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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(5) [気になるエトセトラ]

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 関東大震災Click!の直後に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)には、1923年(大正12)9月13日現在で政府が首都圏の被害をまとめた、図版「東京近県震害情況概見図」が掲載されている。それを見ると、東海道線や横須賀線、御殿場線、内房線など鉄道沿いの被害が目立っている。
 同図の中で、「全滅」あるいは「殆ど全滅」とされている街は、東京市街地をはじめ東海道線方面では横浜、戸塚、藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原、真鶴、御殿場線沿線では松田、横須賀線方面では鎌倉、腰越、横須賀、浦賀、三崎、内房方面では布良(館山)、南観音(千倉)などとなっている。大地震による家屋倒壊はもちろん、火災による延焼で街全体が焼失してしまったところもあるが、海岸沿いに「全滅」「殆ど全滅」が多いのは津波(海嘯)の襲来による被害だ。特に、相模湾沿いや房総半島の先端部分は、高さ8~10mの津波に襲われている。
 相模湾や房総半島を襲った津波(海嘯)について、同書より引用してみよう。
  
 鎌倉 震源地が相模灘中にあつた為めか、三浦半島の外側、相模灘に面した鎌倉逗子、葉山から湘南一帯、並びに伊豆の海岸及び内房州の東京湾口に近い各地は、悲惨の上に悲惨を重ねしめられた。(中略) 次いで来たつた海嘯(つなみ)では、海浜近く一帯の町々悉く水浸しとなり、近代恋愛館に治まつてゐた文学博士白村厨川辰夫氏夫妻は波にさらはれ、夫人は電線にからまつて助かるを得たが、博士自身は帰らぬ旅に赴いた。倒壊家屋六千三百戸、死者五百。
 湘南一帯 (前略)茅ヶ崎、平塚全滅し、殊に平塚は海軍の火薬廠が爆発して死傷を出した。(中略) 藤沢は倒壊家屋七千、死者三百六十、大磯は倒壊家屋千九百、死者二百三十、東海道線は道路は亀裂縦横、鉄道は馬入川鉄橋の陥落を始め当分開通の見込み立たぬ迄の大損害を蒙つた。
 房総地方 千葉県に於ては、東京湾口に近き内房州の諸邑程損害甚しく、就中北條、船形、布良等は殆んど全滅し、鋸山トンネル崩壊、館山町では次で来つた海嘯で、船が銀行の屋根の上に置き去りを喰ふ奇観さへ演ぜられた。
  
 湘南地方の茅ヶ崎や平塚に、津波の被害が書かれていないのは、現在のように住宅が海辺まで建てられておらず、南部では砂丘が拡がる地勢だったためだ。だが、海の近くまで住宅が建っていた鎌倉や逗子、葉山では津波による大きな被害が出ている。
 震動や火災、津波によって多大な被害が出たのは、幹線道路とともに首都圏の物流動脈たる鉄道各線だった。鉄道は、地震による軌道や鉄橋の崩落、隧道(トンネル)の崩壊、駅舎やホームの破壊、崖崩れによる埋没などによってほぼ全線が不通となり、復旧の見こみがまったく立たない状況に陥った。
 上記の引用にもあるが、震源地からの揺れをまともに被った東海道線の馬入川(相模川)鉄橋Click!の壊滅は、首都圏の物流にとっては“致命的”だった。大震災の被害を受けなかった地域からの物流や支援が、陸路ではほとんど受けられないことを意味していた。
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 また、走行中の列車が揺れで転覆し、多くの死傷者を出す事故も多発した。熱海線(東海道線)の根府川駅では、駅に停車していた第109列車が線路やプラットホームごと崖下の海に墜落し、乗客約300名のうち33名が救助されたのみだった。同じく東海道線の平塚駅と大磯駅の間では、第74列車Click!が脱線転覆し死者8名、重軽傷者30名が出ている。常磐線では、土浦駅と荒川沖駅間で第814列車が大破し死者8名、重軽傷者43名。横須賀線では、沼間駅と田浦間で第514列車が脱線し、死者2名と重軽傷者を出している。特に横須賀線の横須賀駅では、駅舎やホームの屋根が倒壊して列車がつぶされ下敷きとなり、修学旅行で到着したばかりだった静岡高等女学校の生徒200名余と、一般の旅客約100名の計300名余が生き埋めとなり圧死している。
 地震と同時に、東京湾岸や横浜港に設置されていた大型船用の桟橋が、海中に崩落するか破壊され、港湾の機能も喪失して、船による物資輸送もままならなくなっていた。大型船は着岸できる桟橋がないため、沖で小型船に荷を小分けに積み替えて運搬せざるをえず、幹線鉄道網の崩壊とともに大きなダメージとなった。もちろん、電信電話などの通信ネットワークも寸断され、首都圏の状況を各地へ知らせるのに、前世紀の軍用鳩(伝書鳩)が使われるというありさまだった。
 さて、鉄道網を1日でも早く復旧するために、陸軍の鉄道連隊Click!と工兵隊が首都圏のほぼ全線に投入されている。ただし、千葉の鉄道第一連隊の主軸は上越南線の鉄橋敷設と、富山の黒部鉄道の線路敷設の演習中であり、千葉には残留部隊しかいなかった。また、津田沼の鉄道第二連隊は、ほとんど200余名の全隊員が北総鉄道の線路敷設演習に出動しており、あいにくこちらも不在だった。これらの部隊は、東京の様子がつかめないまま、昼夜兼行で引き返すことになる。その様子を、同書から引用してみよう。
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 千葉に在営中の(千葉鉄道第一連隊)残留部隊に対して、近衛師団長から飛行機で、帝都大震災大火災の伝令が来た。時に九月二日の早暁であつた。こゝに於て直ちに出動して赤羽線に急行し、東北線の運転状態恢復の為めに大活動を開始して、開通促進の為めに奮闘した。上州及び黒部方面に出動中であつた前述の二隊は、昼夜兼行で行軍を続け、七日に入京すると共に、一隊は東海道線復旧土木工事に従事するために横浜方面に出動し、一隊は房総線に出動し、大貫江見間の隧道復旧工事に従事した。(中略) 大地震と同時に、総武線は不通となり、電車も亦立往生の状態に陥つたのを知つて前記の部隊(津田沼鉄道第二連隊)は、直ちに偵察員を派遣して、実地の状況を視察した。荒川放水橋は傾斜して列車運転が不能となり、千葉方面の被害は大であるけれども、東京方面の状況はまだこれを知る事が出来なかつた。そこで、連隊は両国運輸事務所長と協議して、市川、幕張間の復旧計画を立てