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下落合で執筆された『虚無への供物』。 [気になる本]

中井英夫旧居跡.JPG 目白2丁目和館.JPG
 アビラ村Click!(芸術村)の目白崖線上に、小説家の中井英夫が住んでいた。中井英夫(塔晶夫)は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに、ミステリーの3大奇書といわれる『虚無への供物』の作者であり、まさに下落合で同作は執筆されている。中井英夫は、『がいこつ亭Vol.35』(2008年4月)の中村惠一著「闇に香る蒼き薔薇」によれば、1958年(昭和33)から1968年(昭和43)まで旧・下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んでおり、そのせいか『虚無への供物』にはあちこちに、目白・下落合界隈の情景が登場している。
 近ごろ、長編小説を読まなくなって久しい。学生時代は、野間宏の『青年の環』でも大西巨人の『神聖喜劇』でも平気で読んでいたのだけれど、最近は辻邦生の『樹の声 海の声』も途中で飽きてしまい放りだす始末だ。でも、『虚無への供物』は最後まで一気に読んでしまった。下落合の近所が登場するので飽きないせいもあるが、ストーリー自体が面白かったからだ。本作は、いちおうミステリーの範疇に分類されることが多いけれど、いわゆる「推理小説」ではない。
 『虚無への供物』は、「純文学」でも「推理小説」でも「風俗小説」でも、「歴史考証小説」でも「科学小説」でも「怪奇小説」でも、はたまた「大衆小説」でもなく、あらかじめカテゴライズされるのを鋭く拒絶するような、そのすべてを兼ね備えた作品という趣きがある。先の『青年の環』のひそみに倣えば、「全体小説」ならぬ「総合小説」とでもいうべき表現となっている。作者自身は本作のことを、ことさらアンチ・ミステリー(反推理小説)と称していたようだ。
 事件が起きる氷沼邸は、学習院のある目白通りの北側、旧・学習院馬場Click!があった裏手の北向き斜面に建っていた設定となっている。『虚無への供物』(講談社版)から引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を偲ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。(中略)繁り合った樹木が蔽うという具合だが、豊島区目白二丁目千六百**番地の氷沼家は、丁度その自然の迷路の中心に当たる部分に建てられていた。 (同書「序章」より)
  
虚無への供物上.jpg 権兵衛坂.JPG
 また、この事件を「解決」に導く牟礼田の家は、下落合の氷川明神を見おろす目白崖線の中腹、地元では通称「権兵衛山」と呼ばれる斜面に通う、権兵衛坂Click!沿いに建っていたことになっている。先年亡くなったばかりの、十返千鶴子Click!の自宅が建っているあたりだ。
  
 高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう」 (同書「第二章」より)
  
 書かれている「交番横の狭い商店街」とは1950年代半ばの栄通りのことで、「橋」はその先の目白変電所Click!に面した田島橋Click!、「小さな神社」が下落合の氷川明神社Click!、「崖の中腹」が権兵衛山(または大倉山とも)の斜面、「狭い坂道を廻って」の坂道は権兵衛坂のことだ。十三間通り(新目白通り)は、いまだ計画中で存在していない。
 あまり内容について詳しく書くと、ネタバレになってしまうのでひかえるけれど、作者の広範な知識と取材力とには驚嘆するばかりだ。推理をつづければつづけるほど、どんでん返しで裏切られていくという意外性。東京の下町と乃手Click!が交叉し、「薔薇」に「シャンソン」に「五色不動」に「不思議の国のアリス」、はたまたアイヌ民族のカムイ・ユカルまでが織りこまれ、何重にも張りめぐらされた伏線と綾なす物語の繊維とが重なり合い、息をもつかせずに展開していく。
権兵衛山山頂.JPG 東京都全住宅案内帳1960.jpg
 物語の中で気になったのは、アイヌ民族のトンコリ(五弦琴)が道南の洞爺湖周辺で奏でられていたように書かれているけれど、トンコリはカラプト(樺太)アイヌ独特の楽器であって、渡嶋アイヌとその周辺域には存在しなかっただろう。ちなみに、中井は金田一京助Click!の関連資料を参考にしているようだ。また、江戸の五色不動は、その中のいくつかが当初の建立位置と明治以降とでは大きく異なっており、それらを結ぶレイ・ラインを今日的なポイントで結ぶと、本来の意味とは異なるかたちが形成されてしまう。目白不動Click!を例にとれば、関口にあった本来の位置から金乗院のある西へ1,000m近くも移動している。
 物語のエンディングも、北側の崖線(バッケ)斜面に牟礼田邸が見える下落合の氷川明神だ。この牟礼田の性格が、実はわたしは大の苦手だ。もったいぶった話しぶりと、じれったく思わせぶりな態度とで、読んでいてしきりにイライラさせられる。他の登場人物は、それなりに好ましく描かれているのだけれど、中途から登場するフランス帰りの牟礼田だけが、どうしようもなく野暮で嫌味なヤツなのだ。(ネタバレ注意!) 最後、久生にふられるのは気味(きび)のいい結末。
住宅表示新旧対照案内図1965.jpg 中井英夫.jpg
  
