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府営住宅と第三文化村の一部も燃えていた。 [気になる下落合]

 「目白文化村の空襲Click!を書いていたとき、2点気にかかることが残った。それは、文化村の方にお話をうかがったとき、1945年(昭和20)4月13日の空襲で第一文化村が焼けた際、「焼け跡から目白通りが見えた」・・・と聞いたからだ。ということは、北側に隣接していた府営住宅も燃えていたことになる。ところが、別の調査資料では府営住宅の被災は軽微で、戦後も元の古い建物がそのまましばらく建っていた・・・という証言がある。でも、文化村から目白通りが見えたということは、北側に隣接した府営住宅もかなりの範囲で炎上していないとありえない。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 それからもうひとつ、第三文化村は空襲の被害にも遭わず無キズで戦後を迎えた・・・というところ。大正期の建物がずっとのちまで残っていたし、いまでも現存しているから被害を受けていないよ・・・という証言を、確かに複数の方から聞いている。事実、古い建物をわたしはずいぶん以前から自分の目で確かめてもいた。国際聖母病院も、間違いなく燃えてはいない。しかし、ある方から「第三文化村の北側だけは、焼けたんじゃなかったっけ」・・・という話を聞いた。資料に当たってみても、空襲時の第三文化村の様子を記載しているものはない。では、どの証言が正確で、どの証言が時間の経過とともに、曖昧な記憶となってしまっているのだろうか? 古墳時代のことならともかく、わずか60年前のことだというのに・・・。
 わたしはどうやら、こういうのをそのままにはしておけない性質(たち)らしい。すっごく気持ちが悪いのだ。そこで、百聞は一見にしかず・・・をやってみることにした。それは、「当のB-29から撮影した写真があるだろう」と考えたのだ。空襲当日は夜間だが、必ず後日、爆撃の効果を確かめるためにB-29は爆撃地点を再飛行し撮影しているはずだ。でも、国防総省で情報公開された写真を、米国まで探しに行く時間もおカネもない。そこで、国内に残ってはいないかと探してみる。結果は、残念ながら空襲直後の写真はなかった。でも、同じくB-29から撮影された戦後すぐの、東京上空からの空中写真が(財)日本地図センターに保存されているのが見つかった。
 空中写真の標定図(飛行コースと撮影ポイントを記した航路図)を取り寄せて、目白文化村上空のものがあるかどうか調べてみた。そうしたら、あった! 空襲と同年の1945年(昭和20)ではないが、戦後すぐの1947年(昭和22)に同じくB-29から撮影された空中写真が現存していたのだ。標定図によれば、飛行コースは「M372」、撮影ポイントは目白文化村あたりの上空が「Point 56」、目白駅・下落合上空が「Point 55」だ。ちょっと高価だったけれど(米国のペンタゴンへ出かけるよりははるかに安い(^^;)、さっそく取り寄せて検証してみると・・・、結果は目白通り沿いの府営住宅は焼け、第三文化村の北側も焼けていることがはっきりと確認できた。以下は、戦後1年と少したったころ、焼け跡もなまなましい目白文化村の姿だ。
 第一文化村の空襲被害 Click!
 第二文化村の空襲被害 Click!
 第三文化村の空襲被害 Click!
 第四文化村の空襲被害 Click!
 拡大すると、人の姿までが確認できる高精細な空中写真だった。この下には、当時の文化村の住民たちがいるに違いない。目白通り沿いの住民たちは当時の思い出を、「火災は谷から上がってきた」と言っている。つまり、文化村に落とされた焼夷弾から火災が拡がり、目白通りの両側まで延焼したのだ。焼け方をみると、4月14日の未明は西南西からの風が強かったものと思われる。目白通りに面した家々を伝って、火災は東へ東へと拡がっていった。

 余談だが、目白・下落合界隈の写真も入手できた。神田川沿いの建物が焼けているせいで、氷川明神のみごとな築土(釣鐘形)も確認できるし、江戸期には存在した川(濠)の跡もはっきりと写っている。また、近衛邸の「呪いの木」や学習院寮(日立目白倶楽部)も、焼けずに残っているのが確認できた。これらのお話は、また別の機会に・・・。

