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夏目利政邸に下宿した長沼智恵子。 [気になるエトセトラ]

長沼智恵子アトリエ跡719.JPG
 下落合436番地に住んでいた日本画家&洋画家であり、下落合一帯のアトリエを設計してまわったとみられ建築家でもある夏目利政Click!が16歳のとき、自宅の2階には長沼智恵子Click!(のち高村智恵子)が下宿していた。といっても、下落合にあった彼のアトリエではなく、1909年(明治42)にいた本郷区駒込動坂町109番地の自邸でのことだ。
 いまだ中学生だった夏目利政は、日本画家・梶田半古の画塾に通っており、すでに14歳で文展に入選している。その後、夏目利政は東京美術学校の日本画科へと進学するが、当然、2階に住んでいた洋画家をめざす長沼智恵子とも、少なからぬ交流があったことは想像に難くない。日本画のみならず、彼が洋画をこころざす最初のきっかけに、ひとつ屋根の下に暮らしていた長沼智恵子の影響が大きかったのではなかろうか。
 長沼智恵子と目白・雑司ヶ谷界隈とのつながりは、学生時代も含めて非常に濃いものがある。ここでいう「目白」とは、現在のJR目白駅周辺のことではなく、小石川区(現・文京区)の目白台一帯Click!(おそらく本来の地名位置)のことだ。日本女子大学へ通っていた彼女は、同大学に近接した女子寮「自敬寮」で学生生活を送っている。そのころの智恵子の様子を、1年先輩にあたる平塚明(はる)=平塚らいてうの、『高村光太郎と智恵子』(筑摩書房/1959年)から引用してみよう。
  
 図画は女子大では自由科目でした。洋画の先生は、松井先生という中年の男の先生でしたが、智恵子さんはその先生について水彩画の勉強をしていました。桐の細長いスケッチ箱を撫で肩にかけて、学校裏の雑司ヶ谷方面にスケッチに出かけたりしていました。(中略) 書見に疲れた眼で窓の外をみると、人影の絶えて広々と見える運動場を、智恵子さんがただひとり、自転車を乗りまわしているのが実に自由で、たのしそうに見えました。自転車はこの人のお得意でしたから、当時の女子大運動会のよびものの一つだった自転車行進には必ず出ていました。
  
 智恵子に美術を教えていたのは、明治美術会(のち太平洋画会)の創設メンバーだった洋画家・松井昇のことだ。浅井忠や小山正太郎、柳源吉、長沼守敬らが1889年(明治22)に明治美術会を結成するが、吉田博Click!満谷国四郎Click!、中川八郎、丸山晩霞ら後進が続々と欧州留学から帰国すると、明治美術会は時勢の流れから解散して、ほどなく太平洋画会Click!が結成されることになる。
 長沼智恵子は、1907年(明治40)4月に日本女子大を卒業する以前から、おそらく松井昇の紹介があったのだろう、下谷区谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所Click!へと通っている。このとき、智恵子は日本女子大のOG会でつくる「桜楓会」が建てた、小石川区小日向台町1丁目14番地の「第一楓寮」に住んでいた。だが、1909年(明治42)に第一楓寮が閉鎖されると、本郷区駒込動坂町109番地の夏目邸の2階へと転居している。夏目利政は16歳の中学生だったが、智恵子は7つ年上の23歳になっていた。
 1907年(明治40)前後の太平洋画会研究所には、落合地域あるいは新宿エリアでお馴染みの美術家たちが、続々と姿を見せている。洋画をめざす長沼智恵子の周囲には、中村彝Click!中原悌二郎Click!をはじめ、鶴田吾郎Click!堀進二Click!大久保作次郎Click!渡辺與平Click!小島善太郎Click!、足立源一郎、川端龍子、岡田穀、荻原守衛Click!、戸張孤雁などの面々だ。智恵子の研究所での様子について、彼女とは肩を並べて同研究所で学んでいた渡辺與平の妻・渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)の証言を、2004年(平成16)に蒼史社から出版された北川太一『画学生智恵子』所収の、亀高文子『わが心の自叙伝』(神戸新聞学芸部編)から孫引きしてみよう。
  
 こういう男性たちにまじって、ここでは、男女共学のハシリといえましょうか、私ともう二人の女性がいました。一人は女子美校で一緒だった埴原久和代さんで、もう一人は後に高村光太郎夫人となられた長沼智恵子さんです。(中略) 智恵子さんは、美しい、なよなよした女性で話す声も聞きとりにくいほどの控えめな感じの外見と、その仕事ぶりは、また反対に自由奔放で強い調子のものでした。男女同権にめざめていないそのころ、大勢の男性の中にはいって勉強することは、いろいろな困難を甘んじて受け、あるいは克服しつつの連続でした。とはいいましても、明治の質朴な画学生たちは、私たちにとって決して危険な異性ではありませんでした。ただ、いかつい、こわい存在だったのです。女にやさしくするのは男の恥というような虚勢からくる見せかけの不親切だったかも知れません。
  
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日本女子大自転車.jpg
北川太一「画学生智恵子」2004.jpg 日本女子大寮.jpg
 夏目利政は生粋の本郷っ子で、1893年(明治26)に駒込動坂町で生まれている。日本画には早熟で、14歳のとき第1回文展へ入選したことは先述したが、東京美術学校在学中の18歳のときにも、再び第5回文展に入選している。牙彫師Click!だった父親が早くに死んだため、母親とともに自邸の部屋や離れを下宿として人に貸していた。そこへ入居したのが、23歳の長沼智恵子だった。
 夏目利政は、文展に入選していたにもかかわらず、智恵子から作品の画面を徹底的に批判されていたようだ。前出の『画学生智恵子』収録の、1950年(昭和25)11月1日の新岩手日報に掲載された夏目利政の回顧録から孫引きしてみよう。
  
 その頃私は第一回文展に入選した。美術学校入学前のことなので私は皆からおだてられた。ところが智恵子さんから「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と頭から酷評された。これが私にとって自分の絵ということをまじめに考える大きな示唆となった。それからあの人のほんとうのものに心魂を打ちこんでスキもひまもない日常を見てたゞ驚嘆した。
  
 夏目利政が日本画家のみならず、洋画家もめざすようになったきっかけに長沼智恵子が大きく起立していたのは、当たらずといえども遠からずのような気がするのだ。こののち、夏目利政は駒込動坂町の自邸を整理・処分し、下落合436番地にアトリエを建てて転居してくる。また、弟の彫刻家・夏目貞良(亮)Click!も呼び寄せ、九条武子邸Click!の南隣り下落合793番地にアトリエを建設している。さらに、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!をはじめ、下落合に建設されたアトリエの多くは、彼の設計と思われるふしがあるのは、すでに何度か書いてきたとおりだ。
 さて、母校が近くて落ち着き安心するせいなのか、長沼智恵子は日本女子大学の近辺に住みたがるようだ。1911年(明治44)になると夏目邸の下宿を出て、同じく日本女子大を卒業した妹・セキとともに、高田村雑司ヶ谷719番地(現・豊島区南池袋3丁目)に小さな新築の借家を見つけて住みはじめている。智恵子が同地域を離れがたいのは、母校とその周辺に馴染みが深かったせいもあるのだろうが、周辺には美術家たちが多く住んでいたのも要因のひとつなのだろう。
 当時の雑司ヶ谷には、智恵子の親しい日本女子大の先輩だった橋本八重がいた。彼女は洋画家・柳敬助と結婚して、高田村雑司ヶ谷331番地に住んでいた。また、小石川区雑司ヶ谷91番地には、岸田劉生Click!たちとフュウザン会を結成した斎藤與里Click!のアトリエがあった。大正期に入ると、早々に二科会創設に奔走した津田青楓Click!は、日本女子大のすぐ東側にあたる小石川区高田老松町41番地におり、坂本繁二郎は高田村雑司ヶ谷36番地にアトリエをかまえていた。つまり、当時の先端をいく画家たちと交流できる交叉点が、明治末の雑司ヶ谷地域だったのだ。
 長沼智恵子が訪問した先には、津田青楓をはじめ中村彝、斎藤与里、熊谷守一Click!などのアトリエが記録されている。やがて、雑司ヶ谷に住んでいた洋画家たちのネットワークを通じて、高村光太郎と出逢うことになる。
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太平洋画会研究所跡(谷中).JPG
 高田村雑司ヶ谷719番地の長沼智恵子アトリエを、1912年(明治45)6月に読売新聞の記者が訪問している。同年6月5日の同紙掲載の連載記事「新しい女(一七)」を、前出の『画学生智恵子』から少し長いが孫引きしてみよう。
  
 郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過って埃の白い街道を左へ郊外の閑かさを飽迄も吸った新築の家、夫は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サッパリとしてそれ自らが画室の様だ。こゝに妹と二人で住んでいる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエジプト風の図案を描き、それに挿した芍薬の花がもう萎れてゐる、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子にはガラス函入の絹毬が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス、----このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、こうした周囲を背景にして、素袷の襟を掻きあわせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチャブ台の前に坐った二十四歳の、新しい女の芸術家を、まず想像して見たまえ(中略) ケチな芸術に非ず 「好きなのは、やはりゴオガンのです」話す時、その声は消えるように低くなる、「このごろ描きましたのは----」と立って壁によせかけた小さな板を裏返して「じきこの近くなのです」、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といい草の葉といい、女とは思われぬほど強く快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思いだしたので、そのことをいうと「えゝセザンヌもほんとうにようございますわね」と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺、あの活動写真の小舎などの毒毒しい色彩がたまらないそうな、けれども売らなければ食えないというのではない、そんなケチな芸術ではない
  
 文中には、「鬼子母神境内の墓地」というおかしな記述もあるが(鬼子母神堂北側の法明寺境内にある墓地という意味だろう)、おおよそアトリエの様子がわかる。
 長沼智恵子もまた、日本女子大の学生時代を含め、目白駅の東側に拡がる明治末から大正初期にかけての風景作品を、数多く描いていたにちがいない。その画面は、同じ時代をテキストで記録した海老澤了之介Click!の描写と、直接重なってくるだろう。このあと、智恵子は雑司ヶ谷719番地から、わずか北西に200mほどのところにある雑司ヶ谷711番地の借家へと転居している。
高田村雑司ヶ谷719・711_1918.jpg
高田町市街図1929.jpg
長沼智恵子アトリエ跡711.JPG
 高田村雑司ヶ谷719番地と同711番地は、ともに海老澤了之介Click!が住んだ雑司ヶ谷733番地のすぐ裏手(東側80mと北側50m)にあたる。だが、彼の自伝的著作『追憶』Click!には新進画家として、あるいは「新しい女」として新聞や雑誌にたびたび取り上げられ、のちに高村光太郎と結婚する長沼智恵子の記述がまったく見あたらない。ほとんど同じ町内の近隣同士なので、芸術家の存在にことさら敏感な彼が記録しないのはめずらしいことだ。海老澤了之介は、『青鞜』に集う「新しい女」たちが嫌いだったものだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷719番地(現・南池袋3丁目)にあった、長沼智恵子アトリエ跡の現状。実際には、写っている邸の裏側(西側)あたりに建っていたと思われる。
◆写真中上は、1917年(大正6)に行われた日本女子大学運動会の絵はがき。は、同大の運動場で自転車に乗る学生たち。下左は、2004年(平成16)に出版された北川太一『画学生智恵子』(蒼史社)。下右は、同大の雑司ヶ谷泉山潜心寮をめぐる築垣。古い大谷石の築垣上にコンクリート塀をつぎ足し、さらに有刺鉄線をめぐらす厳重さだ。
◆写真中下は、日本女子大学寮の正門プレート。は、太平洋画会研究所で石膏デッサンをする女子研究生。長沼智恵子か文中に登場する渡辺ふみ、または埴原久和代かもしれない。は、谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所跡の現状。
◆写真下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷719番地と同711番地の界隈。は、1929年(昭和4)作成の市街地図にみる同じエリア。微調整レベルの地番変更はあるが、明治末から昭和初期まで大きなズレは見られない。は、雑司ヶ谷711番地の東通りに面したあたりに建っていた長沼智恵子アトリエの現状。

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続・東京府「落合府営住宅」の勘違い。 [気になる下落合]

第二府営住宅跡2006.JPG
 明治末から大正期にかけ、東京各地に建設計画が持ちあがっていた府営住宅について、かなり以前に記事Click!を書いたことがあった。東京府がはじめた府営住宅制度は、今日の都営住宅のような低家賃で家屋を賃貸する制度とはまったく異なり、マイホームを建てるための積立準備貯金・返済制度のような仕組みが中心だった。
 下落合に建設された、落合第一府営住宅と第二府営住宅は各戸の敷地が100坪前後あり、建てられている住宅も大きめで、それぞれバラバラな意匠をしている。つまり、府営住宅制度を利用していた府民が、それぞれ自分好みの設計デザインで持ち家を建てた……という経緯だった。和館もあれば和洋折衷館もあり、ときには南側に接する目白文化村Click!の西洋館と見まがうような仕様の住宅も建設されている。
 東京府の府営住宅制度を利用するためには、東京府住宅協会の会員として登録しておく必要があった。会員には「甲種会員」と「乙種会員」の2種類があり、甲種会員は10年から15年後に建設した自邸の所有権を獲得することができ、乙種会員は持ち家ではなく賃貸契約のまま借りられる規定になっていた。だが、実際に登録した会員は甲種会員がほとんどで、乙種の会員は異動・転勤族や一時的な住まいなど特殊な事情だったようだ。1920年(大正9)の登録申し込みの割り合いをみると、甲種会員が85%に対して、乙種会員はわずか15%にすぎなかった。
 府営住宅に住んだ住民については、1922年(大正11)に東京日日新聞が行った、落合府営住宅の151軒にわたる職業調査によれば、官吏が61棟、会社員が49棟、教師が14棟、新聞記者が9棟、弁護士が1棟、その他が14棟(未回答棟数は除く)となっており、府営住宅制度の利用者がおしなべて堅い職業で、高めの給与をもらい積立貯金が可能な当時の「中産階級」だったのがわかる。それは、同時期に東京市内の各地へ建てられた、おもに低所得者層を対象とした東京市営住宅とは、まったく異なる目的で企画された、府営住宅の一戸建て持ち家制度だった。
 ところが、大正期も半ばをすぎると、会員のニーズに大きな変化が表れたようだ。新聞紙上には、新たな府営住宅の竣工を知らせる記事とともに、入居希望者を募集する告知が掲載されるようになる。つまり、甲種会員ではなく、乙種会員のニーズが高まったことを背景に、東京府住宅協会があらかじめ一戸建て住宅を建設し、賃貸で入居者を募集するケースが急増したのではないかと思われる。それは、無理して持ち家を建てるよりも、借家住まいのほうが経済的で楽だと考える、勤労者層のライフスタイルが変化したせいもあるのだろうが、勤め人(サラリーマン=ホワイトカラー)の急増で、異動や転勤を考慮した柔軟性のある住まい探しがはじまっていたことをうかがわせる。
読売新聞19210906.jpg
第一第二府営住宅1926.jpg
第二府営住宅跡.JPG
 1921年(大正10)9月6日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 府営住宅竣成/落合と世田ヶ谷
 府下落合村(三、四号地)及世田ヶ谷村に建設中の府営住宅は今回略ぼ修正したるに付各申込者に就き近く抽籤の上会員を決定すべし住宅種別建設戸数等左の如し
 △落合
      戸数   申込数
 四室   一二    一四
 五室   二七    二四
 六室    五    一八
 七室    四    三六
  計   四八    九二
 (以下略)
  
 この時期に、落合府営住宅の第三府営住宅および第四府営住宅が竣工したのがわかる。第三府営住宅は、大正初期にすでに竣工していた第二府営住宅のさらに西側、つまり第一文化村の北西側一帯のエリアであり、第四府営住宅は第一文化村の西側に接した、他の府営住宅地に比べると相対的に小規模な住宅地だった。
 この記事によれば、東京府住宅協会の乙種会員であっても、希望すれば全員が入居できるわけではなかったことがわかる。入居は抽選であり、落合府営住宅の場合は建物の間取りにもよるが、全体の倍率が2倍近かったことがわかる。ちなみに、世田ヶ谷府営住宅も140戸に対して206人の申し込みがあり、競争率は1.5倍近くになっている。
第三府営住宅1926.jpg
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第三府営住宅跡.JPG
第四府営住宅跡.JPG
 住宅の種類もバラエティに富んでいて、たとえば「四室」とあるのはキッチンや玄関室、納戸、洗面所、テラスなどを除いた、純粋な部屋数だと思われる。「七室」はかなり大きな住宅だとみられ、今日でいえば6LDKぐらいの感覚だろうか。しかも、落合府営住宅のケースでは大きな住宅ほど人気が集中し、「六室」が競争率3.6倍、「七室」が同9.0倍と非常に高かったことがわかる。
 読売の記事が掲載された1921年(大正10)は、いまだ目白文化村の第一文化村開発Click!はスタートしたばかりで、森を伐採したり畑地をつぶす整地作業がつづいていただろう。目白通りに面した土地を、府営住宅建設予定地として東京府に寄付した箱根土地Click!堤康次郎Click!にしてみれば、大正初期の落合第一・第二府営住宅の建設とともに、目白通りへダット乗合自動車Click!の路線も引けたことだし、そろそろ郊外遊園地「不動園」Click!をつぶして、文化村の建設へ本腰を入れはじめた時期にあたる。
 下落合の中部(現・中落合エリア)では、次々と竣工する東京府の府営住宅とともに、箱根土地による目白文化村の造成が報じられ、下落合の東部では東京土地住宅Click!によるお屋敷街・近衛町Click!の開発が新聞紙上へ大々的に発表され、さらに下落合の西部では同社による画家のアトリエを中心としたアビラ村(芸術村)Click!計画が公表されて、大正期のモダンな郊外文化村ブーム、あるいは田園都市ブームの到来を予感させていた。
 自身の職業が、従来はほとんど存在しなかった新しいサラリーマン=ホワイトカラーという、先端の仕事に就いていた人たちは、それに見あうモダンな衣食住の生活を求めて、江戸期からつづく古いコミュニティ的なしがらみや慣習の少ない、郊外に建ちはじめた文化住宅街に注目しだしたのだろう。特に郊外文化村での、健康的な田園生活が注目を集めだした大正中期の状況でいえば、山手線・目白駅Click!あるいは高田馬場駅Click!からほど近い落合地域(昭和初期になるとさらに西の荻窪Click!国立Click!など)と、山手線・目黒駅から東急電鉄で通える洗足田園都市Click!(昭和初期になるとさらに外れの多摩川べりにあたる田園調布Click!)の人気が、ことさら高くなっていったとみられる。
第一第二府営住宅1936.jpg
第三第四府営住宅1936.jpg
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 ただし、落合と洗足ふたつの文化住宅地ともに、西洋館を主体とした比較的大きめな家々が数多く建ち並び、当時としてはかなりの高給を得ていたサラリーマンでなければ、住宅を建てることも、また家を借りることもむずかしかったかもしれない。実際に入居している勤労層を調べてみると、官吏や会社員ともに上級管理職や役員クラスが目につく。また、落合地域では「文化村」や「アビラ村(芸術村)」というネーミングのせいか、府営住宅を含め画家や彫刻家、作家、音楽家など芸術家の多いのが大きな特色となった。

◆写真上:落合第二府営住宅跡の街並みで、戦後はほとんどが一戸建て個人住宅になっている。2006年の写真だが、右手に竹田助雄Click!の写真製版所が見える。
◆写真中上は、1921年(大正10)9月6日の読売新聞に掲載された落合第三・第四府営住宅竣成の記事。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる落合第一・第二府営住宅。は、落合第二府営住宅跡の現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)の同事情明細図にみる落合第三府営住宅(上)と落合第四合営住宅(下)。は、第三府営住宅跡(上)と第四府営住宅跡(下)の現状。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第一・第二・第三・第四府営住宅。は、1941年(昭和16)にめずらしく斜めフカンで撮影された空中写真にみる落合府営住宅の最終形。1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲で、第一・第二府営住宅は全滅、第三・第四府営住宅はその一部分が焼失した。

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野方町丸山に点在する古墳の痕跡。 [気になる神田川]

