人として日本政府による全財産没収の危機にも遭遇したが、1924年(大正13)に帰国するまで日本に住みつづけている。雑司ヶ谷異人館の周辺では、ハイゼ一家が帰国して住民が日本人に入れ替わっても、相変わらず「異人館」や「ハイゼの原」の名称が活きつづけていたのがわかる。
 雑司ヶ谷を流れる弦巻川の周辺に住んだ人々に、強烈な印象を残している雑司ヶ谷異人館だが、昭和期に入ると船舶会社の重役である船津邸ないしは松平邸になり、戦後は広い邸内にはフロアごとに複数の家族が入居する、いわゆるマンション形式の使われ方をしていたようで、以前に書いた雑司ヶ谷異人館の記事のコメント欄には、元住民の方々の貴重な証言が寄せられている。このような意匠の明治建築だと、当時の和館よりも天井が相当高く、冬などはかなり寒かったのではないだろうか。
 建築されてから、それほど時間のたっていない雑司ヶ谷異人館の意匠について、詳しく記録した文章が残っている。『雑司ヶ谷界隈』から、再び引用してみよう。
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 かつて私の子供の時分、この建物は雑司ヶ谷の異人館として名物であった。当時この異人館の周囲一帯、南側の低地も東側の高地も人家らしいものは一軒もなく、開通したばかりの王子電車の窓からも、この異人館はハッキリと望見できたはずである。私もうろ覚えなので断言はできないが、明治時代日本に招かれて来た独乙人(ママ)のハイゼという鉄道技師(ママ)か何かが住んでいた邸宅であったと聞かされたことがある。敷地は丘の上から下まで何千坪かあり、南斜面を利用した宏壮なものであった。南面下の道路には当時としては珍しい鉄製の門扉が常時閉じられたままであり、南斜面の植込みの広い庭の奥、丘の上に南半分が洋館、北側半分が和風という、家そのものもひどく広い大きなものだった。洋館の二階にはベランダがつき出ていて、あそこからなら新宿のガスタンクや、夜になればネオンの赤い灯や青い灯もよく見えるだろうな----と羨しく眺めたものである。しかし和風の造りの方はいつも雨戸がたてたままで、洋館の方もかつて人の姿を見かけたことはなかったように思う。
  
 文中に登場する王子電車は、現在の都電荒川線のことだ。当時は、雑司ヶ谷電停のすぐ南側に王子電車の車庫が設置されていた。
 1979年(昭和54)に解体といえば、わたしが学生時代にはまだそのまま建っていたわけで、都電荒川線には何度か乗車しているにもかかわらず、雑司ヶ谷異人館の存在には気づかなかったのが残念だ。もっとも、そのころは周囲に家々が建てこんでいて、大きな西洋館も見えにくくなっていたのだろう。
 解体直前の異人館は、さすがに傷みが激しく、下見板張りの外壁があちこちで破れ、窓ガラスも随所が割れているような状態だったらしい。1977年(昭和52)の時点では、「今は見るかげもない木造の異様な建物」(『雑司ヶ谷界隈』)と書かれているので、長い間メンテナンスをしておらずお化け屋敷のようなたたずまいを見せていたようだ。当時の様子は、著者の中村省三が写真に収めている。
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 さて、帰国したリヒャルト・ハイゼだが、1937年(昭和12)には再び日本の土を踏んでいる。そして、いまでは会津の白虎隊が眠る飯盛山に葬られているのだが、なぜ薩長政府に抵抗した会津にハイゼ家の墓所があるのか、それはまた、もうひとつ別の物語……。

◆写真上:かつて、ハイゼの原から仰ぎ見た雑司ヶ谷異人館(リヒャルト・ハイゼ邸)。
◆写真中上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷異人館。この時期になっても、ハイゼの原には住宅が建っていない。は、戦前に大鳥社側から弦巻川が流れるハイゼの原を撮影したもので、中央を左右に横切るのは王子電車の軌道。異人館は、左手枠外の高台に聳えていたはずだ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる異人館で、濃い屋敷林に囲まれかろうじて戦災をまぬがれているのがわかる。
◆写真中下は、都電荒川線から見た1977年(昭和52)ごろの雑司ヶ谷異人館。は、西側の都電側から眺めた異人館が建っていた丘上の現状。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる雑司ヶ谷異人館(現・南池袋第二公園)。
◆写真下は、1933年(昭和8)に撮影された暗渠工事中の弦巻川が流れるハイゼの原。正面に見えているのは宝城寺で、画面の左手枠外の丘上に雑司ヶ谷異人館が建っている。は、解体が間近な1977年(昭和52)撮影の異人館外壁と窓。

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下落合を描いた画家たち・平塚運一。(2) [気になる下落合]