■写真:1947年の目白文化村全景。右端が聖母坂、上辺が清戸道(目白通り)、中央を斜めに横切るのが工事中の改正道路(山手通り)。


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トロさんこと池田瀞七

見晴坂と隣の六天坂は殆ど焼夷弾で焼かれましたが、空襲時に親父が会社の泊りで帰ってきたら坂上の右手洋館と左側の階段上のF邸が焼けていないので助かったと思ったら、F邸だけがちょっと高くなっているので延焼から逃れたようです。我が家には焼夷弾が36発打ち込まれていました。裏のがけに掘った防空壕の入り口前にも。
 空襲時に私は病気中でお袋に背負われ、弟は姉貴に背負われ裏口からF邸の裏へ抜け見晴坂の上に広い原っぱがあるのでそこに逃げました。 原っぱには洗濯桶が置いてあり、水が溜められていて落ちてくる焼夷弾の炎をこの水で濡らした竹箒で消すのをみんなでしていました。
 空を見ると焼夷弾のお尻に付いた火が夜空にいっぱいで、震えながらきれいだなと思ったものです。
by トロさんこと池田瀞七 (2005-11-01 22:10) 

ChinchikoPapa

焼夷弾が36発というのは、すさまじい量ですね。ご自宅のすぐ上空で炸裂したものでしょうか。書かれています見晴坂上の空襲ですが、神田川・妙正寺川の沿いの工場地帯と、ついでに目白文化村が焼けた4月13日夜半の空襲でしょうか。それとも、5月25日夜半の空襲でしょうか?
できるだけ戦時中のことを記録しておこうと思い、当サイトでもそれぞれの空襲を記事にしています。
●4月13日夜半の下落合空襲
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2004-12-17-1
●5月25日夜半の下落合空襲
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-08-08
見晴坂あるいは六天坂の上あたりの、空襲直後の空中写真を記事末にアップしておきました。きっと、ご自宅も写っているかと思います。
by ChinchikoPapa (2005-11-02 00:41) 

トロさんこと池田瀞七

4月13日(金)です。5月の25日(金)の空襲は記憶にありません、というのも落一小の学童疎開は高学年は早くに(といっても前年末か、この年の初めかに茨城県の下館に5、6年生が行っています)行っていますが私たち低学年は群馬県赤城村大石寺に5月初め頃行きました。
私の家も両国薬軒堀で関東大震災焼かれ、紀元2600年の昭和15年7月にお袋が金を握ってこの豊島郡落合村に住家をさがしにきたときいています、したがって幼児の写真はおふくろが肌身離さず持ち歩いたへその緒と、御食い初めのさいの写真が一枚だけです。
 別記で坂上の原っぱに逃げたことを記述しましたが、翌日焼けなかったF邸でのお稲荷さんの炊き出しがあり、病気だった(と言っても○○病と名前が付けられないと思いますが、大腸に回虫がわきおなかがすく頃動き回って痛いのです、回虫も腹が空くからでしょうか)私は祖母にもらってそのおいしさに夢中で食べた思い出があります。 ところがその日か翌日に吐き気をもよおして、口から木の枝でも出たかと思うくらいの回虫を吐き出して、元気になりました。
 その炊き出しのF邸には能舞台があり観世流の能を日曜日にはよく外まで聞こえたものです。
by トロさんこと池田瀞七 (2005-11-02 07:53) 

ChinchikoPapa

先日、下落合で集まりがあったのですが、その席でも5月25日空襲のときは疎開していて、B29が目白に堕ちたことも知らなかった・・・という方が多かったです。
池田さんも、西両国の薬研堀とはすごい奇遇です。当時の名前で、「すずらん通り」という道に面して家がありました。薬研堀不動と直角に交わり、真っ直ぐ行くと日本橋本町へ出る通りです。いまでもありますが、当時の面影はゼロですね。通りの名前も、すずらん型の街灯の消滅とともに残りませんでした。
うちも、関東大震災で家を焼かれ、次いで3月10日の東京大空襲で焼かれ、親父のみ高田馬場の学生下宿へ避難してきて、今度は4月13日の高田馬場~下落合空襲に遭う・・・という、運が悪いとしかいいようのない経緯です。そのころの下落合や目白文化村を、散歩好きな親父は歩いていると思うのですが、ついに話を聞きそびれてしまいました。
回虫のお話、いまからは想像もつきませんね。戦後、寄生虫駆除の薬ができて、それを飲むと視界が黄色くなった・・・という話は、親父から聞いたことがあります。
by ChinchikoPapa (2005-11-02 11:03) 