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 江戸東京には、「丸山」あるいは「円山」という字名(あざな)が散在している。いや、東京ばかりでなく丸山(円山)は、摺鉢山Click!稲荷山Click!天神山Click!などと同様に、全国規模の典型的な古墳遺跡地名でもある。下落合でも、丸山Click!という地名が江戸初期の資料からも確認でき、江戸末期には下落合氷川明神社Click!の東側に位置づけられている。そして、丸山の西側(下落合847番地)には摺鉢山Click!という地名が、明治末あるいは大正初期まで残されていたことも判明した。
 落合地域の周辺を見まわすと、下落合の西隣りにあたる野方町(現・中野区)にもまた、丸山の字名がそのまま現代まで地名として存続している。(丸山のエリアは、戦前より少し西へズレているようだが) しかも、相対的に市街化が少し遅れたせいか、丸山塚や稲荷塚、狐塚、経塚など、散在する古墳とみられる塚名までが伝えられているケースが多い。また、南の沼袋地域から北の江古田地域(武蔵野鉄道=現・西武池袋線の駅名ではないので「えごた」発音)にかけての妙正寺川とその支流沿いには、下落合と同様に出雲の氷川社が展開する一帯でもある。
 わたしが、野方町の丸山が気になったのは、明治末の陸地測量部による1/10,000地形図の字名を参照し、すぐに1947年(昭和22)の焼跡が拡がる空中写真を確認してからだ。以前、西武新宿線の沼袋駅近くにある出雲の沼袋氷川明神社Click!が、東京に点在するあまたの氷川明神Click!と同様に、もともとは古墳ではないかという記事を、地名相似とからめて書いたことがあったが、野方の丸山はその北北西の地域にあたる。わたしが目を見はったのは、沼袋氷川明神社から丸山の地名があった丸山塚とのちょうど中間点にある、明治寺および久成寺の境内と墓地のかたちだ。
 明治寺はその名のとおり、明治末の1912年(明治45)に建立された新しい寺だが、別名「百観音」として知られており、一部の境内が公園として開放されている。その境内は、南へと下る妙正寺川の河岸段丘上の“ヘリ”に位置しており、見晴らしのいい場所だ。そして、境内のフォルムが古墳時代初期の三味線のバチ型をした宝莱山古墳Click!と同様、前方後円墳の前方部に酷似しているのだ。寺々の墓域となったせいか境内の形状がよく保存され、現代の空中写真でもハッキリとそのかたちを確認することができる。そして、明治寺の本堂はおそらく後円部の中心点、つまり地中にある玄室の真上に建てられていそうな点も非常に興味深い。この前提で古墳のサイズを想定すると、その全長は東西方向へ約220mほどになるだろうか。記述の便宜上、この前方後円墳状のかたちをした境内を、明治寺古墳(仮)と呼びたい。
 さっそく現地を訪ねてみると、いまだ三味のバチ型に沿って地面の盛りあがりを確認することができる。特に南側は墓域にしたせいか、土地が落ちこむ形状そのまま墓地内に擁壁が設けられ、北側は前方部とみられるゆるいカーブの道路に沿って低い築垣がつづいている。後円部は、なんらかの膨らみがあったことを示す道筋が残されているけれど、1936年(昭和11)の空中写真で確認しても大半が新しい道路の敷設と、昭和初期の宅地化で失われているようだ。、明治寺古墳(仮)は、沼袋氷川明神社から北西へ300mほど、古墳と規定されている丸山地域の丸山塚からもわずか120mという至近距離に位置する。
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 さて、丸山塚は現在公園として整地され、昔日には塚状に盛りあがっていた地面の凹凸も存在していない。北側の新青梅街道ぎわには、大きな中野区のビル施設が建設されており、形状や起伏まで含め古墳の全域が破壊されたケースだ。ただし、公園の隅にはかつて墳丘(北側に前方部のある帆立貝式古墳か?)のどこかに奉られていたとみられる、小さな祠が残されていた。この小祠は、室町期の戦の記念として「豊島二百柱社」とされているようなのだが、明らかに造形は稲荷の祠であり後世の付会ではないだろうか。地元では、江戸期から丸山塚を別名・稲荷塚と呼んでいたことが記録されており、この経緯は世田ヶ谷の上野毛に保存されている稲荷丸塚古墳とそっくりだ。
 また、丸山塚古墳の名称は東京のみならず、周辺域では甲府市内にも存在している。甲府の丸山塚古墳(甲斐銚子塚古墳附)は全長約70~80mほどの円墳だが、野方の丸山塚もまた戦前戦後の空中写真で見るかぎり、古墳域は100m弱ほどの規模とみられる。甲府の丸山塚古墳の南西100m余のところには、4世紀後半に築造された大型の前方後円墳、全長約170mの甲斐銚子塚古墳が築造されている。丸山塚古墳と明治寺古墳(仮)の関係もまた、築造位置の近さから甲府のケーススタディのように、被葬者同士でなんらかの関係性を示す墳墓だったものだろうか。
 丸山塚からさらに北へとたどり、近くを江古田川(妙正寺川支流)が流れる、段丘上の江古田氷川明神社までのエリアは経塚、狐塚、稲荷塚と、なんらかの古墳があったことを示すメルクマールの密集地帯だ。その名称からも明らかなように、これらの塚状の突起あるいは出現した羨道・玄室などの洞穴は、おもに室町期から江戸期にかけ説明しやすいなんらかの物語や解説が付与され、そう呼ばれるようになったことは、全国の古墳事例をみても想像に難くない。このサイトでも、池袋の狐塚Click!や百人町の真王稲荷塚Click!について、ずいぶん以前にご紹介していた。
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 丸山塚から北東へ約250mほど、中野区立歴史民俗資料館の真裏にあたる経塚は、すでに墳丘が崩されて久しいらしく、住宅の庭先のような風情になっている。江戸期から、地蔵の石仏が安置されていたようだが、塚名だけが後世に継承されているだけで、もともとの墳丘のかたちや規模は調査がなされていないので不明だ。設置されたプレートによれば、それほど大きな塚ではなかったらしいが、江戸期の開墾ですでに本来の姿を失っていたのかもしれない。
 経塚の北北西約110mのところには、稲荷塚と狐塚が隣り同士で並んでいる。江古田川に向かい、急激に下るバッケClick!(崖地)状の斜面に、双子のような墳丘が築造されていたのかもしれない。戦前の空中写真を参照すると、周囲を畑地に開墾されつくした中の畦道沿いに直径数十メートルの塚が2基、ポツンと取り残されているのが見てとれる。あるいは、もともとひとつの古墳だったものが、開墾中に玄室と羨道の洞穴が別々に出現したため、それぞれ稲荷塚と狐塚の別名がつけられた可能性もある。その場合、墳丘の規模は30mほどになるが、古墳の羨道と玄室部のみが崩されずに残されたと考えると、墳丘はさらに大きかったのかもしれない。
 そして、稲荷塚と狐塚の北東約150mのところに、下落合氷川明神の境内と近似した釣り鐘型をし、現状の地形からも、また戦前の空中写真でも、鍵穴型のフォルムを類推できる江古田氷川明神社が鎮座している。また、江古田氷川社の北側には、湾曲した江古田川(妙正寺川支流)に向かって大きく半島状に張りだした丘があり、1920年(大正9)より東京市結核療養所Click!(江古田結核療養所=中野療養所)が設置されていた。このサイトでは、同療養所の副所長で中村彝Click!の主治医だった遠藤繁清Click!が登場している。この見晴らしのいい丘上にも、いくつかの古墳があったのではないかと思われるが、中野療養所の建設とともに丘全体が大規模開発されており、その痕跡は確認できない。
 さらに、戦後の焼跡写真では、江古田氷川明神社から千川上水Click!に近接する武蔵大学Click!のキャンパス(練馬区)まで、もともとは古墳らしいサークル状の痕跡をいくつか確認できるが、中野区側のように塚名は今日まで伝承されていない。以前、練馬の向原地域に残る古墳の痕跡Click!を追いかけたことがあったが、中野から練馬、さらに板橋の渓流が流れる谷戸の丘上ないしは斜面には、古墳時代全期を通じて大小の墳墓が連続して築造されていた可能性が高い。それは、周辺で発掘される古墳期の集落跡とともに、あながち無理な想定でもないだろう。
経塚稲荷塚狐塚江古田氷川明神1941_2.jpg
経塚稲荷塚狐塚江古田氷川明神1947.jpg
経塚.JPG
稲荷塚・狐塚.JPG
江古田氷川社.JPG
 1941年(昭和16)に陸軍が東京の西北部を撮影した、斜めフカンの空中写真Click!が残されている。中野では、北側の中野療養所から南の沼袋駅方面までを撮影した1枚が残されているが、沼袋氷川明神社から明治寺古墳(仮)、丸山塚古墳、経塚、狐塚、稲荷塚、そして江古田氷川明神社までがパノラマ状にとらえられており圧巻だ。これらの痕跡以外にも、田畑の中にはそれらしいサークルやお椀を伏せたような盛り上がりが確認できるので、江戸期から大規模な開墾が行われていたとはいえ、さらに多くの古墳とみられる遺跡が残されていたのではないだろうか。

◆写真上:沼袋氷川社と丸山塚とではさまれるように位置する、明治寺の広大な境内。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる沼袋氷川明神社のかたち。は、同社の境内に残る御嶽社Click!稲荷社Click!、さらに明治政府による「日本の神殺し」政策Click!に抗しオモダルとカシコネの夫婦神がそろった第六天(天王社)Click!の3社。は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる各遺跡の位置関係。
◆写真中下のモノクロ2葉は、1947年(昭和22)の空中写真に見る丸山塚古墳と明治寺古墳(仮)のかたち。からへ、明治寺の広い境内×2枚と北側のカーブを描く築垣、公園となった丸山塚の現状。左隅に、もともとは稲荷とみられる小祠が写っている。
◆写真下は、1941年(昭和16)と1947年(昭和22)の空中写真にみる経塚、狐塚・稲荷塚、そして江古田氷川明神社。からへ、ほとんど痕跡が残っておらず地蔵尊が奉られている経塚跡、かつて急斜面に存在し現在は公園化された稲荷塚と狐塚跡、空襲で焼けなかった江古田氷川明神の階段(きざはし)と拝殿。
記事末写真:中野療養所の上空から南を向いて撮影された1941年(昭和16)の斜めフカン写真で、江古田氷川社から沼袋氷川社まで遺跡の位置関係が一目瞭然だ。
経塚稲荷塚狐塚江古田氷川明神1941.jpg

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鉄道事故は頻繁にどこかで起きていた。 [気になる下落合]

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 鉄道事故は、首都圏のどこかで毎日起きているが、大正期から昭和期にかけても、現在とそれほど変わらない頻度で事故はたびたび起きていた。特に東京郊外では、いまのような厳重な遮蔽物などなく線路上へ誰でも容易に侵入できたので、列車見送りによる大規模な事故Click!から、近道をしようと線路を横切ったり踏み切りをわたる際の人身事故Click!、自殺をするための飛びこみ事故Click!、スピードの出しすぎでカーブを曲がりきれない脱線事故、車両故障や工事の過失にともなう運休事故Click!など、今日とほとんど同じよう事故が多発していた。
 これまで、落合地域とその周辺で起きた、当時のさまざまな鉄道事故(山手線・西武線・中央線など)をご紹介してきたが、今回は落合地域の住民たちも少なからず影響を受けたとみられる、2日連続で朝の通勤・通学の時間帯に起きた、ふたつの事故を取りあげてみたい。ひとつは、1928年(昭和3)9月12日(水)の早朝、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の椎名町駅Click!近くの踏切で、日本橋高等女学校の教諭が貨物列車に飛びこんで自殺した人身事故。そして、翌日の9月13日(木)には朝のラッシュアワーに、中央線の代々木駅-千駄ヶ谷駅間で満員電車が脱輪し、そのままカーブを走りつづけたために脱線転覆して多数の死傷者を出した事故だ。
 武蔵野鉄道の事故では、下落合西部や西落合の住民たちが通勤・通学時に、人身事故の影響で電車が動いておらず、東長崎駅や椎名町駅から徒歩で、あるいはバス通りに出て乗合自動車Click!目白駅Click!をめざしたかもしれない。また、翌日の中央線の脱線事故では、東中野駅へ出て通勤・通学をしようとしていた上落合の人々が、大事故の発生で復旧の見こみがまったく立たず、山手線の新大久保駅か新宿駅までバスに乗るか歩いたかもしれない。当時は、今日のような地下鉄網が存在しないため、そう簡単に代わりの交通手段を選べなかった時代だ。
 では、1928年(昭和3)9月12日(水)に発生した武蔵野鉄道の事故の様子を、翌9月13日(木)に発行された東京朝日新聞の社会面からひろってみよう。
  
 日本橋高女の教諭自殺す
 元鉄道で有名な勅任技師/武蔵野鉄に飛込み
 十二日午前五時二十七分府下長崎町椎名町日本橋高女教諭佐藤信夫氏(五三)は長崎町並木町一九四五先武蔵野鉄道踏切にて貨物列車をめがけて飛込み自殺を遂げた、原因は極度の神経衰弱から同日午前零時頃家出して右の始末におよんだものであると/氏は元鉄道省の勅任技師、非常に優秀な頭脳の所有者で明治大帝の行幸の時には必ず運転監督を承はつた程であつたが、神経衰弱のため退職し以来日本橋高女の教諭を勤めてゐたところ最近益々病気がかうじてこの悲しい最期をとげたものといはれてゐる
  
 この中で、「長崎町並木町」というおかしな住所が登場している。「長崎町(字)並木」が正しい表現なのだが、そうすると1945番地という地番が昭和初期の当時、(字)並木のエリアには存在していない。番地が誤植であり、1495番地とすれば椎名町駅と上屋敷駅Click!の間の、椎名町駅寄り(東側)にあった踏み切りということになる。
 また、1945番地が正しかった場合、所在地は「長崎町(字)大和田」と書かなければならないはずだが、この地番は武蔵野鉄道から離れ、目白通りに近い位置になるのでその「先」に踏み切りはありそうにもない。おそらく、「1945番地」という地番のほうがまちがっているのだろう。
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 自裁した佐藤教諭は、当時の病名で「神経衰弱」と書かれているが、今日でいう壮年期の鬱病にかかっていたものだろうか。武蔵野鉄道の人身事故は早朝だったが、事故発生とともに貨物列車はその場に停車しつづけて現場検証となり、午前6時以降の通勤・通学電車へ大きな影響が出たとみられる。東長崎駅の利用者は、すぐに長崎バス通りへと出て乗合自動車Click!に乗りこんだろうが、椎名町駅の利用者は池袋駅まで歩いたか、あるいは練馬方面からくる超満員に膨れあがった乗合自動車Click!を尻目に、目白通りを目白駅まで歩きつづけたかもしれない。
 翌9月13日(木)になると、今度は中央線で電車が脱線転覆する大事故が起きている。同年9月14日(金)発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 代々木で省電転覆/乗客七人死傷す
 荻窪駅を発し千駄ヶ谷駅へ/進行途中の惨事
 十三日午前八時卅七分、省線電車荻窪発八五二(運転手大塚四郎)が代々木駅を発車し千駄ヶ谷駅の中間に差しかゝつた際前部から二台目の車台が突然脱線しそのアヲリを食つた三台目も脱線し危くも転覆せんとした騒ぎに折柄のラツシユアワーで各車台いづれも満員の乗客であつたので一大シヨツクと共に多数の重軽傷者をだしその内一名は病院収容後間もなく、絶命するの惨事を引起した、事件突発と同時に中央線上下とも不通となり急報によつて東京鉄道局から係員や工夫急行負傷者を鉄道病院や付近の医院に収容手当を加ふると共に復旧作業を急いでゐる/惨死者と怪我人(以下略)
  