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 1939年(昭和14)に平塚運一Click!が描き、戦後の竹田助雄Click!による「落合新聞」Click!に掲載された『染物の流し洗い』と題するスケッチ作品だ。(冒頭写真) 落合地域やその周辺域には、大正時代からきれいな水質を利用した江戸友禅や江戸小紋、江戸藍染などの工房や工場Click!、会社などが市街地から数多く移転してきて、一大染め物産業エリアを形成していた。落合地域では、旧・神田上水(1966年より神田川)と妙正寺川の沿岸に染め物会社が集中している。
 こちらでも、田島橋の北詰めにあった三越呉服店(三越百貨店Click!)の染め物工場Click!をはじめ、松本竣介Click!が描いた同工場Click!や裏手の妙正寺川からスケッチした二葉苑Click!片山公一Click!が描いた妙正寺川の染め物工場街など、折りにふれてご紹介してきている。平塚運一の『染物の流し洗い』は、落合新聞によれば西武電鉄Click!の下落合駅のすぐ近くを描いたとされているので(おそらく平塚運一本人に確認しているのだろう)、描かれている川幅から見ても妙正寺川にまちがいないだろう。
 正面には小さな橋が架かり、流れの奥には丘の斜面に建てられたとみられる家々が描かれているので、川筋は左右どちらかにカーブしていると思われる。1935年(昭和10)前後からスタートした、落合地域における旧・神田上水と妙正寺川の直線整流化工事は、この画面が描かれた1939年(昭和14)当時はほぼ全域で終わっていたが、妙正寺川の大正橋下流の一部、二葉苑の裏手にあたる部分では、1944年(昭和19)現在でも工事が行われていた様子が、同年の空中写真でも確認できる。それは、松本竣介の素描『上落合風景』の記事でも触れたとおりだ。
 西武線・下落合駅の近くで、工場または銭湯の煙突が2本建ち、妙正寺川の右手には屋根に換気口の小屋根が載る、明らかに工場とみられる建屋が描かれている場所は、はたしてどこだろうか? 工場の手前は空き地となっており、休憩時間なのだろうかふたりの工員が一服しているように見える。川に架かる橋はかなり小さめであり、こちらでも何度かご紹介している滝沢橋Click!と同様に私設橋かもしれない。その小さな橋の下では、6~7人の職人たちによる染め物の水洗いが行われている。
 川の左手には、岸辺のギリギリまで塀が設置され、規模の大きなアパートか寮のような建物が描かれている。つまり、川の右手には川沿いにつづく道がありそうだが、川の左手には川沿いの道がなく、建物が川岸の間際まで迫って建てられているような環境だ。また、橋がある以上、少なくとも左手の大きな建物の向こう側には、必然的に道路があることになる。さらに、遠景の丘を観察すると、丘の連なりは右手へとつづいているように見えるので、妙正寺川の北側に連続する目白崖線なのだろう。そう考えれば、画面の右手が北で左手が南の方角になるだろう。
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 以上のような諸条件を満たす描画ポイントは、1939年(昭和14)現在の下落合駅近辺では1ヶ所しか存在しない。平塚運一は、下落合3丁目1110番地(現・中落合1丁目)にあたる妙正寺川のコンクリート護岸あたりから、上流の小さな氷川橋の方角(西側)を向いて描いていることになる。平塚運一のすぐ左手には、川をはさんで西武線の線路が走り、すぐ背後には落合橋と下落合駅が見えていたはずだ。
 右手に見えている工場と煙突は、下落合3丁目1128番地の(有)東京染晒工場であり、同工場は奇跡的に空襲による延焼をまぬがれて、戦後も操業をつづけている。また、手前にある空き地は1936年(昭和11)の空中写真でも、1944~1945年(昭和19~20)の写真でも、さらには戦後の1947年(昭和22)の米軍写真Click!でも三角形の空地のままであり、ひょっとすると同工場の干し場に使われていたのかもしれない。もっとも、1944年(昭和19)から敗戦までの期間は、防火帯36号江戸川線Click!(=建物疎開Click!)として機能していたとみられるが、生産拠点は重要視されたのか工場の建屋は解体されず、空襲でも焼けずに戦後までそのまま残った。
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 さて、妙正寺川に架かる氷川橋は、淀橋区から新宿区への資料に橋名が採取されておらず、もともとは滝沢橋と同様に私設橋だったのかもしれない。少なくとも、1966年(昭和41)の新宿区地図まで、上流の昭和橋と下流の落合橋にはさまれた小橋の名称は収録されていない。橋の左手は上落合だが、描かれた大きめな集合住宅は上落合1丁目279番地のアパート落合荘だ。同アパートは、右手に描かれた東京染晒工場よりもはるかに大きな建物で、1936年(昭和11)の空中写真を見ると大屋根が白く輝いて見える。おそらく、洋風で最新式のモダンアパートだったとみられるが、防火帯36号江戸川線の建物疎開にひっかかり、1945年(昭和20)に解体されたと思われる。
 さらに、落合荘の向こう側(西側)に見えている煙突は、わたしは当初銭湯のものだと思っていたのだが、どうやら工場か焼却炉の煙突らしい。ただし、なにやら煙突に文字が描かれているので、工場ないしは会社の可能性が高いだろうか。このスケッチが描かれる前年、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、煙突のある大きめな家は「高藤」(上落合1丁目280番地)という名前が採録されている。敷地内には、コンクリートの小規模な建屋と煙突が記録されているので、ひょっとすると個人名を冠した染め物に関連する工房、ないしは関連会社のひとつなのかもしれない。
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 煙突のある高藤邸から、西へ2軒隣りの上落合1丁目308番地にはアパート静怡寮Click!があり、晩年の辻潤Click!が住んでいた。当時は病気がちだった辻潤も、この2本の煙突が見える風景を眺めながら暮らしていたのだろう。平塚運一が『染物の流し洗い』を描いた5年後、1944年(昭和19)11月に辻潤はここで死去している。

