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なぜクリスマスしか来ないのだ?(怒) [気になる下落合]

 福音教会はドイツ系の米国人ヤコブ・アルブレヒトが始めたもので、1876年(明治9)には早くも4人の宣教師が横浜へ上陸している。1884年(明治17)に、外国人居留地だった築地へ宣教師館をかまえ、ほぼ同時に神田美土代町へ教会を建設した。明治の末になって、目白福音教会の創始者のひとりだったP.S.メーヤー宣教師夫妻が来日する。
 その直後、1912年(明治43)に下落合の約2,600坪の土地(現・下落合3丁目)を購入し、宣教師館をはじめ教会、牧師館などの建設が始まった。山手線の線路向こうの雑司ヶ谷では、明治末からJ.M.マッケーレプがすでに宣教師館や学校を建て、布教活動を開始していたのにも影響されたかもしれない。関東大震災で下町が壊滅すると、築地に残っていた英語学校も下落合へと引っ越してきた。こうして、昭和初期には目白平和幼稚園も併設し、目白福音教会の全容が姿を現す。大正初期は、「落合福音会維持社団」と下落合の地名がつかわれていたが、最寄りの鉄道駅が目白なので、震災後に建物の名称は「目白」で統一されたようだ。
 

 1924年(大正13)のクリスマス会では、すでに「きよしこの夜」が歌われているので、この曲が東京で広がったのもこの時期なのではないかと思われる。ところが、このクリスマス会が目白福音教会の“悩みの種”だったのだ。美しいデコレーションや、クッキーなどのお菓子類をそろえてクリスマス会を開催すると、近所の大勢の子供たちばかりでなく、大人たちまでが押すな押すなと教会へやって来た。ところが、クリスマスを過ぎてしまうと、とたんに手のひらを返したように誰も来なくなってしまうのだ。大正期の篠原金蔵牧師は、手記にこうこぼしている。
  
 当時の日曜学校には付近の子供が集まり、クリスマスには八畳と六畳の部屋は大人と子供で一杯になったが、バイブルクラスには人が集まらなく、教会関係者はしきりに中学生を対象に勧誘したがあまり来なかった。そんな創設時のある夜、教会は火災で焼失し、直ちに背後の家に移り、幼稚園を開始した。(『日本キリスト教団目白教会八十年史』より)
  
 華やぐお祭りやハレの催しにだけは参加し、あとの面倒な説教や学習にはまったくの無関心という、現在の「日本のクリスマス」と同じような反応を、当時の下落合の人々も示していたようだ。日本人牧師なら、「いかにも日本人らしいやね」と皮肉な笑いを浮かべたかもしれないが、メーヤー夫妻はどのような印象を持っただろう。かなり腹を立てていたのではないだろうか? 近隣のキリスト教会と比べても、この教会の持つおごそかな雰囲気は独特だ。
 教会の敷地内で遊んでいると、メーヤー宣教師に叱られたという想い出を持つ方がけっこうおり、とても厳格で几帳面な人だったようだ。わたしは、キリスト教には詳しくないが、米国の福音教会自体が特に厳格と規律を重んじる宗派なのだろうか? 同じ下落合のキリスト教会でも、氷川明神の神輿休息所や御神酒所になったりする(笑)、目白聖公会やフランシスコ修道会(聖母病院)のオープンでフレキシブルな印象とは、まったく異なるイメージが目白福音教会にはあったりする。

 創設当初ばかりでなく、1941年(昭和16)にも教会堂と幼稚園が火災で焼けてしまうが、戦後に建てられた教会堂はわたしが学生時代まで残っていた。いまは、コンクリートで覆われた味も素っ気もない礼拝堂となってしまったが、それ以前の建物は、裏にある大正期の宣教師館(旧メーヤー邸)と調和した、木造でしゃれたデザインのこじんまりとした教会だった。戦時中、ここにいたクレイマー宣教師は米国へと帰らず、憲兵隊の目を逃れて聖母病院に隠れ、日本を去りがたい他の米国人たちとともに「アンネの日記」のような生活を送っていたのは有名だ。
その後、クレイマー宣教師(女性)が「聖母病院に潜伏した」というのは、地元の誤伝ないしは“伝説”である可能性がきわめて高いことが判明Click!している。
 戦後、宣教師館(旧メーヤー邸)は、神学校設立にともない日本聖書神学校となった。1960年(昭和35)から、目白教会と聖書神学校とは別団体・別組織となり、まったく関係がなくなった。元英語学校の敷地には、大丸ピーコックストアが進出してくる。このスーパーマーケットの裏手にポツンと残る、大正初期の宣教師館のみが、当時の面影をいまに伝えている。最近、この通称「メーヤー館」が壊されるというウワサを耳にした。雑司ヶ谷の宣教師館は、下落合の宣教師館よりも5年ほど古い(明治40年建築)が、豊島区は早くから動き始めて保存に成功している。さて、新宿区の場合は・・・?