 病院で死亡したのは、信濃町の洋服店員だった51歳の男だが、ラッシュアワーの満員電車だったためか7名の重傷者には女学生や勤務先へ向かう女性が多かった。被害は打撲症がほとんどで、その多くが全治数週間と診断されている。また、人数は掲載されていないが多数の軽傷者も、打撲や擦過傷を負ったようだ。
 東中野駅を利用していた人々(落合地域では上落合西南部の住民が多かっただろう)は、脱線転覆した電車が線路をふさいでいるという情報が伝わると、復旧の見こみがないと判断して、中央線沿いに歩いて新宿駅へ向かうか、あるいは大久保通りに出ると山手線・新大久保駅をめざしたのだろう。
武蔵野鉄道(昭和初期).jpg
武蔵野鉄道貨物列車1934.jpg
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 事故の様子について、再び同紙から引用してみよう。
  
 脱線を知らず/進行して
 現場は下り線だけ/一時半開通
 事故の原因について鉄道当局の調査したところによると同上り電車が代々木駅を発車後、間もなく第三台目の客車の車輪が脱線したがそのまゝ進行を継続した、そのためその客車にほとんど満員に近く寿司詰になつてゐた乗客は烈しい動揺のため不安を感じいづれも腰かけにしがみついたり、座つたりしてゐたといふが、電車は千駄ヶ谷駅の手前約一丁半のガード付近にて遂に大脱線し二台目の車体はカーヴの護輪軌道に乗りあげそのはずみに三台目の車体は信号機に衝突し同時に下り線路上に転覆したもので乗客一同は悲鳴をあげて現場大混乱となつたものである、新橋運輸事務所からは救援電車急行し復旧に努力した結果下り線は午後一時半開通したが上り線は見込不明であるが夕刻までかゝるらしい/出勤途中惨死/哀れ二児を残して(後略)
  
 事故の規模が大きいにもかかわらず、死傷者が少なくて済んだのは、代々木駅を発車した直後、カーブに差しかかったところで乗客たちが異常に気づき、なにかにつかまったり床に座ったりと、あらかじめ身がまえていたからなのがわかる。当時、通勤・通学の時間帯を走る中央線は4両編成の電車で運行されており、同紙に掲載された写真にとらえられた転覆車輌は3両目、そのうしろで脱線しているのが4両目の車両と思われる。
 ご存じのように、中央線(総武線)は代々木駅を出るとすぐに、千駄ヶ谷駅へ向けて大きなカーブに差しかかる。ここで電車を加速しすぎると、満員の乗客を乗せた重たい車両には、カーブの外側へ向けた強い慣性力がかかる。大塚運転士は、時刻の遅れを取りもどそうとでもしたのだろうか、このカーブで急加速したのかもしれない。冒頭写真のとおり、満員電車の脱線転覆という大事故にもかかわらず、事故の予兆があったためか最小限の被害で済んだのだろう。
新宿駅プラットホーム1928.jpg
東中野駅踏切1933.jpg
新宿駅中央線ホーム1935.jpg
 この事故で想起されるのが、1927年(昭和2)4月に開通した西武電鉄の山手線手前に設置された、高田馬場仮駅Click!で起きているエピソードだ。同仮駅へと向かう電車が、カーブの角度が急すぎる軌道を曲がりきれず、頻繁に軌道からの脱線(脱輪)事故を起こしていたという伝承がある。氷川明神前にあった旧・下落合駅Click!を、実質的な起点(終点)Click!にしなければならなかった事情は、そのあたりにもありそうだ。
その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。

◆写真上:1928年(昭和3)9月13日午前8時37分ごろに起きた、代々木駅-千駄ヶ谷駅間の中央線脱線転覆事故。写っているのは転覆した3両目と脱線した4両目で、カメラマンが屋根にのぼっている2両目も脱線していると思われる。ラッシュアワーの満員電車で起きた事故で、1名が死亡し6名が重傷を負い軽傷者多数という惨事になった。
◆写真中上:1935年(昭和10)ごろに撮影された、武蔵野鉄道の椎名町駅()と東長崎駅()。は、1928年(昭和3)9月13日発行の東京朝日新聞記事。
◆写真中下は、昭和初期に撮影された郊外の新興住宅地を走る武蔵野鉄道の電車(左端)。は、1934年(昭和9)に撮影された武蔵野鉄道の貨物列車。は、1928年(昭和3)9月14日発行の中央線脱線転覆事故を伝える東京朝日新聞記事。
◆写真下は、1928年(昭和3)撮影の新宿駅プラットホーム。中央線のホームから、山手線ホームを眺めたところか。は、1933年(昭和8)に撮影された東中野駅の踏み切りで通過しているのは中央線。は、1935年(昭和10)に撮影された新宿駅の中央線プラットホーム。写っているのは普通電車ではなく、ED56形が牽引する中・長距離旅客列車。

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下落合を描いた画家たち・宮坂勝。 [気になる下落合]

宮坂勝「初秋郊外」1927.jpg
 東京美術学校で同窓だった里見勝蔵Click!と宮坂勝は、留学先のパリでも一緒にいることが多かったようだ。彼らの周囲には、小島善太郎Click!前田寛治Click!佐伯祐三Click!、中野和高、中山魏などが集っていた。帰国ののち、宮崎勝は1928年(昭和3)に開催された1930年協会Click!第3回展から、同協会の会員になっている。そして、同展に『郊外風景』と題する作品を出品した。このタイトルの「郊外」が、落合地域をさしている可能性は非常に高いと思われる。
 宮坂勝が、下落合727番地にアトリエをかまえたのは、東京美術学校の教師だった森田亀之助邸Click!の隣り、下落合630番地に里見勝蔵Click!がアトリエをかまえてから間もなくだったとみられる。1929年(昭和4)の美術年鑑には、すでに宮坂勝の住所は下落合727番地になっているので、おそらく前年あたりに故郷の信州・松本から下落合へやってきているのだろう。下落合727番地とは、ちょうど佐伯祐三が開発中の風景を描いた「曾宮さんの前」Click!、つまり曾宮一念アトリエClick!の真ん前に口を開けた、諏訪谷Click!の谷戸にふられた地番だ。
 里見勝蔵に家探しを頼んだか、あるいは美校の恩師だった森田亀之助の紹介かは不明だが、下落合630番地の里見アトリエから南へ120mほど、曾宮アトリエにいたってはすぐ目の前の谷間に宮坂アトリエがあったことになる。当時の里見勝蔵と宮坂勝は、小島善太郎によればケンカするほど仲がいい関係だったようで、諏訪谷のアトリエは里見の紹介だったかもしれない。代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所Click!で、おおぜいの研究生たちを前にふたりが大ゲンカをして、授業をメチャクチャにしたことがあった。
 そう証言するのは、インタビューを受けた小島善太郎だ。1968年(昭和43)に発行された「三彩」8月号の、「対談“独立”前後」から引用してみよう。
  
 あれはたしか木下君の親類の工藤君のアトリエで、代々木でしたよ。研究生が押すな押すなの盛況、狭い所へ五十人ちかくも入りこんで、お互いに絵の具だらけの有さま、その上、先生里見と宮坂勝が、画論の相違で、生徒を放ったらかして大喧嘩するというような騒ぎ、まったく無茶苦茶でしたが、活気はありましたなあ。
  
 「木下君」は1930年協会の木下孝則Click!、「工藤君」は工藤信太郎のことだ。里見と宮坂は激昂して、お互い筆で絵の具をなすり合ったのかもしれない。w
 さて、1930年協会に参加する少し前、1927年(昭和2)9月に描かれた宮坂勝の作品に『初秋郊外』がある。(冒頭写真) いまだ宮坂が下落合にやってくる以前、長野県の松本で美術教師をしていた時代の作品だ。だが、清水多嘉示Click!が学校の夏休みなどを利用して、同じ長野県から兄事していた下落合の中村彝Click!のアトリエを訪ね、ついでに付近の風景(たとえば1922年の『下落合風景』Click!など)を写生して展覧会に備えたように、宮坂勝もまた1930年協会の画家たちが住む下落合を訪れては、付近の郊外風景を写生していた可能性がきわめて高いとみられる。
 つまり、宮坂の『初秋郊外』は落合地域のどこかを写生したのではないか?……というのが、きょうの作品画面をめぐるテーマだ。
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宮坂勝.jpg 宮坂勝「自画像」1919.jpg
下落合727番地諏訪谷.JPG
 落合地域の目白崖線は、画面に描かれたような丘が随所に連なっているが、このような風景や地形の場所は1927年(昭和2)現在、どこにも存在しない。光線は、真上のやや左寄りから射しているようで、建物の陰影や「初秋」という時節的な画題からいっても画面は南向きか、それに近い方角を向いて描いたと思われる。手前は畑地か、整備されたばかりの宅地のようで、右手には新築らしい2階家が2軒並んで建っている。そこから小崖があって少し落ちこんでいるように見える。
 小崖の下には、二間か三間の道路があるのだろう、道沿いには家々が建ち並び、中でも特徴的なのは左手に描かれた、屋根に丸いペディメントを備えた商店建築だ。アーチの中には、屋号か家紋、トレードマークなどが刻まれているのだろう。商店の右手には、蔵が付属しているように見えるので、ひょっとすると質屋か銀行、あるいは貴重品を扱う金工細工店や宝飾店かもしれない。家々の向こうには樹々が繁り、右手には小高い丘が描かれている。この丘の斜面は急で、ほとんどバッケ(崖地)Click!に近いような地形をしている。いかにも、目白崖線のような風情なのだが、1927年(昭和2)の時点で、このような風景の場所をわたしは知らない。
 最初は上落合の西端、つまり急に丘が立ち上がる上高田との境界あたりの風景を疑った。明治から大正にかけ、寺々が東京市街地から移転してきて寺町Click!を形成した、上高田4丁目の小高い丘だ。だが、多彩な地図や空中写真を参照しても、1938年(昭和13)の時点でさえ牧成社牧場Click!が拡がり、家々が数えるほどしかないエリアで、このような風景が1927年(昭和2)現在で見られたとは思えない。ましてや、本格的な商店建築が建設されるほど、周囲に顧客がいたとも思えないのだ。もう少し北側に寄って、早くから拓けた三輪(みのわ)商店街あたりから眺めた風景に比定しようとしても、三輪地域は妙正寺川の河川敷にほど近く、このような地形に見える場所は存在しない。
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濱田煕「戸山ヶ原の西方を見る」1934.jpg
 そこで、コンクリート造りとみられるペディメントの商店をジッと眺めていて、ハタと気がついた。この通りは上落合の南辺、小滝橋つづきの早稲田通り(旧・昭和通り)ではないか。小滝橋から伸びてくる商店街なら、このような“豪華”な造りの商店があってもおかしくない。そこで思い出したのが、上落合郷土史研究会が編纂した冊子『昔ばなし』に登場する、「鶏鳴坂」Click!をめぐる記録にあった上落合が地元の方の文章だ。小滝橋から上落合側への道(現・早稲田通り)はやや上り坂となるが、昭和初期までは切通し状の三間道路がつづいていた……という証言だ。
 すなわち、八幡耕地(上落合側)と小瀧(中野側)の丘陵を掘削して、この街道(現・早稲田通り)は敷設されているのだ。それが整地され、平坦にならされたのは1935年(昭和10)前後のことだった。大正の中期までは、小滝橋の橋詰めに茶店しかなかったものが、大正末になると山手線の高田馬場駅から西へ延びはじめた商店街Click!は、小滝橋をわたると現在の早稲田通りへと連結していく。ペディメントを備えた商店は、そのうちの1軒ではないだろうか。そして、右手に見える急斜面の丘は、拙サイトの読者の方々ならピンときていると思うが、花圃遊園地の「華洲園」Click!が廃園となり、高級住宅街が建設されている最中の小滝台Click!の丘だ。
 宮坂勝がイーゼルを立てている背後は、神田川や妙正寺川が流れる北東側へ向けて徐々に地形が低くなり、画面の左手120mほどのところには、小滝橋の架かる神田上水(現・神田川)が流れ、小崖の下の道を右へ500mほどたどれば、翌1928年(昭和3)には「うなぎ・源氏」が創業する鶏鳴坂の上へと出ることができる。描画ポイントは現在、切通しの北側にあたる画面手前の丘陵の名残りがすべて平地化され、都バスの小滝橋車庫になっている敷地のすぐ西側、上落合193~194番地(現・上落合1丁目)あたりだろうと推定する。
 画家たちが集まり、あちこちにアトリエを建設しはじめた大正中期より、当然ながら落合地域のあちこちでは、イーゼルを立てて郊外風景を写生をする画家たちの姿が見られた。昭和初期に下落合を訪れた宮坂勝も、そんな画家たちの写生する姿に刺激されたものか、落合地域をあちこち歩きまわり、『初秋郊外』を写した上落合の描画ポイントを発見しているのかもしれない。そして、翌年には松本の教師の職を辞し、画家たちのアトリエが集中する下落合へ転居してきているのではないだろうか。
上落合194番地1925(1928補正).jpg
上落合194番地1925.jpg
宮坂勝「不詳」1928頃.jpg
小滝橋.JPG
 『初秋郊外』に描かれた風景は、いま描画ポイントと思われる位置に立ち、小滝台住宅地(旧・華洲園)の丘を眺めようとしても、早稲田通り沿いに建設された高層マンションやビルに遮られ、まったく見通せなくなっている。宮坂勝は、本作品を1930年協会展に出品してはいないが、同協会第3回展に出品された『郊外風景』(1928年)も、ひょっとすると前年に描いた『初秋郊外』のバリエーション作品なのかもしれない。