◆写真上:1939年(昭和14)に描かれた、平塚運一のスケッチ『染物の流し洗い』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東京染晒工場とその周辺。は、『染物の流し洗い』の前年1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同所。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機から撮影された同界隈。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された妙正寺川の水洗い作業。(「おちあいよろず写真館」より) は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所。
◆写真下は、平塚運一の描画ポイントあたりから氷川橋を眺めた現状。は、東京染晒工場跡の現状。は、もともとは私設橋とみられる氷川橋。

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首都圏最大クラスの大船田園都市計画。 [気になるエトセトラ]

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 大正期になると、東京郊外に「文化村」「田園都市」と名づけられた、西洋館を中心とする新興住宅地が開発されはじめている。その嚆矢として、こちらでは1922年(大正11)に販売を開始した目白駅の西側に接する下落合の近衛町Click!目白文化村Click!、そして同時期に目黒駅の西側に位置する洗足田園都市Click!をご紹介している。
 また、一般の住宅地としてではなく社宅(官舎)街として、ほぼ同じ時期に建設が進んだ埼玉県の川口文化村Click!や、少し遅れて武蔵野鉄道沿線の東大泉に建設がスタートした大泉学園Click!、さらにそれらの計画を追いかけて開発された常盤台Click!や国立、田園調布などについてもチラリと触れてきた。今回は、ちょうど大泉学園の開発構想とほぼ同時にスタートしている、大船田園都市(株)による神奈川県の「新鎌倉」計画=大船田園都市構想について書いてみたい。
 わたしは子どものころ、大船駅には何度も下車して近くの山々へのハイキングや、横浜ドリームランドへ遊びに出かけているが、大船駅前でハイカラな「文化村」的な雰囲気を味わったことは、残念ながら一度もない。目立ったのは、松竹の大船撮影所と無秩序に建てられたと思われる商店や住宅街、工場、倉庫などの姿で、近衛町や目白文化村、洗足田園都市などで感じるモダンな街並みは認識できなかった。
 ところが、大船には上記の郊外住宅地が販売されはじめた1922年(大正11)に計画が進み、大正末から建設がスタートした大船駅前の大規模な「文化村」、大船田園都市が拡がる予定だったのだ。大船駅の東口にはじまり、北東側へと広がる住宅地の総坪数は10万坪以上で、当時の「文化村」計画としては最大クラスだった。計画図を見ると、敷地の西側半分は大泉学園を思わせる碁盤の目のような区画で構成され、敷地の東側半分は常盤台や田園調布のように、広場を中心として放射状に道路が四方へのびている。
 当時の様子を、1925年(大正14)発行の「主婦之友」2月号に掲載された、記者が現地を取材している「東京を中心とした二大田園都市の新計画」記事から、少し長いが引用してみよう。ここでいう「二大田園都市」とは大船田園都市(のちに「新鎌倉」と呼ばれるようになる)と、箱根土地Click!が目白文化村につづき練馬で開発していた大泉学園のことだ。
  
 田園都市はだらしなく発展した郊外の住宅地とは異つて、最初から広漠な土地に理想的な設計をして地割をなし、それに文化的の設備を施した都市を造るのでありますから、都会から解放された私共の住宅地としては、誠に理想郷となるのであります。広い公園道路が縦横に貫通して、青々とした街路樹の間を、四季とりどりの花弁で点綴し、運動場があり遊園地があり、学校、幼稚園、娯楽場、マーケットその他生活に必要なあらゆる設備が行届いて、都会が公園か公園が都会かの観があるべきなのであります。整然と区画した住宅地は尺地も余さぬ窮屈な都会の住宅とは違つて、裕に田園の趣味を味ふに充分であります。そこに子供はのびのびとした心で、すなほに育つてゆきます。私共は都会地の繁煩な労働、油断も隙もならぬ往来の危険から免れて、安楽な一夜をゆつくりと眠ることができます。そして日曜の一日をのんびりした自然の清らかな空気に触れて、新しい元気を培ふことができます。かやうにして私共は自己の仕事のために、家族の保護のために、生活の安定をつくるために、都会地よりも、郊外地よりも、更に一歩を進めて田園都市の生活に移るべく余儀なくされつゝあるのであります。
  