■写真上:日本聖書神学校となっている、現在の宣教師館(旧メーヤー邸)。
■写真中は1920年(大正9)に完成した目白福音教会。すでに、目白通りに面して目白平和幼稚園の看板が見えている。は、1924年(大正13)の目白英語学校。校舎は築地にあったが、関東大震災で焼失したため下落合へ移転してきた。
■写真下:1936年(昭和11)の、目白福音教会と目白英語学校の上空から。


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エム

元来、プロテスタントはカソリックに比べて厳格なのです。
カソリックの堕落に対抗して発生した派ですから。
だから、プロテスタントは基本的に快楽を徹底的に排除します。
聖公会がカソリックと袂を分かった原因は英国王が妃を離婚して他の女性と
結婚したいがため、といういい加減な話なので、聖公会もプロテスタントほど
厳格じゃないのでしょう。

などという各会派の性格分析はどうでもよいことですが、聖書学校のあの
建物は出来れば残して欲しいですね。
by エム (2005-07-07 13:44) 

ChinchikoPapa

エムさん、こんにちは。最近、ブログの臨時休業が多く、ご迷惑をおかけして申しわけありません。それにしても、このところなかなか読むことも書くこともできないSo-netブログって・・・。(笑)
> 元来、プロテスタントはカソリックに比べて厳格なのです。
なんとなく、逆のイメージがありますね。カトリック=不自由でうるさい、プロテスタント=自由で本人まかせ・・・みたいなイメージです。でも、こうやって地域の教会を比べてみると(比べちゃいけないのでしょうが)、確かにまったく逆さまのイメージを持ちます。
国別で考えますと、イタリア・フランス=カトリックが多い、ドイツ・イギリス=プロテスタントが多い・・・と、その国民性とともに妙に納得してしまうのですが。
by ChinchikoPapa (2005-07-07 14:43) 

いのうえ

平和幼稚園OBの思いで : 
今はなき木造の建物の中で、 いつもの先生ではない大柄のガイジンのおばちゃんが来て 
赤、青、黄色などの毛糸でつくった玉で、色の名前を英語を教えてくれた(特別授業?)ことを思いだしました。 
あの人はいったいだれだったんだろう。
by いのうえ (2005-07-08 00:58) 

ChinchikoPapa

近くの幼稚園へ、オスガキどもを入れるとき、下落合じゅうの教会めぐりをしたことがありました。その中には、目白教会の平和幼稚園も入っていたのですが、「規律」がほんのちょっぴり厳しそうでしたので、子供と相談してパス。(^^; 外で飽きるほど遊びたいだけ遊んでよく、妙な学習ゼロでなんでもありの文化村・下落合教会のほうを選んでしまいました。実は、こちらは子育てする親のほうに「厳し」かったのですが・・・。(笑)
やはり、ときどき見慣れない人がやってくるのは、教会の「本部」の方じゃないかと。教会でなじみの牧師さん以外の方から、かなり親しげに(慣れなれしく)話しかけられて「誰、このシト?」と思っていると、たいがい「本部」の方ですよね。
by ChinchikoPapa (2005-07-08 12:29) 

小道

日本聖書神学校が取り壊されるというのはショックです。東北へ移築するというのが本当なら、ひとまず、安心なんですが。でも、移築先がどんなところかわかりませんが、もとのところにあれば、地元の方の記憶の中にある風景として、残したいという意思が反映されるかもしれないけど、繋がりのない土地で、移築後のことが不安ですね。
by 小道 (2005-08-28 10:06) 

いのうえ

移築されるのは日本聖書神学校の中に有る宣教師館ですよね。 
取り壊されるわけではないので 新しい持ち主に東北において
愛され使いつづけてもらうしかないですね。 そこで新しい歴史が
刻まれる事を 祈念しています。 私は目白平和幼稚園OBですが
この建物の中は 在園中も入れませんでした。 ですから風景と
しては見ていたものの、お向かいの酒屋さんのように生活に入り
こんでいるかというとそうではないのですね。 今現在は牧師さん
が研究室として使われているそうです。
by いのうえ (2005-08-28 11:54) 

ChinchikoPapa

トラックバック先のコメントにも書かせていただいたのですが、建物はその“現場”にあって、地の物語や伝承とともにあってこそ、大きな意味を持つと思うんですよね。
解体されて廃棄されるよりはマシですが、とても残念です。
by ChinchikoPapa (2005-08-28 12:25) 