◆写真上:サインによれば、1927年(昭和2)9月に制作された宮坂勝『初秋郊外』。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合727番地界隈で諏訪谷の谷全体にふられた地番だ。は、宮坂勝のポートレート()と1919年(大正8)の東京美術学校卒制の『自画像』()。は、大正末に拓かれた諏訪谷に建つ家々の現状。
◆写真中下上左は、宮坂勝『初秋風景』が紹介された1928年(昭和3)の「みづゑ」8月号。上右は、アーチ状のペディメントが特徴的な商店建築。は、小滝橋の南側にある豊多摩病院Click!から北西を向いた濱田煕Click!の記憶画『戸山ヶ原の西方を見る』(1934年9月)で、背後に見える丘の連なりが旧・華洲園(小滝台住宅地)の丘。
◆写真下は、1925年(大正14)作成(1928年補正)の1/5,000地形図(上)と、同年の1/10,000地形図(下)にみる描画ポイント。は、タイトルと制作年が不詳の宮坂勝の風景画だが、表現の近似性から『初秋郊外』と同じごろの作品と思われる。は、小滝橋へと下る上落合界隈の現状。『初秋郊外』は左手(北側)の描画ポイントから、街道(現・早稲田通り)をはさみ右手の小滝台方面を向いて描かれているとみられる。
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中華料理屋の衝立てに描いた寄せ画。 [気になる下落合]

佐伯祐三「リュ・ベルサンヂェトリツクス」1925.jpg
 小島善太郎Click!は、作品に「Z.Kojima」とサインしているが、児島善三郎もまた「Z.Kojima」と署名していた。だから、よほど画家の表現やマチエール、好みのモチーフなどを理解していないと、小島善太郎か児島善三郎の作品かがわからず、少なからず混乱が起きることになる。まちがいは作品のみにとどまらず、海外とやり取りする郵便や面と向かいあう会合などでも発生し、笑い話を数多く残しているようだ。
 そもそも、小島善太郎と児島善三郎がまったく異なる画会同士であれば、それほどの混乱は起きなかったのだろうが、ふたりとも同じような時期にパリへ留学し、小島善太郎が帰国するとき渡仏する児島善三郎とインド洋上ですれちがっている。この入れちがいに、フランスの日本大使館も混乱していたようだ。しかも、児島善三郎は1929年(昭和4)から1930年協会Click!に参加しており、つづいて結成された独立美術協会Click!にも小島善太郎といっしょに参加しているため、その後も混乱はつづいた。
 そのあたりの様子を、小島アトリエClick!を訪ねた際に次女・小島敦子様からいただいた、小島善太郎『桃李不言』(日経事業出版社1992年)から引用してみよう。所収の『小島善三郎の人と作品』は、1962年(昭和37)の「三彩」7月号に掲載されたものだ。
  
 コジマゼンザブロウとコジマゼンタロウ。この二人は歳の上では僕より一つ下で、画壇生活では旧二科会、円鳥会、一九三〇年協会そして独立美術協会と一緒であり、悪い噂が出れば、あれは善太郎であり、善三郎だといって笑ったり、フランスにはマネーとモネーがまぎらわしいように、善三郎と善太郎も色々の意味に間違えられた。相手と話をしていると僕が善三郎であると思っていることに気付いたり、手紙もよく宛名を間違えられて、ひどいのはパリ―に居る善三郎に宛た手紙が大使館から東京へ帰った僕のところへ回送されてきたり、僕はインド洋でマルセーイユに向う善三郎の船と日本へ帰る僕の船とすれ違った訳で、君との初対面は二科展(僕の初入選は大正七年で二科の五回展かと思う)六・七回展頃からと思う、互に名のりをあげたのだが、その時の話では胸が悪くて二、三年画も描けなかったとのことで、あの素朴で大きな君の体が今だに眼に映る。
  
 作品を頻繁にまちがえられるため、小島善太郎は「Z.Kojima」のまま、児島善三郎は「Z.Z.Kojima」とサインを入れたエピソードは有名だ。
 さて、児島善三郎とすれちがって帰国した翌年、1926年(大正15)5月15日から24日まで京橋にある日米信託ピルの室内社で、小島善太郎らが結成した1930年協会の第1回展が開催されている。このとき、創立メンバーだった5人の画家たちは、それぞれ木下孝則Click!が16点、小島善太郎Click!が57点、里見勝蔵Click!が45点、前田寛治Click!が40点のおもに滞欧作を出品しているが、佐伯祐三Click!は船便で送った300点近くの滞欧作が間に合わず、わずか11点の画面を出品したにすぎなかった。
 このとき、佐伯祐三が展覧会場に架けた作品11点(油彩7点・水彩4点)のタイトルは判明しているが、のちに画面の差別化から題名が変更されている作品や、同じ画面が複数存在するものもあって、厳密に規定することができるのは『アッシジ・サンタ・クラーク(アッシジの聖堂)』(水彩)と、『リュ・ベルサンヂェトリツクス』(油彩)の2点のみだ。そのほか、タイトルをそのまま挙げると『巴里風景』×4点、『ヴェネツィア風景』×3点、『門』、『マルシャン・ド・クラーラ(クルール)』の計11作品ということになる。
1930年協会第1回展作品目録1926.jpg
小島善太郎「曇りの日の丘」1929.jpg
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 展覧会の告知は新聞にも掲載されたが、入場料をとったためか客がほとんど集まらず、出品した絵も売れなかった。腹が減ると、画家たちは近くにある大きな高級中華料理店に入ったのだが、ここで衝立に寄せ描きをする有名なエピソードが生まれている。佐伯祐三が、店内にあった龍の置物を写して描いたのは、朝日晃の書籍などで知っていたが、ほかの4人の画家たちはなにを描いたのか、これまで詳しくはわからなかった。ところが、その詳細を小島善太郎が記録していたのだ。
 前掲書に収録された、1975年(昭和50)開催の「木下孝則回顧展」図録より、小島善太郎『木下孝則君のこと』から引用してみよう。
  
 サービスに美人が三人四人と出てくる。もう我々には常連の待遇であった。料亭では信託ビル内で展覧会をやっている程度のことは解っていたらしいが、勿論どういう画家か知る筈もない。前田寛治が大きな衝立を担いで来た。主人が硯を持参するとすり出した。皆が前田の背後に立った。何が描かれるのかと皆の眼が集中している画面に、たっぷり墨を含ませるとその筆で黒々と縦線を引き出した。それを見て僕はその衝立が白地の鳥の子紙の面であることが判った。だから前田の引いた線がくっきり浮んで、何が画かれるか見張った訳である。/前田はそれに右手を上げて椅子に腰かけた支那美人を、等身に近い大きさに描き上げたのであった。その時木下が同じ大きさの衝立を曳いて来て横にすえると、せつ子さんと彼が勝手につけた名前の美人をつかまえて、彼女の裸像を描くと云い出した。聞いた彼女は声を挙げて逃げだした。木下は二階まで追いかけ亭中が賑わってとうとう彼女を横にした和服の寝姿を、同じ墨で木下風な達筆で大きく描いた。
  
 当時、銀座に近い京橋の高級中華料理店には、どうやら“キレイどころ”がいたらしい。おそらく、スリットが深く入ったチャイナドレスか和服を着ていたのだろう。
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 前田寛治Click!は女性にもて、さすがその扱いにも慣れているせいか、すでに「サービスに美人が三人四人」の中心にいたらしいことがわかる。店の主人とも話をつけて、彼はこのイタズラを思いついたのだろう。また、木下孝則は後年とまったく同様に、特別の美人だけに興味をしめし、「せつ子さん」のみを追いかけてモデルにしている。
 このあと、不器用な佐伯祐三や小島善太郎たちに順番がまわってくるのだが、里見勝蔵Click!は「サービスに美人が三人四人」を意識したのか、おしゃれなフランスのヴァルモンドア地域の風景を描いて得意になっている。さて、困ったのは佐伯祐三と小島善太郎なのだが……。つづいて、小島の記憶から引用してみよう。
  
 すると、今までだまって見ていた佐伯が手近にあった小さい衝立を見付けると立ったなりで硯の中に指を入れて横を睨んでいる。竜の置物であった。その墨をつけた指が小衝立にむかったと同時に忽ち戦いが起って、彼の画に見る激しい生き生きした竜がぐんぐんと出来て行くのであった。/里見も、見てもいられぬ風で、同じ小衝立にヴァルモンドアの風景ホテル・アーチストの雪景を描いていた。そこで僕だったがこういうことには全く無能で、おどおどと小さく鶴のスケッチをしただけであった。そしてわずかの入場料は支那料理代にも不足で、売れた作品は誰も無かった様に記憶する。これが当時の画壇に大きな反響を呼んだ一九三〇年協会の幕あけであった。
  
 佐伯祐三と小島善太郎は、「サービスに美人が三人四人」をまったく無視して、それぞれ勝手な絵を描きはじめ、それまで「わぁ~、前田センセさすがね!」とか「キャーッ、およしになって木下センセ!」とか、「里見センセ、とってもすてき!」とか黄色い声をあげて、せっかく盛り上がっていた女子たちをシーンとさせていたのではないだろうか。w 5人の性格や特徴、雰囲気などが、非常によく表れたエピソードだと思う。
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 1930年協会の創立メンバーが寄せ描きした衝立は、おそらく1945年(昭和20)の空襲で焼けてしまったのだろうが、もし現存していたら、5人がこの店で中華料理を一生タダで食べつづけたとしても、まだおつりがくるほどの価値になっていたにちがいない。

◆写真上:1926年(大正15)5月15日~24日に日米信託ビルで開催の、1930年協会の第1回展に出品された佐伯祐三『リュ・ベルサンヂェトリツクス』(1925年)。
◆写真中上は、1930年協会第1回展の展覧会作品目録。は、1929年(昭和4)の1930年協会第4回展に出品された小島善太郎『曇りの日の丘』。は、1930年(昭和5)に駒沢のアトリエで撮影された小島善太郎。
◆写真中下:ほとんどの滞欧作が間に合わず、1930年協会第1回展に出品されたとみられる水彩の佐伯祐三『ベネツィア風景』3部作(いずれも1926年)。
◆写真下は、1930年協会第1回展に出品された佐伯祐三『アッシジ・サンタ・クラーク(アッシジの聖堂)』。は、第1回展の『門』とみられる佐伯祐三『広告のある門』だが、同一モチーフの『広告と門』もあるので断定できない。は、1926年(大正15)5月の第1回展記念撮影で左から里見勝蔵、前田寛治、木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三。

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女に怨恨ムキ出しの芳川赳の本。 [気になる下落合]