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 記者は、ことのほか「都会生活」(東京生活)を嫌悪し忌避しているようだが、おそらく江戸東京地方の生まれではないのだろう。冒頭に「都会生活を三代も続けると、その家は滅亡する」などと、読者を脅すような強い口調で書いているが(これ、いまや250万人を超える江戸東京の地付きの人間には、ずいぶんと無礼な表現だ。横浜や大阪、福岡、名古屋、仙台、札幌などの都市で、地元民を前に「この街は三代続くと家が滅亡するよ」などといえるのだろうか? それほどイヤなら、場ちがいなところに住まないで尻に帆かけてとっとと帰郷しよう)、核家族化と少子化が深刻な現代ならともかく、わたしの家はこの街で400年ほどつづいているけれど「滅亡」などしていない。
 さて、大船田園都市(新鎌倉)には、東京郊外の「文化村」を凌駕する設備やサービスがそろっていた。上下水道をはじめ、電燈線・電力線Click!を共同溝に埋設して、街中に電柱が存在しないのは目白文化村と同様だが、大船駅東口から「夕日ヶ丘」とよばれる中央の公園広場まで、まっすぐに街路樹が繁る七間道路がつづいている。「夕日ヶ丘」を中心に、北側には双葉公園、東側には東山遊歩場、大人用運動場、子供用運動場、女性(女児)用芝庭+花壇などの施設が展開している。また、駅前の商業地区と呼ばれる出店用のマーケット区画や各種学校、幼稚園、病院、購買組合、クラブハウス(サロン、宴会場、娯楽場、修養場)、馬場(競馬場)などの施設がそろう予定だった。
 また、大船田園都市(新鎌倉)の大きな特徴として、ディベロッパーである大船田園都市(株)が主食をまかなう炊飯工場を経営し、食事の時間に米飯の宅配サービスを予定している。さらに、同社はクリーニング業も運営して和・洋服の洗濯を代行し、住宅を建てる建設・工務業や清掃業も請け負って定期的に、あるいは要望があればいつでも建設や清掃の作業員を派遣するというサービスも計画していた。
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 大正末、東海道線から眺めた大船駅東口の様子を、同誌より引用してみよう。ちなみに、文中に登場する洋風住宅は、ほとんどがモデルハウスだった。
  
 東海道を汽車で旅行する人は、誰でも気付くでせうが、大船駅から東へ展開した平野に、広い道路が開かれてそこにちらほらと赤い屋根青い屋根の文化住宅が建つてゐるのを車窓から眺めることができるでせう。更に幾日かの後に再びこの駅を通るときは、全面の白い山が小さくなつて、低い地が埋立てられてあるのに気付きませう。この一画が新鎌倉と命名された十余万坪の田園都市で、大船田園都市株式会社の経営にかかるものであります。東西北の三方は小丘に囲まれ、南から西南にかけて遠く開け、遥に箱根連峰に対し、富士の雄姿を西方の丘上に親しみ得る大自然を抱擁し、気候温暖空気清澄、常に適当な海気を受けて健康には最も適してゐる地であります。
  
 1925年(大正14)2月の時点で、大船駅東口に近い「夕日ヶ丘」から西の碁盤の目のような区画はほとんど売り切れていたというから、実際に家を建てるのが目的の住民ではなく、投機目的の不在地主が土地を買い占めていたのだろう。ちょうど時期的にみても、不在地主の投機対象となり住宅がなかなか建たなかった、1924年(大正13)から販売を開始している目白文化村の第三文化村Click!のような状況だったとみられる。
 実際に住民が建てた洋館と、モデルハウスも含めた住宅がようやく数十棟ほど建ち並んだとき、1928年(昭和3)に大船田園都市(株)の経営が破綻した。前年からはじまった金融恐慌で、同社のバックにいた東京渡辺銀行が破産したからだ。1925年(大正14)に東京土地住宅(株)が破綻したとき、下落合で開発途中だった近衛町は、すぐに箱根土地(株)が手を挙げて開発事業を継承したが、東京から離れた大船田園都市の開発を引き継ぐディベロッパーは現れなかった。
 6年後の1934年(昭和9)、ようやく買い手として現れたのは、宅地開発業者ではなく映画会社の松竹だった。松竹は、未開発だった土地約9万坪を買収し、そのうち6万坪を「田園都市住宅地」として販売し、残りの3万坪に映画撮影所を建設している。
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 大船田園都市時代に建設された数十棟の洋館のうち、現存するのは駅に近い旧・小池邸の1棟のみだ。同邸の前には、鎌倉市による「大船田園都市」の記念プレートが設置されているけれど、もはや開発を記憶している人は地元でもほとんどいない。