トロさんこと池田瀞七

薬軒堀ではお袋の親父(おじいさん)が人力車屋(屋号を小松屋といった)をしていて私は3さいでしたから殆どというかぜんぜん記憶にありませんが、車夫が32名で人力車が16台とか、でも大正12年の震災で車は全滅昭和15年(落合に移転)に自己破産宣言したそうです。 したがって兄貴たち(3人)と姉貴(1人)は久松小学校、千代田中学へ通ったそうです。
by トロさんこと池田瀞七 (2005-11-02 11:17) 

ChinchikoPapa

柳橋が近かったので、大震災の前は、俥屋さんはとても繁盛したのではないでしょうか。わたしが学生時代ぐらいまで、1980年前後ぐらいまでは、柳橋に俥がたまに走っていたといいますから(わたしは見たことがありません)、かなりあとまで俥屋さんは細々と営業していたのではないかと思います。
大震災のとき親父は生まれていませんでしたが、日本橋は大打撃を受けて、それまでの街の様子とはまったく違ってしまった・・・と、祖母の話が伝わっています。このあと、東京大空襲でもう一度壊滅し、おまけに東京オリンピックでとどめを刺された感じだ・・・と、親父はしじゅうこぼしてました。
親父は大正14年(1925年)生まれですから、通ったのは薬研堀不動の突き当たり、千代田小学校(現・日本橋中学校)でした。すぐ上の先輩に三木のり平、後輩には小林信彦がいたようです。かなりおきゃんだったらしい祖母の話を聞くのが、わたしの楽しみのひとつでした。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-01-24
by ChinchikoPapa (2005-11-02 12:22) 

トロさんこと池田瀞七

儲かってはいたでしょう、芸者だけではなく、両国橋を渡っての相撲取りを乗せて運んだようです、相撲取りは別名男芸者とも呼ばれていたそうですから。
おじいさんの身寄りが大船に本店が在った渡辺銀行の頭取の一人だったようで、預金はすべてそこに預けていたそうです。 親父も昭和元年(大正15年末)暮れのボーナスをすべて預けましたが、昭和二年三月一四日の議会での片岡大蔵大臣の「渡辺銀行は危ない」とかの発言で預金者がいっせいに銀行へいき、親父が気づいたときは後のまつりですべてパー。 以後親父は死ぬまで(昭和62年)銀行を信用せずすべて懐にしまっていました。
お父さんが1925年生まれだと私と一回り離れた丑年生まれで、死んだ兄貴(長男)と同じ年ですね、よく喧嘩しました。 よく本を読め、小説を読めとうるさく言われました。
by トロさんこと池田瀞七 (2005-11-02 15:04) 

ChinchikoPapa

そういえば、相撲は回向院興行というのもありました。関取に役者に、幇間も乗せて、大橋や柳橋界隈を走っていたんでしょうね。近代落語の祖といわれる円朝も明治期、頻繁にお呼ばれして俥で柳橋の料亭に駆けつけた・・・なんて記録もどこかで読みました。
お商売が、昭和大恐慌に巻き込まれたのですね。うちは貧乏だったせいか、あまり恐慌の影響は受けなかったようで、そのころのエピソードはあまり聞いたことがありません。
親父は「最後の大正世代」でしたから、かなり考え方がリベラルでしたけれど、祖父母の世代はまだ江戸の慣習や風俗が色濃く残っていて、長谷川時雨ではないですが、祖父母から見ると親父たち子供世代のことは「あんぽんたん」と見ていたのかもしれません。(笑) もっとも、親父たちの世代から見ますと、わたしの世代は「ベラボーなあんぽんたん」、いま風にいうと「超あんぽんたん」になるのかもしれませんが・・・。(笑)
by ChinchikoPapa (2005-11-02 19:40) 

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