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 先に、下落合に住んでいた洋画家・柏原敬弘(けいこう)の記事Click!を書いたとき、若くして統合失調症にかかったらしい経緯から情報量があまりに少なく、国会図書館に保存されていた1918年(大正7)出版の、「画見博士」こと芳川赳の書いた『作品が語る作家の悶(もだえ)』(泰山房)という本を参照した。ところが、同書をよく読んでみると、今日の週刊誌が真っ青になるほどのセンセーショナリズムというか、ホントかウソか、事実かウワサ話なのか、本人へ取材し“ウラ取り”をしたのか、すべて空想世界の講談本のたぐいなのか、よくわからないゴシップ満載の本だったのだ。
 同書には、洋画家・日本画家・彫刻家を問わず美術家が実名で15名ほど登場し、まあ全員がとんでもない醜聞や悲劇をまき散らしながら生活していたことになっている。先の柏原敬弘は、それでもなんとなく本人または親しい友人に取材して、談話をとっているらしいニュアンスがその記述から感じられるのだが、中にはまったくのウワサ話や陰口をもとに書いたとおぼしき文章が多々ある。
 この本が出版された翌年、下落合540番地にアトリエを建設して引っ越してくる大久保作次郎Click!は、1918年(大正7)に開催された第12回文展で『とげ』が特選になっている。ところが、『とげ』が制作された背景には、妖しげな姉妹との交際が画因になっているとされている。同書に収録された、「藍染川の氾濫から生れたローマンス破壊の跡に残る一本の『とげ』」(タイトルからして怪しい)から引用てみよう。
  
 其騒とは没交渉に只絵の研究に没頭しつゝある或る一人の長髪書生が藍染川畔の素人下宿の二階から眺めて居ると其処を通り蒐つた一人の美人があつた。雪よりも白い脛も露はに危げの足取りとぼとぼと濁流を乱して行く間にプツツリと切れた下駄の鼻緒を如何しやうと雨中に途方に暮れて居るのを見た件の長髪の書生は半ば小説に見る邂逅の興味から、二階を飛び下り自分の兵児帯を引割いて彼の女の為めに下駄の緒をすげて与へた、女は心から嬉しげにその厚意を感謝したのが抑も縁の端、二言三言の言葉の交換から、男の期待は首尾よく成功を告げたのである。此不思議な出来事から割ない仲となつた。男は文展に特選となつた洋画「とげ」の作者大久保作次郎氏(以下略)
  
 「藍染川の氾濫」とは、このサイトでもご紹介済みの東京市街地が水につかった東京大洪水Click!のことで、1910年(明治43)8月に来襲した台風が原因だった。
 「あんた、そこで見てたのかい?」というような、「講釈師、見てきたような……」の文章なのだが、大洪水で難儀していた女性は俥屋「松原與作の娘」でお米といい、その後、家計を少しでも助けるために神楽坂で芸者となり、大久保作次郎は神楽坂へほとんど毎日入りびたりになった……ということになっている。
 大久保作次郎は、芸者と逢瀬を重ねるために、大阪の実家から送られてくる学費や生活費を華代へ注ぎこみ、しまいには大阪のパトロンから送られてきた多額の支援金を、そのまま芸者の落籍代としてつかい果たしてしまった……ということにもなっている。そして、彼女と同棲をはじめたのが1915年(大正4)とのこと。そのアトリエへ、元芸者のお米の妹であるお千代が通ってきて、大久保作次郎のモデルをつとめるうち、「殊の外淫奔な女」であったお千代は、彼を誘惑して関係ができてしまい、もうアトリエは姉妹が骨肉相争そう、「執念の蛇」の修羅場と化してしまった……ってなことになっている。
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 その場に居合わせたように講釈を語る芳川赳は、気持ちよさそうに筆を進める。
  
 妙齢のお千代、夫(それ)が又殊の外淫奔の女であつた、神聖なるべき芸術のモデルが何時しか忌まはしい方面のモデルとなつて此義兄妹がお米の目褄を忍ぶ仲となつた、此一事に平和な家庭の礎は全く破壊されて、お米は嫉妬と無念の余韻から自殺すると云ふ書置を残して家出をした。お米の行方は間もなく知れたが頑として帰宅を拒んだ、お米の無念が執念の蛇となつたのか日頃淫奔な妹のお千代は間もなく忌まはしい病毒に冒された、自ら求めた罪とは云へ洋画の天才大久保氏は今更に孤独の悲哀を感ずる身とはなつた、
  
 もう少しで安珍・清姫Click!か、「姉の因果が妹にむくい~」と、両国橋西詰めClick!に架かった見世物小屋の呼びこみにでもできそうなスゴイ文章なのだが、本人たちへ取材をして、きちんと事実の“ウラ取り”している記述とは、とても思えない。また、当時の画壇では有望株だった大久保作次郎のことは「天才」ともち上げ、決して貶めたりはしない。
 同書に特徴的なのは……、
 (1)画壇で影響力ある重鎮や、活躍中の有名画家は決して貶めたり非難したりしない。
 (2)女は常に男の仕事の邪魔・妨害をし、足を引っぱる存在として登場する。
 (3)女性画家の場合は、これでもかというほど徹底的にこき下ろし貶め卑しめる。
 ……という共通の“お約束”がある。著者の芳川赳は、過去によほど女からひどいふられ方をしたものか、あるいは女性といい関係が築けず不幸な経験しかしてこなかったのか、女性コンプレックス(特に女性憎悪と敵視)のかたまりのような人物だったようだ。だからこそ、柏原敬弘のようなケーススタディ(女への復讐譚)に出あうと、嬉々として文章が活きいきと躍動するのだろう。
 少し余談だが、画家や作家たちのことを取り上げた際に、その恋人や連れ合いが芸術家の足を引っぱり、いい仕事を残すのを妨げた……というような文章に出あうことがある。彼女たちさえいなければ、もっといい仕事を残せただろう、あるいはひどい記述になると、もっと長生きできただろうに……なんてたぐいの文章だ。これって、芸術家本人の主体性は、いったいどこに置き忘れてしまったのだろうか?
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 下落合に住んだ画家を例にとれば、佐伯祐三Click!池田米子Click!のケースに多々見られる現象だろうか。本人がそれでいいと満足し、進んで選択した相手と生活をともにして好き勝手に表現しつづけているのだから、本人の主体性をいっさいがっさい無視して、“赤の他人”が結果論的に高みから、とやかくヒョ~ロンする課題ではないだろう。本人が好きで、あるいはホレていっしょにいる女を貶めることは、それをポジティブに選択した芸術家本人をそれ以上に、ことさら貶めているのに気づかないのだ。
 『作品が語る作家の悶』では、会津八一Click!が“追っかけ”をしていた画家・渡辺ふみClick!(宮崎ふみ=亀高文子Click!)がひどい目に遭っている。夫の渡辺與平(宮崎與平)Click!が25歳の若さで急死したあと、未亡人となった渡辺ふみが子育てをしながら前向きに画業をつづけ、文展に入選しつづけているのが「生意気」で気に入らなかったのだろう。同書に収録の「ヨヘイの位牌に積る塵/謎の愛ダニエルの話」(ちなみに現代法に照らせば、まちがいなく告訴レベルの名誉棄損罪に相当するだろう)から、再び引用してみよう。
  
 ヨヘイが死んだ後フミ子は暫くの間愛児を抱いて泣いた、併し夫(それ)も世間体を繕ふ為めであつた。間もなくヨヘイの位牌に白い塵が積もるやうになり、朝夕の御燈明も点らないやうになつた時もう大森のフミ子の家には年若い男が頻りに出入して居るのであつた。併しまたなんぼ多情なフミ子でも、遉に子の愛は別と見え、美代ちやんのあどけない姿をモデルにした画を文展に出品した事もあつたが其子供の愛でさへ日々にフミ子の心から薄らいで行くのである。
  
 夫が死んだのに、おとなしく喪に服して貞操を守りながら、子どもたちを育ててひっそりと暮らすどころか、次々と作品を描いては華々しく文展へ連続入選しつづける女に、芳川赳のコンプレックスはとうに我慢の限界を超えていたのだろう。同書の中では、もっともひどい書かれ方をしている。
 ちなみに、鶴田吾郎Click!をはじめ大森山王に画家たちが参集したのは、渡辺ふみも参加していた画会「木原会」の定例会が、大森の丘上にあった望翠楼ホテルで開催されていたからで、別に渡辺ふみの自宅があるから多くの画家たちが大森へ寄ってきたわけではない。当時は郊外別荘地だった大森・馬込界隈Click!には、アトリエをかまえていた画家・彫刻家や滞在した画家たちも少なからずいたからだろう。たとえば、大森の画家には山本鼎や川端龍子、真野紀太郎、関口隆嗣、田澤八甲、小林古径、青山熊二、佐藤朝山などの名前を挙げることができる。また、渡辺ふみは満谷国四郎Click!の弟子なので、ときには日暮里の初音町15番地か、1918年(大正7)9月以降は下落合753番地の満谷アトリエClick!にも顔を見せていただろう。
 このあと、渡辺ふみは画業だけでは生活や子育てが苦しかったものか、「年若い男」の画家ではなく東洋汽船で貨客船の船長をつとめていた亀高五市と見合いをして再婚し、以降は亀高文子と名のるようになる。今日的にいえば、ストーカーのように渡辺ふみを写生旅行先まで執拗に追いかけつづけた会津八一Click!が、彼女を最終的にあきらめ生涯独身を張り通すことに決めたのは、1918年(大正7)4月のことだ。
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 まあ、それにしても、これほど女性への憎悪や敵意、嫌悪感、“恨み節”をムキ出しにし、「執念の蛇」(爆!)と化して口汚くののしる本もめずらしい。著者の「画見博士」(ペンネームからして野暮だ)こと芳川赳は、よほど女に恵まれなかったか、みずからいい関係を築けなかったか(50%は自分の責任だろうに)、はたまた柏原敬弘と同じく不幸な体験がトラウマになってでもいるのだろうか。書名が「作者が語る作品の」ではなく「作品が語る作者の」としているところも、展覧会で画面を眺めてはウワサ話や陰口に尾ヒレをつけて原稿化しているのが透けて見え、画家たちとはほとんど交流がないことを物語っている。本人に取材するでもなく、よくは知らない他者(女)を嬉々として貶めているところが、もはや薄らみっともないを通りこし、すでに常軌を逸していて気味(きび)が悪い。

◆写真上:下落合540番地(現・下落合3丁目)の、大久保作次郎アトリエ跡。
◆写真中上は、1910年(明治43)8月の東京大洪水にみまわれた本所界隈で、右手に見える2階建て校舎は本所尋常小学校。は、同じく東京大洪水時の下谷金杉の惨状。は、下落合の自邸でくつろぐ大久保作次郎と満喜子夫人。
◆写真中下は、『作品が語る作家の悶』所収の「藍染川の氾濫から生れたローマンス破壊の跡に残る一本の『とげ』」()と、「ヨヘイの位牌に積る塵/謎の愛ダニエルの話」()。は、大規模な建設工事が行われて間もない下落合1296番地にあった秋艸堂Click!へと下る霞坂筋。は、大森にあった望翠楼ホテル。
◆写真下は、大森の自宅兼アトリエで制作する大正期の渡辺ふみ(宮崎ふみ=亀高文子)。は、再婚後の大正中期の制作と思われる亀高文子『キャンバスの女』。は、大森の丘上へと上る典型的なバッケ(崖)Click!階段。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(3) [気になるエトセトラ]

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 今回は、これまで参照してきたグラフ誌Click!写真集Click!から離れ、関東大震災Click!時には中堅の出版社となっていた本郷区駒込坂下町の大日本雄弁会講談社が、1923年(大正12)10月1日に発行した『大正大震災大火災』(当時価格1円50銭)より、あまり見たことのない写真類をご紹介したい。
 同社は本郷区という立地のせいか、大震災直後からカメラマンと記者を被害地域へ派遣しているので、震災直後の市街地の様子をとらえた写真も多い。のちに発生する大火災で、全域が焦土と化してしまう街並みや、余震や火災に追われて逃げまどう人々の様子が撮影されており、記録写真としてはきわめて貴重だ。
 同書の巻頭では、哲学者で国粋主義者の三宅雄二郎は、こんな「序」を寄せている。
  