◆写真上:1925年(大正14)に、大船駅側から東山遊歩場(予定地)の方向を眺めたところ。いくつかの西洋館が見えるが、その多くはモデルハウス。
◆写真中上は、大船田園都市(株)が作成したパンフレット2種。は、1925年(大正14)現在の大船田園都市(新鎌倉)の開発計画図。
◆写真中下は、同社が建設した平家建て24坪のモデルハウス。は、同モデルハウスと敷地160坪全体の庭も含めた平面図。は、現存する旧・小池邸。
◆写真下は、同社が建設した2階建て34坪のモデルハウス。は、同モデルハウスの平面図。は、1946年(昭和21)に撮影された大船駅東口の様子。

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目白中学校の「目白社」と「赤い鳥」。 [気になる下落合]

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 下落合437番地の目白中学校Click!には、生徒と教師、そして同校を卒業したOBとで結成された、「目白社」という美術クラブが存在していた。1921年(大正10)6月で丸1周年と書かれているので、創立は前年の1920年(大正9)6月ごろだとみられる。目白社の顧問には、同校の美術教師・清水七太郎Click!が就任している。「目白社」展覧会は毎年、春と秋の2回ほど開催され、目白中学の図画教室や化学実験室、ときに中国Click!ベトナムClick!などアジアからの留学生が学んでいた、東京同文書院Click!の教室などを使って作品が展示されていた。
 たとえば、1921年(大正10)秋に開催された目白社第4回絵画展の様子を、1922年(大正11)3月に発行された同校の校友誌「桂蔭」Click!第8号から引用してみよう。
  
 筑波の峰より吹き下す寒い風が樹々の梢を掠めて凄い音を立て、広い校庭は一面に真白な霜で被はれた。其の霜月の(十月)二十九日より我が目白社は第四回目の展覧会を催した。会場は階段教室の隣の臨時図画教室である。今度は出品の数も増加し、加ふるに新に写真を募集した為、陳列するに非常に時間を費したので、月曜日に開場する予定であつたが、其の間に間に合はず、一日延期して火曜日の昼休みの時間に開場した。いつもの如く大勢一度に雪崩れ込んで、あまり広くない会場は非常に雑踏を来した。放課後も再び賑つたが四時半に閉場する迄には、一般観覧者も少くなかつた。/三十日にも相当に多くの観覧者があり早中美育部の委員諸君も来観して内容の充実せると生徒の熱心さに歓声を洩らして行かれた。一日には生徒平常成績品全部を掲げ変へたので、再び賑ひ殊にシリトリが人気を呼んだ。土曜日の午後全部取片つけて後、会場に於て委員一同に清水先生瀧浪先輩を加へて十余人茶話会を催し、目白社の万歳を三唱して解散した。(カッコ内引用者註)
  
 文中の「早中美育部」とは、早稲田中学校の美育クラブ部員たちの一行が来場した様子で、「清水先生」はもちろん顧問の洋画家・清水七太郎のことだ。第4回展では、絵画作品が63点、写真作品が23点も展示される盛況だった。同年春の第3回展では、絵画作品48点が展示されているが、写真作品の募集はいまだ行われていない。
 ちなみに、第4回展に出品した清水七太郎の作品は、『風景』、『風景』(同一タイトル)、『郊外の冬』、『千九百十五年の自画像』、『静物(鉄瓶)』、『山間の渓流』、『真昼の光』、『校内の風景(庭球コート)』、『市川風景』の9点にもおよび、風景作品では下落合とその周辺域を描いたとみられるタイトルが散見できる。
 また、写真作品の中にも『水車のある風景』、『夏の川辺』、『晩秋の神田川』、『雪の戸山ヶ原』、『戸山ヶ原』、『秋の戸山ヶ原』、『雪の十二社』と、下落合とその周辺を撮影したらしい作品がズラリと並んでいる。これらの作品画像はその後、出品者に返却されて散逸してしまったのだろうが、画像入りの図録でも作成してくれていれば、落合地域におけるきわめて貴重な1級資料となっていたにちがいない。
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 さて、目白中学校で目白社を率いていた清水七太郎は、目白通りをはさんだ「赤い鳥」社とも連携した仕事を残している。1919年(大正8)10月から刊行がスタートする、赤い鳥社の『「赤い鳥」童謡』第1集から、1923年(大正12)4月発行の第7集までの挿画を、清水七太郎が目白中学校の1年生と2年生の全生徒を対象に描かせ、その中から童謡に添える作品をチョイスするという、いわば絵画コンテストのような催しを実施していた。
 たとえば、『「赤い鳥」童謡』第6集と第7集には、鈴木三重吉Click!の「序」として目白中学校と清水七太郎のことが、次のように書かれている。両集から引用してみよう。
  