ChinchikoPapa

いのうえさん、こんにちは。牧師さんの研究室・・・というのは、ちょっと惹かれます。(^_^; どのような研究なんでしょう。
屋敷森の保存ができたら、そこへ移築保存・・・という「裏ワザ」もありそうですが、そのときにはもう、宣教師館を買い戻す余裕はないでしょうね。
by ChinchikoPapa (2005-08-28 12:35) 

小道

chinchikoPapaさま
いのうえさま
豊島区の宣教師館と同じ1907年築の宣教師館が、女子聖学院にあるんですが、100周年記念で、校舎を新しくするということで、この宣教師館の行く末も気になっているんです。

移築後、住宅として使用されるのなら、大切にして戴けそうですね。
by 小道 (2005-08-28 20:43) 

ChinchikoPapa

小道さん、こんばんは。
きょうお会いした方によりますと、メーヤー館の移築先は東北ではなく千葉県というお話でした。さて、どちらかは判然としませんが、保存されるのは確実のようですね。
by ChinchikoPapa (2005-08-28 23:17) 

いのうえ

Papaさん 小道さん こんにちは。 情報が錯綜しているようですが、移築保存では一致しているようですね。 日本聖書神学校ですが、入学希望の方の年齢の幅が広くて、先生より年配の方々もいらっしゃるそうです。 礼拝堂は建物としては あまり魅力を感じませんが 窓から中に入ってきたつる草をそのままにしているのが ここの姿勢を象徴しているようで良いなと感じました。 
by いのうえ (2005-08-29 00:19) 

ChinchikoPapa

なにかのきっかけで、ある日、聖書を学んでみようと思われるのでしょうね。ときどき周囲にいらっしゃいますが、急に思い立って「親鸞」を学んでみよう・・・と思い立つ方と、どこか共通する“想い”がありそうな気がします。
by ChinchikoPapa (2005-08-29 01:21) 

いのうえ

こんにちは。 本日 雑司が谷の旧宣教師館にいってきました。 やはり保存いたるまでには地元の方々が相当頑張ったようです(23年前)。 その一人 前島さんという方は、84才の今も 「わがまち雑司が谷」という地域ミニコミ紙を編集・発行されていて、本当にあたまが下がります。
by いのうえ (2005-09-19 22:18) 

ChinchikoPapa

『わがまち雑司が谷』は、下落合における『落合新聞』のような存在ですね。豊島区関連の資料を見てますと、必ず出典のひとつとして登場してきます。
雑司ヶ谷の宣教師館は、他のさまざまな宣教師館の紹介資料を置いていたり、保存にまでいたった過去の経緯、近辺の歴史などをバインダー形式で手軽に閲覧できるなど、資料類がとても豊富なのがいいですね。資料VTRも充実していて、観てるとすぐに半日すぎてしまいます。
by ChinchikoPapa (2005-09-19 23:37) 

生まれも育ちも下落合!

目白平和幼稚園は私の母校(母園?)です。昭和40年代後半でしたがまだ木造の建物があり、学芸会だったかで演劇をした覚えがあります。キリスト教ではありませんでしたが、食事の前のお祈り、今でも覚えてますね。
あのコンクリーの建物、やっぱりちょっと私もあまり好きになれません。幼稚園の近くのピーコック上のアパート、新倉自転車、第一フラワー、パン屋のボンジュール、みんな印象深いなあ。
by 生まれも育ちも下落合! (2005-11-10 01:08) 

ChinchikoPapa

おや、上記のコメントの、いのうえさんも目白平和幼稚園のご出身で、同窓生(同園生?)ということになりますね。(^^
木造だった教会の前を、わたしは数え切れないほど学生時代に往来しているのですが、いまから思うととんがり屋根の写真を撮っておけば・・・、中に入って礼拝堂を拝見しておけば・・・と、後悔しきりなんですよ。
by ChinchikoPapa (2005-11-10 15:43) 

あっこ

初めてコメントいたします。
私は、アメリカのメリーランド州に住んでおります。お友達(といっても年齢的には大先輩になるのですが)が、メーヤー宣教師のお嬢様(4人おられたお嬢様のうちの三女)です。先日お会いした時に、「結局私が住んでいた宣教師館はどうなったのかしら?」とおっしゃっていました。彼女はパソコンも持っていませんしインターネットも使わないので、代わりに調べていたところこちらにたどり着きました。もし、旧メーヤー館の行方についてご存知でしたら教えていただけませんでしょうか。
初めてのコメントで長々とお願いをして失礼いたしました。
あっこ
by あっこ (2009-08-27 08:09) 

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