 維新以後、長足の進歩を遂げ、文明の設備も、旧幕時代と比ぶべくもないと見え、幾階の高楼を指し帝都の誇りとしたが、安政位の地震で、見渡す限り焼跡となり、仲秋の月も、焼跡より出で焼跡に入るといふ状態である。これと云ふのも、前にそれぞれ用心し、後に耐震耐火で丈夫と思ひ、井戸をつぶし、火除地を除いたのに因ることが多い。今少しその辺を考へ、設備を整へたならば、大災害を幾分一に止め得たであらう。従来の如き設備では、安政の如き地震で、安政以上の災害を免れることが出来ぬ。或る人は予め之を明言したが、一般に何とも思はず、且つ地震学者は、早晩、断層の危険があると知り、之を公にすれば、世間が騒ぎ、有識者側より注意させようとして手を控へたやうなわけとなり、予想よりも早く震災に遭遇し、如何ともすることが出来なくなつた。識者の眼が何処までとゞくか、その手が何処まで及ぶか、旧幕時代に較べて、人智に何程の進歩あるかを怪しまねばならぬ。
  
 三宅は金沢育ちなので知らなかったのか、震災にみまわれた市街地で江戸期の「井戸」をつぶした事実はなく、廃止されたのは膨大な水道(すいど)網Click!だ。今日から見れば、直下型の活断層地震とみられる江戸安政大地震を、相模トラフの海洋プレート型地震の関東大震災とを同一に考えるなど、ピント外れな表現も多いけれど、文中の「安政位の」「安政の如き」大地震を、「関東大震災」に置き換えたような文章が、おそらく次に東京を襲う大震災のあとにも書かれるであろうことは想像に難くない。
 三宅が指摘しているように、「一般に何とも思はず」の状態が、特に1964年(昭和39)の東京オリンピック以降は恒常化しており、水道(すいど)の竪穴を埋めるどころか、重要な防火・消火用水として使用できたはずの河川や運河を次々に埋め立て、避難場所として設置された広場や火除け地を高速道路の橋脚用地として破壊したりと、防災インフラの食いつぶしになんの危機感も抱かなくなってしまった状況がある。
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 三宅は、あたかも大震災を口にする地震学者が、「之を公にすれば、世間が騒」ぐので公表を手控えたように書いているが、もちろん科学的な事象を積み上げながら大地震を正確に警告した地震学者はいた。関東大震災が起きる18年前、水道管の破断で消防機能がマヒし、地震直後に発生する大火災で、「東京市内各地の被害推測したら、全市焼失なら十万、二十万の死人も起こりうる」と予測した地震学者の今村明恒だ。だが、彼の警告は不安をあおる妄言(たわごと)として非難を浴び、提言のほぼすべてが各界から敵視され無視されている。
 さて、同書には震災直後の街角をとらえた写真が目につく。いまだ大火災が市街地全体に拡がらず、中には火事場を見物している“余裕”さえあった、9月1日午後の情景だろう。大火災(大火流Click!が生じた地域もあった)は、同日の夜から翌日にかけ急激に拡大していくことになる。同書でも、日比谷交差点近くで発生した火元のひとつとなるビル火災をとらえている。地震で倒壊した住宅の中で、4階建てのビルから出火している様子が写っているが、ここから拡がった火災は南からの類焼と合流して、麻布区や赤坂区のほうまで延びていくことになる。同じく、日比谷公園から同じ火災の拡がりを眺めている人々をとらえたスナップも残っている。
 また、神田駅の近く神田今川橋の通り沿いを、迫りくる火災から逃げまどう人々をとらえた写真も現場に居合わせるようでたいへんリアルだ。最初の強震で、比較的広くて幅員のある今川橋通り(電車通り)へ避難した人たちは、すぐそこまで迫っている大火災に愕然としただろう。余震の中、あわてて家内にもどり貴重品や家具調度品を持ちだして、火災とは反対方向へ逃げる様子が写っている。
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 大火災による被害が甚大だったため、語られることが少ないけれど、建物の倒壊による死傷者の数も多かった。東京市の推定によれば、5,000~6,000人が崩れてきた建物の下敷きとなって圧死している。震災直後に倒壊した建物の写真も、同書には記録されている。赤坂の住宅街で起きた惨状は、当時の重たい屋根瓦を葺いた日本家屋が、いかに危険でもろかったのかを証明するような写真だ。日本橋の白木屋Click!丸善Click!も、また上野精養軒Click!も倒壊して多数の死傷者を出している。中でも白木屋と丸善は、ほどなく延焼してきた火災が迫り、建物の下敷きになって救援を待っていた多くの生存者が、大火災にのまれて焼死した。
 同書の「序」を執筆している幸田露伴は、東京の建築について次のように書いた。
  
 今回の大災禍も其地震は地殻の理学的理由によつて、或部分の陥没と、或部分の隆起とを惹起したのぶある。火災は地震によつて起されたものであるが、此の方には大に平時の防火準備及び方法、訓練等に関する考慮の不足であつたことを見はして居て、若し今少し平時に於て深い考慮が費されて居たなら、同じく災禍を受けるにしても、今少し災禍を縮小し得たらうと思はれる。地震の方も、一般家屋の建築が、今少し外観の美を主とせずに、実際に耐力の有るものであつたなら、即ち虚飾を少くして実質を重んずる建築法が取られてゐたならば、同じ程度の震動を受くるにしても、今少し軽い程度の災害で済んだことだらうと思はれる。市街の通路の広狭、空地の按排等も、今少し好状態であつたら震災火災によりて惹起された惨事を今少し軽微になし得たであらうし、又水道のみ頼る結果として、市中の井を強ひて廃滅せしめた浅慮や、混乱中を強ひて崇高な荷物を積載した車を押通して自己の利益のみを保護せんとした為に愈々混乱を増大し、且其荷物に火を引いて避難地をまで火にするに至つた没義道な行為や、さういふ類の事が少かつたなら、今少し災禍を減少し得たらうことは、分明である。
  
 この文章は、現在の東京にもそのまま当てはまる内容だろう。見栄えをよくするために、旧「白木屋」(現・COREDO日本橋)をはじめ、全面をガラス張りにしたビルが東京のあちこちに建設され、震動が激しく消防のはしご車さえとどかない死傷率がきわめて高そうな、高層マンションの上階に住むのをステータスとしているようなおかしな感覚が、関東大震災からわずか100年足らずで東京に蔓延している。
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 震災で水道管が破断することなく、また停電することもありえないことを前提に、火災が発生したらただちに天井のスプリンクラーから消火水が散布され、エレベーターを使って避難できると思っている、根拠のない楽観論(というかもはやおめでたい空想論だ)を唱える人間こそ、天災をより大きな人災へと変える元凶そのものにちがいない。
                                <つづく>

◆写真上:建物は倒壊せずに建っているが、内部は全焼した日本橋三越。
◆写真中上:1923年(大正12)10月1日発行の『大正大震災大火災』(大日本雄弁会講談社)より。からへ、日比谷の火元となった4階建てビルの火災、その火災の拡がりを日比谷公園から見守る人々、神田駅近くの今川通りに迫る火災から逃げまどう人々、震災と同時に崩壊した赤坂地域の住宅街。
◆写真中下からへ、地震で倒壊したあと火災が襲った日本橋白木屋の残骸、同じく日本橋丸善の残骸、地震で崩壊した上野精養軒、品川駅に殺到する避難民。
◆写真下からへ、全滅した廃墟の銀座通り、同じく壊滅した八丁堀、全焼の歌舞伎座、下左は、浅草寺の本堂と五重塔、仁王門を残して火に包まれる浅草を描いた横山大観の『大正大震災大火災』裏表紙。右下は、崩落した二重橋濠に架かる正門石橋の石垣。

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斎藤茂吉をどうでも「じじい」にしたい金山平三。 [気になる下落合]

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 歌人の斎藤茂吉Click!は、本や雑誌の装丁で画家とのつきあいも多かった。木村荘八Click!は戦後、斎藤茂吉が新聞へ書くことになったエッセイの挿画をまかされ、その前に茂吉を連れて東京見物の東道(ガイド)を依頼されている。茂吉が久々に、疎開先の大石田から東京へ出てくることになり、さっそく木村荘八は敗戦の焦土からようやく復興しはじめた東京じゅうを案内している。
 そのとき、斎藤茂吉と木村荘八は初対面だったが、茂吉は「木村センセエ」と呼んでいる。それには理由があって、歌誌「アララギ」記念号の裏表紙に伊藤左千夫の似顔絵を描いたのが機縁になったのと、ダ・ヴィンチの『巌窟の聖母』について書いた木村の文章が、ことのほかわかりやすく斎藤自身が気に入ったせいで、11歳も年下の洋画家・木村荘八を「センセエ」と呼ぶことになったらしい。
 木村荘八は、いまだ焼け跡が残る敗戦後の東京を、銀座から浅草、厩橋、玉の井、永代橋、深川などへ案内しているが、クルマの車窓から見える各地の風景も楽しんだ。クルマが青山界隈にさしかかったとき、斎藤茂吉は病院の焼け跡はイヤだから見にいかないと話している。そして、車中では木村荘八と芥川龍之介Click!や神経衰弱、クスリの話などで話が弾んだようだ。
 1953年(昭和28)10月発行の「アララギ―斎藤茂吉追悼号―」に収録された、木村荘八の『斎藤先生』から引用してみよう。
  
 そんな道中筋を、わざと大廻りして、なんでも青山の方を通つたやうだし、又、永代橋を渡つた(?)やうな記憶もあるが、青山を通つた時に先生は/「あの辺が病院の焼跡です。イヤだから見に行きません。」/と云はれ、何の話のほぐれからか、芥川澄江堂の話が出て、澄江堂もあの時に「私」の病院へでも来てゐると、あんなこともなかつたらうが……ねエ、木村センセエ、長生きした方がああやつて死ぬよりよござんすね。「長生きした方がよござんすねエ」と私の顔を見て、云はれました。私はこの淡々とした先生の言葉にその時「感激」してゐましたが、同時に又、私のことを先生が「センセエ」と呼ぶので返事の仕様がなく、困つてゐました。
  
 澄江堂芥川龍之介の「神経衰弱」が、はたして青山能病院Click!に入院すれば治ったのかどうかは不明だが、ふたりは同じ表現者同士ということで、創作活動をめぐる精神生活上に思いあたるフシでもあったのだろうか。茂吉は病院の焼跡には立ち寄らず、そのままクルマを走らせ銀座へと出ている。
 斎藤茂吉は、東京では「よござんす」に象徴されるような、江戸東京弁の(城)下町言葉Click!を流暢に話していたようだが、故郷の山形に帰るとなにをいっているのか不明で、山形弁の生活言語を文字に表記する際には、記録者の頭をかなり悩ませたようだ。このあと、故郷の山形に疎開した茂吉のしゃべり言葉が出てくるが、文字表記された言葉でさえ早口でいわれたら、わたしもなにを話しているのかわからないだろう。
 木村荘八とともに玉の井を訪れた茂吉は、格子窓の女たちから「サンタクロースが来た」と大歓迎され、夜の銀座のキャバレーでもかなりモテたようだ。玉の井では、帝大の学生時代にやったアルバイトでも思い出したのか、「かういふ所へは昔、夜中に、湯たんぽの湯を売りに来ましたよ。今でも売りに来ますか」と木村荘八に訊ねている。また、銀座では往来する男女の流行の髪型を、いちいち木村に訊いて確認しながら細かくノートに書きとめ、のちのエッセイに引用しているようだ。
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金山平三「大石田の最上川」1948.jpg
 さて、斎藤茂吉が東京へ出てくる少し前、疎開先だった山形県の大石田でいっしょになったのが、下落合のアトリエClick!から疎開していた金山平三Click!らく夫人Click!だった。いまだ食糧や物資が欠乏している1947年(昭和22)の春先、病気をしていた茂吉の快気祝いも兼ねていたのだろう、近所の人が茂吉と金山平三夫妻Click!を招待して、特別豪華な夕食をご馳走したことがあったようだ。その席で、金山平三はわずか1歳年上(7ヶ月ちがい)の茂吉のことを、またしても「爺さん」呼ばわりして笑っている。今回は「じじい」ではなく、「お爺さん」とていねいに呼んでいるので、ご馳走を前にしてかなり上機嫌だったのだろう。
 「爺さん」呼ばわりは、斎藤茂吉が鯉の甘煮の皿を金山平三の皿と見比べて、金山のほうが鯉のサイズが大きいと交換を要求したことからはじまった。今日からみると、いい歳をした爺さんが皿上の鯉の大きさで、あれこれ意地きたなく悩んでいるのは滑稽だが、その背景には未曽有の食糧難という時代があったことを忘れてはならないだろう。席上の人々は、おそらく日々すいとんやサツマイモClick!などの代用食ばかりで、鯉の甘煮や白米などしばらく口にしていなかったにちがいない。
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金山平三「大石田の夏」1945-56.jpg
 同誌に収録された、板垣家子夫『大石田の斎藤先生』から引用してみよう。
  