 『「赤い鳥」童謡』第6集 1922年(大正11)6月
 (前略) 本集の四色版の挿画は、赤い鳥の洋画家清水七太郎氏が、府下、目白中学校一二年級の全生徒に、原謡を課して画かされた、数百枚の自由画から選抜された傑作である。「こんこん小山」の画は一年級中野三郎君、「ちんころ兵隊」の画は同年級松原恒君の製作である。
 『「赤い鳥」童謡』第7集 1923年(大正12)4月
 (前略) 本集の作曲の内「涼風小風」は「赤い鳥」で推奨になつた傑作である。三色版の挿画は、清水七太郎氏が、府下、目白中学校一二年級の全生徒に原謡を課して画かされた数百枚の自由画から選抜された傑作である。「涼風小風」の画は二年級中島四郎君、「かちかち山の春」の画は同年級廣島正君の製作である。
  
 目白中学校の生徒作品が採用されているのは、あらかじめ西條八十Click!北原白秋Click!、鈴木三重吉などが発案し、目白中学の清水七太郎へ打診してはじまったものかもしれない。作品コンテストも、鈴木三重吉あたりが思いつきそうなアイデアだ。
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 『「赤い鳥」童謡』シリーズは、1923年(大正12)4月に第7集が出たあと、同年9月1日に起きた関東大震災Click!で中断し、1925年(大正14)6月にようやく第8集を出版しているが、そのときはすでに清水七太郎の名前が、目白中学校の生徒挿画とともに目次から消えている。ちょうどこの時期、目白中学校は練馬への移転Click!計画で学内があわただしく、「赤い鳥」の童謡挿画コンテストどころではなかったのだろう。
 なお、手もとにある目白中学校の校友誌「桂蔭」(1922年/1924年)には、『「赤い鳥」童謡』の挿画に入選した中野三郎、松原恒、中島四郎、廣島正の四君の名前は登場していない。入選をきっかけに、同校の美術部である目白社へ入部したかどうかも確認したけれど、残念ながら名前が見あたらなかった。
 関東大震災の直後、あまり被害を受けなかった目白中学校では、1923年(大正12)10月5日~8日、15日~20日のスケジュールで目白社第8回展が開催されている。その様子を、1924年(大正13)3月4日に発行された「桂蔭」第10号から引用してみよう。
  
 目白の芸術益々花をかざして今は第八回になつた。九月一日未曽有の天災に先ず十月五日より八日迄同文書院の一教室を得て行はれた。中にも一二三年級の出品にして非常に当時の模様が何れも明白に表はれ目白健児以外に先輩諸君及び外客数十名あつた。/次に十月十五日より五日間震災を兼ねて第八回の展覧会を開催した。先生を初め在校生の出品勿論又校友先輩諸兄の出品多数にて諸先生及び外校生の多く入覧があつた。吾々末日に目白社一同の写真をとつて其の愉快さを語つた。
  
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 目白社第8回展覧会で、清水七太郎は本所の被服廠跡Click!で制作したのか、『九月十五日頃被服廠』と題する油絵を出品している。また、震災を記録した絵画や写真も数多く展示された。特に写真の部では、馬入川Click!(相模川)に架かる東海道線の鉄橋崩落Click!や、大磯における列車転覆Click!、両国橋や錦糸町における東京市電の軌道破壊など、現存していればかけがえのない震災資料になりそうなタイトルが並んでいる。

◆写真上:下落合437番地の目白中学校跡で、目白通りの向こうにあるのは目白聖公会。
◆写真中上は、1922年(大正11)3月発行の「桂蔭」に掲載された教職員名簿の一部。は、1921年(大正10)6月に開催された目白社第3回展の様子と出展作品の一部。は、1922年(大正11)現在の目白中学校教職員。印が清水七太郎ではないかと思われるが、その左下には帽子をかぶった金田一京助Click!の顔が見える。
◆写真中下上左は、1920年(大正9)3月出版の『「赤い鳥」童謡』第2集。上右は、第5集・西條八十「風」の目白中学生の挿画。は、『「赤い鳥」童謡』第6集()と第7集()の鈴木三重吉「序」。は、同集の目次で印は目白中学生による挿画。
◆写真下は、1923年(大正12)4月出版の『「赤い鳥」童謡』第7集に掲載された、北原白秋「かちかち山の春」の挿画(廣島正)。は、鈴木三重吉のプロフィール()と乗馬練習中のスナップ()。当時は目白通り沿いにあった学習院馬場Click!で、鈴木三重吉は乗馬の練習をしており、近衛秀麿Click!とも馬で遠出をしている。