 いつもの神社の前までくると、二人はいっせいに牟礼田の家を見上げた。ガラス戸のところに立って、こちらを見おろしているのは、蒼司だといい切れるほどにはっきりはしないが、確かに牟礼田ではない。それでは蒼司はやはりあの家にいて、いましがたの喪服パーティの模様も、陰できいていたのだろうか。(中略)なんとか見定めようとするうちにその黒い影は、別れをいうように手をのばして、カーテンの飾り紐を引いた。 (同書「終章」より)
  
 「推理小説」(とりあえずこう呼ぼう)で、落ちやネタがわかっているにもかかわらず、もう一度プロローグにもどって読み返したくなる作品は稀有なことにちがいない。1,200枚を超える小説を一気に読み通すというのは、全体のプロットの出来もさることながら、登場人物が魅力的なのも大きな柱だ。わたしが好きなのは、主要人物の中で唯一の女性である久生のキャラクターだ。でも、三島由紀夫が久生ファンだと聞いて、ちょっとガックリきたような気もする。

■写真上は、アビラ村西部の旧・下落合4丁目2123番地の中井英夫邸があったあたり。は、目白通りの北側には空襲による延焼をまぬがれた家々がいまでも点在している。
■写真中上は、もっとも新しい版の『虚無への供物』(講談社)。は、下落合の権兵衛坂。
■写真中下は、権兵衛坂を上りきった権兵衛山の山頂。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)にみる旧・下落合4丁目2123番地あたりで、「植物園」と記載されているのが中井邸と思われる。父親の影響で園芸好きな彼は、バラ園も造成していただろう。
■写真下は、1965年(昭和40)に作成された「住宅表示新旧対照案内図」にみる中井英夫邸。は、1980年代ごろの中井英夫。戦時中、帝大生だった中井は陸軍の作戦中枢である市ヶ谷の参謀本部へ勤務していたが、そのときの日記を最後に引用したい。
  
 この存在(軍隊)はいつさい無価値であり、「世々天皇のしろしめし給ふところ」の軍隊は、単に一個の軍閥と呼んで何等差支へはないのだ。ましてそれが臭気ふんぷんたる資本主義と手を結び、南方に帝国主義的な進駐を開始するに到つた昭和十六年某日よりの行動は、革命の日もつとも指弾し、全面的に責任を問ふべき醜悪なる事実である。


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ChinchikoPapa

子供のころを含め、うちでは卓袱台というのを使ったことがないのですが、なぜか懐かしく心惹かれますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-06-02 12:05) 

ナカムラ

中井さんの家のあった場所は地図に植物園とあるのですね。たしか中井英夫作品集の月報で、この家を訪ねたときの様子を歌人の馬場あき子さんが書いていたように思います。よく読んでいないので、改めて読み直してみようと思います。当時の中井さんは角川短歌の編集長でしたから、寺山修司や塚本邦雄、春日井建といった歌人たちの出入りもあったのではと思うのですが、皆さん物故となられてしまいました。『虚無への供物』は本当に不思議な小説ですね。大学1年生のときに読んで以来、先日読み直しましたが改めて面白かったですね。中井さんの父上は植物学者、植物園は似合っていますね。
by ナカムラ (2008-06-02 12:55) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
ひょっとすると、下落合4丁目2123番地の中井邸には表札ではなく、「○○植物園」とかの看板が、ほんとうに門柱へ出ていたのかもしれませんね。馬場あき子さんの訪問記に、「急な坂道を登ってゆくと、ようやく塔植物園と書かれた中井さんのお宅に着いた」・・・とかの記述があれば楽しいです。(笑)
読み終えるそばから、もう一度最初にもどってひとつひとつのシーンをチェックし、確認読みがしたくなる・・・というのは、わたしにも珍しい体験でした。『虚無への供物』は1粒で二度美味しい、出色の作品だと思います。
by ChinchikoPapa (2008-06-02 15:54) 

ChinchikoPapa

ジョン・サーマンのアルバムを聴くと、なぜかフランスのヌーヴェルバーグの雰囲気を思い出してしまいます。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-06-02 23:49) 

ChinchikoPapa

ニッキ飴に目がないわたしは、肉圭玉(にっけだま)を一度味わってみたいです!
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-06-03 23:43) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2013-12-14 10:11) 

ChinchikoPapa

遅ればせながら、nice!をありがとうございました。>symplexusさん
by ChinchikoPapa (2013-12-14 10:12) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2013-12-14 10:12) 

ChinchikoPapa

東京から横浜の先まで、夜通し歩きつづけたことがあります。
nice!をありがとうございました。>oosumidreamさん
by ChinchikoPapa (2014-04-22 23:42) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-10-03 19:14) 

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