 (斎藤)先生が少し遅れて来られたので、ご馳走は既に卓子一ぱい並べられてあつた。先生がこれを見て、座敷に上られるといきなり卓子の所に行き、立たれたまま一つ一つ料理の品を聞かれ、丁寧に視感味覚を堪能しながら、「ホホウこれあ大したごっつおだなつす奥さん、ムウ大したごっつおだつすこれあ、奥さんどうも」と唇をならし舌舐りをし、佇立嘆賞すること稍々久しくしてから、やつと坐られて御挨拶をなされた。挨拶後直ぐ卓子を囲んだが、ご自分の鯉の甘煮をムウムウと唸りながら見られてゐたが、上眼づかひに金山先生の顔を覗ふこと両三度、遂に「金山先生、先生の鯉は俺のより大っけやうだなつす。どうかとかへてけねがっす。」と言はれたんで、金山先生は笑ひくづ(ママ)れながら、「嬉しいことを言ふねえ、このお爺さんは」と、その皿を交換したが、先生はそれを見較べること又両三度、今度は少し怖々と「先生、やつぱりほっつあ大っけがつたす、ほっつの方ばよこしてけらつしやいっすはぁ」と再び交換された。実に何とも言へない自然さで、融通無礙で、先生独特の持味を展示されたやうな気がした。「俺はえやす(卑しい。食ひしん坊の意)でなつす。」と言葉を補はれたのもユーモアそのもので、和やかな笑ひが温く部屋に充満し、楽しい夜を過したのであつた。
  
 斎藤茂吉のかなり卑しげな食いしん坊を、いちがい単純に笑い飛ばすことのできない、戦争をくぐり抜け、ようやく平和な時代を迎えた人たちが味わったであろう感慨も、この笑いの中には深く含まれて「温く部屋に充満」していたのだろう。
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 大石田ですごした斎藤茂吉は、親しみやすい老翁として地元の人々に印象を残したようだ。茶の中折れ帽に、洋服姿で草履をはき、少し前かがみの姿勢で最上川の岸辺や町、山野をトボトボとひとりで歩く姿が、あちこちで目撃されている。同様に、絵を描いていなければ踊ってClick!いた金山平三Click!もまた、斎藤茂吉以上に強い印象を残している。

◆写真上:1956~1960年(昭和31~35)ごろ制作の、金山平三『二月の大石田』。
◆写真中上上左は、1953年(昭和28)に発行された「アララギ―斎藤茂吉追悼号―」10月の裏表紙で挿画は斎藤茂吉。上右は、同じく1953年(昭和28)発行の「アララギ」11月号の表紙。は、1948年(昭和23)に描かれた金山平三『大石田の最上川』。は、戦後に東北へ写生旅行中の金山平三。(刑部人資料Click!より)
◆写真中下上左は、1913年(大正2)に訪欧中のオーストリア・ウィーンで撮影された31歳の斎藤茂吉。上右は、新日米開戦が迫る1941年(昭和16)に撮影された創作中の斎藤茂吉。は、戦後に制作された金山平三『大石田の夏』。
◆写真下は、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の金山平三アトリエ(2012年に解体)。は、そのアトリエで「うるさいジジイは、こうしてくれるわ!」と、『夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわかがみ)』の団七Click!を真剣に演じる金山平三。w

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社長が急逝して楽隠居の会長が復帰。 [気になるエトセトラ]

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 最近はほとんど使わなくなってしまったけれど、その昔、わたしは万年筆でよく文章を書いていた。だから、道具としてのペンには書きやすさばかりでなく、長年使っていても壊れない耐久性を重視して選んでいた。
 メインに使用していたのは、プラチナから1978年(昭和53)に発売された#3776初代だ。当時、学生だったわたしは、発売から少したって大学生協で購入し、学校を出る際はこれで卒論を書いた憶えがある。握りやすく滑らないよう、ボディには独特なヒダが刻まれていて、漆黒の初代#3776は「ギャザード」と呼ばれていた。以後、今日までずっとプラチナ#3776を愛用してきた。3776の数字は、もちろん富士山の標高値だ。
 それまでは、中学へ入学したころに、親父が海外旅行の土産として買ってきてくれた、パーカーの#75(スターリングシルバー)を使っていた。このパーカー万年筆は、それほどペン先を使いこまなくても抜群に書きやすく、けっこう筆圧が高いわたしには使い勝手もよかった。その合い間には、パイロット万年筆やスワン万年筆などをプレゼントでもらったり、賞品で当てたりしたけれど、パーカーの滑らかな書き味にはほど遠かった。だから、他の万年筆はペン先がすり減ったり、ゆがんでダメになり惜しげもなく棄てても、パーカーだけは大切にしてきた。
 でも、欧米のローマ字を崩した横文字ではなく、日本語の縦書きがいけないのか、ペン先に妙なクセがついたように思えてきた。万年筆の軸がスターリングシルバーなので、不精なわたしは満足に手入れをしないせいか、手垢で黒ずみや染みのようなものがたくさん付着し、見た目もかなり汚らしいので、これ以上書きやすさを損じないよう……という名目で現役から引退させ、できるだけ温存することにした。その代わりに手に入れたのが、先述したプラチナ#3776初代だった。
 しばらく、数年の間は、手になじんだパーカー#75を「社長」と呼び、新たに手に入れたプラチナ#3776を「部長」のサブとして使っていたが、パーカー社長を楽隠居にして「会長」に奉り上げ、プラチナ部長を「社長」に昇格してメインに使うようになった。こうして、プラチナ社長は40年近い勤続年数を働きつづけてきた。途中で、もしプラチナ社長が倒れて入院したときのことを考え、1990年(平成2)ごろ予備にペリカンクラシックM205(スケルトン)を購入し、プラチナ社長の下で「秘書」として働かせることにした。うっかりもののわたしは、置き忘れたりなくしたりするので、外出するときはプラチナ社長の行方不明が心配で、ペリカン秘書をお供に連れていった。
 ところが先日、プラチナ社長が急逝してしまったのだ。落としたりぶつけたりして、グリップの部分にひび割れができていたが、ひびが拡大して割れプラスチックがくぼんでしまい、それが直接の原因かどうかは不明なものの、インクを入れておくと大量に漏れるようになってしまった。これでは、もう使いものにならない。修理に出すことも考えたけれど、おそらく新しい万年筆を買ったほうが安く済みそうなほどの、瀕死の重傷だった。しかたがないのでプラチナ社長をおシャカにして弔い、楽隠居させていたパーカー会長を、再び現役の「社長」にもどすことにした。
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 ただし、ペリカン秘書を雇用したころから、世の中、ほとんど万年筆を使わない時代を迎えつつあった。1980年代も半ばになると、仕事の原稿や書類づくりはほとんどPCのワープロソフトで済ませるようになっていたし、複写用紙のフォーム類ではボールペンしか使えない。万年筆の出番は、せいぜい手紙やハガキを書いたり、ボールペンで書けばいいのに仕事の特別な書類や原稿にのみ使うだけになっていった。現在では、手紙でさえ時間がないとWordでちゃっちゃか入力し、印刷した最下段に万年筆で横書きのサインを入れるだけのことが多い。つまり、現役復帰したパーカー社長もペリカン秘書も、昔ほど忙しくなくなってかなりヒマなのだ。
 エジプトで生まれヨーロッパで育った万年筆が、ペン先を傷めたり壊したりする要因として、もっとも挙げられていたのが、日本語の縦書き文化だろうか。万年筆は、もともとローマ字を筆記体で左から右へ流れるように書くのに、最適な筆記用具として発達してきた。だから、日本の便箋や原稿用紙のように上から下へ一字一字区切って、さまざまな角度をもった文字の縦書きには適さず、ペン先を酷使するため傷めやすいというのが、もっともな理屈なのだろう。それとも、日本産の万年筆は縦書きに対応し、欧米とは異なる特別なペン先を開発していたものだろうか。
 万年筆で縦書きをして、店員に怒られたエピソードを読んだ記憶があるので、本棚をあちこち探してみた。パリの文房具店で、万年筆の試し書きをしながら日本語を縦に書き、店員に怒られていたのは向田邦子Click!だ。1980年(昭和55)に文芸春秋より出版された、向田邦子『無名仮名人名簿』から引用してみよう。  パーカー#75.jpg
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 試し書きをしてもよいかとたずねると、どうぞどうぞと、店名の入った便箋を差し出した。/私は名前を書きかけ、あわてて消した。稀代の悪筆なので、日本の恥になってはと恐れたのである。/「今頃は半七さん」/私は大きな字でこう書いた。少し硬いが、書き味は悪くない。ところが、金髪碧眼中年美女は、「ノン」/優雅な手つきで私の手を止めるようにする。/試し書きにしては、荒っぽく大きく書き過ぎたのかと思い、今度は小さ目の字で、/「どこにどうしておじゃろうやら」/と続け、ことのついでに、/「てんてれつくてれつくてん」/と書きかけたら、金髪碧眼は、もっとおっかない顔で、「ノン! ノン!」/と万年筆を取り上げてしまった。/片言の英語でわけをたずね、判ったのだが、縦書きがいけなかったのである。「あなたが必ず買上げてくれるのならかまわない。しかし、ほかの人は横に書くのです」(中略) 彼女の白い指が、私から取り上げた万年筆で、横書きならかまわないと、サインの実例を示している。それを見ていたら、東と西の文化の違いがよく判った。
  
 店員は縦書きにする日本語を見て、あわててペン先の傷みを気にしたのだろう。それにしても、試し書きをする文字が、芝居のセリフだったり馬鹿囃子(ばかっぱやし)なのが、(城)下町育ちにあこがれる乃手Click!女子の向田邦子らしい。
 わたしは手紙にしろハガキにしろ、最近は縦書きにすることがあまりない。便箋も横書きのものが増えたし、ハガキもつい横書きで書いてしまう。特に理由もなく、無意識なのかもしれないけれど、ようやく出番ができ、このときとばかり万年筆を使うと、やはり縦書きよりも横書きのほうがスムーズな書き味に感じるせいだろうか。
 日本画家で書家でもあった祖父は、わたしに手紙をくれるときには、必ず便箋に筆でしたためてきた。子どものわたしには、あまりに達筆すぎてまったく読めないので、親に代読してもらっていた。やはり、縦書きの日本語には、万年筆ではなく筆がいちばん適した筆記用具なのだろう。もっとも、人前で恥をかくほど悪筆なわたしは、絵筆ならともかく、書の筆など習字の時間以外にもったことはない。
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 それにしても、パーカー社長は40年以上も働きづめで、どこか体力が衰えて文字にも力がない。キャップもゆるゆるでバーカーになってきているし、やっぱり楽隠居のほうが性に合っているようだ。かといって、ペリカン秘書は書き味がイマイチだし、そもそも引退した社長の座を秘書が継ぐなど、世の中では聞いたこともない。ここは、できるだけペン先を傷めないよう横書きに徹し、なかば楽隠居のバーカー社長、いやパーカー社長を騙しだまし使うしかなさそうだ。そういえば、縦書きの文書や表示が日本から減っているのを嘆き、自刃した作家にならい「縦の会」を結成したのも、向田邦子Click!だった。

◆写真上:長いものは中学生時代から使いつづけている、愛用のペン類。
◆写真中上:先ごろお亡くなりになった、1978年生まれの故プラチナ社長の#3776初代。すでにおシャカで廃棄したので、写真はプラチナ万年筆(株)のサイトから。
◆写真中下は、中学生のとき親父から土産でもらい代取に返り咲いたパーカー社長の#75 Sterling silver。かなり薄汚れガタガタでくたびれているが、いまだ現役だ。は、つい欲しくなってしまう寄木細工万年筆だがパーカー社長がいじけると困るし、そもそも万年筆を使うシチュエーションが減りつづけているので我慢。
◆写真下は、愛用のペン類とインク。は、ペリカン秘書のClassic M205。

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