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病気でも元気でも創作する曾宮一念。 [気になる下落合]

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 下落合623番地の曾宮一念Click!は、昭和に入るとしばしば体調を崩して病臥している。特に特定の病気に罹患していたわけではなく、体調がすぐれずに絵画の制作が困難な状況のようで、やや鬱の気配さえ読みとれるような症状だ。
 最初の大きな身体の不調は、1927年(昭和2)2月に「美術新論」へ発表するために、『中村彝の作品とその変遷』を脱稿した直後からで、兄事していた中村彝Click!の仕事とその死をふり返りながら、気持ちが徐々に沈みこんでいったせいなのかもしれない。同原稿は、中村彝が影響を受けたヨーロッパや東洋の画家たちの仕事と、彝の作品とを年代順に重ねあわせながら、その仕事を生涯にわたってたどるような構成で、曾宮一念にしてはめずらしい内容の原稿だった。
 この原稿を書いた直後から体調を崩し、曾宮一念は友人の会津八一Click!の勧めで長野県の山田温泉へ静養に出かけている。だが、体調の悪さはあまり回復せず、温泉からの帰途に宮芳平Click!を訪ねたところ、彼の紹介で富士見高原療養所Click!へすぐに入所している。その後、何度か入退院を繰り返しながら、翌1928年(昭和3)の9月中旬まで、長野県富士見町と下落合の間を往来していたようだ。曾宮一念が、34歳から35歳にかけてのころだった。
 同年9月に、新聞紙上で佐伯祐三Click!の「遺作展」記事を見たのも、下落合ではなく富士見高原療養所だった。でも、曾宮一念はその記事を「遺作展」だとは思いもせず、パリでの仕事ぶりを紹介する「滞欧作品展」だと勘ちがいしたまま療養所を退所している。東京の自邸にもどり、綾子夫人から佐伯の幽霊Click!が訪ねてきたことを聞き、初めて佐伯がパリで急死したことを知った。
 この年、東京美術学校Click!の同窓生たちが曾宮一念の健康を心配して、熊谷守一Click!安井曾太郎Click!らに協力してもらいつつ、扶助組織「一念会」を設立している。彼らの作品を1点ずつ持ちより、60点ほどの作品頒布会を新宿紀伊国屋書店の2階で開いて、約1,700円の売り上げを曾宮にとどけている。身体が思うようにいうことをきかず、仕事ができない曾宮一念にしてみれば、涙が出るほど嬉しかっただろう。この間、静養のために夏は八ヶ岳で冬は伊東ですごし、下落合では会津八一に油絵を教えている。
 その後、曾宮は少しずつ健康を回復していくが、再び1936年(昭和11)から翌年にかけて大きく体調を崩している。だが、今度は体調がどのような状態であろうと、絵を描くことも原稿を書くことも止めなかった。曾宮一念が病臥していた1937年(昭和12)6月に、下落合のアトリエを俳人の水原秋桜子が訪ねて5句の作品を残している。1937年(昭和12)発刊の「美術」9月号に掲載された、水原秋桜子『曾宮一念を詠む』から引用してみよう。
  
 罌粟咲かせ病かなしき人臥たり
 庭の花畠に罌粟(ケシ)が美しく咲いてゐる日であつた。画室の次ぎの室のベツドに画家はいつものとほり臥(ね)てゐたが、臥ながらも罌粟の花はよく見えるのである。私はまだ絵を描くほどに健康が回復せず、この好画材を見てゐる画家の心持を考へて見た。さうして句は出来あがつた。/しかし、この「病かなしき」には注釈を付ける必要がある。一般に病かなしきと言へば、それは癒る見込のすくない病気を指すことになる。しかし曾宮君の場合は決してそんな病気でなく、現にもう夕方は起きてゐて、僕の友人のN君が「秋からはすこし絵を描いても大丈夫です」と保証してゐるほどなのである。/ところが曾宮君は実に用心深く、規律的に摂生を守つてゐて、専門家のN君の保証をなかなか用ゐさうにもない。私はこれほど規律的に病床生活をする人をはじめて見て驚いたのであるが、実に曾宮君のはいたいたしいほど細心である。ある時は病を愛してさへゐるやうにも見える。かういふ心持を俳句で表現すると「病かなしき」といふことになるので私自身としてはこの句は会心の作と言つてもよい。(以下詠4句)
 描くべく咲かせし罌粟に人臥たり/あまつ日に罌粟は燃えつゝ人臥たり/花甕の罌粟むらさきに人臥たり/罌粟剪りて我にくれつゝ人臥たり
  
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 「人臥たり」ばかりで、かなり重症のような句作だが、曾宮一念はむしろ前々年の1935年(昭和10)から、絵にしろ文章にしろ多作期に入っていた。綾子夫人との離婚から5年たち、同年にはせつ夫人と再婚した曾宮は、新婚生活を送っている最中だった。
 二科会を退会し、独立美術協会Click!の会員になったのもこの年からだ。1935年(昭和10)から1937年(昭和12)にかけ、曾宮は次々と作品を発表し、体調がすぐれないときは美術誌などに随筆を書きつづけている。その合い間には、俳句を詠むことも忘れなかったようだ。つまり、体調が悪かったにもかかわらず、創作意欲はきわめて旺盛だった様子がうかがえる。
 曾宮一念が画家とは別に、エッセイストとして活躍するきっかけとなった初の随筆集『いはの群』は、1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版されている。同書の冒頭で、曾宮アトリエの庭に造ったケシ畑が登場しているので引用してみよう。
  
 それまでにひなげしは作つてゐた。ひなげしよりも大形の花げしと呼ばれる茎葉の白緑な、花は一重八重さまざまで中には焔の如く肉芽の如きものの咲いたのは昭和六年の初夏からである。はじめて出て来た蕾のほころびかけるのを待つて毎日スケッチをして、花の終る頃になつて褐色の葉に奇怪な花を咲かせた「けし畑」を作ることが出来た。その翌年は眼を傷めてゐる間に全く枯れ朽ちたので倒れたまゝ花草の残骸を画にした。それ以来毎秋十月には種子を播き霜除けを作るのが行事となつてゐる。秋に霜除(実は霜には強いので雪除けに役立つ)をしてやるのと翌春うろぬきをするほかに手のかからぬこの花は不精者の私に全く適当してゐた。この二種類の罌粟を播いてをけば五月からひなげしが咲き、これにつゞいて六月一ぱい大形の花げしを楽しむことが出来るのである。
  
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 1937年(昭和12)には、「絵の腕を磨かずさ、こいつらいってえなにやってんだよう!」と、独立美術協会のポスト争いや派閥争いに嫌気がさしてサッサと脱会し、宮田重雄Click!に誘われるまま国画会へと参加している。医師で画家だった宮田重雄もまた、句作の趣味をもっており、のちに俳人としても知られるようになる。
 水原秋桜子の『曾宮一念を詠む』が掲載された、「美術」9月号が書店に並んだころ、曾宮はカリエスの疑いで再び富士見高原療養所へ入所している。そこでは、毎日窓から見える山や雲をスケッチしつづけ、のちに独自の風景画を描くようになるベースが、このとき1年間の療養生活で育まれたとみられる。
 水原秋桜子がアトリエで見た曾宮一念の様子を、もう少し引用してみよう。
  
 しばらく話してゐるうちに、曾宮君は庭の罌粟を剪らせ、それを紙につゝんで私へおみやげに呉れた。この時のことは随筆に書いて東日(東京日日新聞)に載せたが、わたしはしみじみ君の厚情をうれしく思つたのであつた。かういふことはまだ短い年月しかたゝぬ交りの中でも、何度かあつたことで、そのたびに私は家に帰つて花を花瓶に挿し、それを句に詠むことを常とするのであつた。この罌粟も一週間ほど花瓶に咲いてゐた。/これで私の俳句は終りであるが、曾宮君も亦近頃はをりをり句を詠む。さすがにものゝ観方が鋭く、それに要領もいゝので忽ち上達してしまひ、これも最近作句しはじめた宮田重雄氏と好敵手である。/それに曾宮君はいつ行つても必ず本を読んでゐる。これは病閑を慰める意味もあるだらうが、それよりも画心を深める上に期するところがあるのではなからうかと私は考へてゐる。病床一年の読書と思索とが、この画家の画境をどう転換させるか、これは勿論私一人だけの期待でなく、画壇全体の期待であるにちがひない。
  
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 翌1938年(昭和13)は絵画作品こそ少なかったものの、3月には初の随筆集『いはの群』と、12月には美術工芸会より『曾宮一念作品集(3)』が出版されている。水原秋桜子が想像したように、精神生活ではずいぶん充実した時期だったのではないだろうか。

◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、庭に咲くケシを描いた曾宮一念『けしの花』(ペン)。
◆写真中上は、素描淡彩の曾宮一念『けし畑』。は、富士見高原療養所。
◆写真中下は、同時期の曾宮一念『けし畑』(ペン)。は、戦後にスケッチ場所を探しながら鹿児島県桜島の溶岩道を歩く曾宮一念。
◆写真下は、1938年(昭和13)に初の随筆集として出版された曾宮一念『いはの群』(座右宝刊行会)の函()と目次()。よほど気に入っていたのか、「けし畑」が文頭に掲載されている。下左は、1934年(昭和9)に下落合のアトリエで撮影された気だるそうな曾宮一念。下右は、曾宮の親しい友人だった画家で医師、俳人、俳優だった宮田重雄。

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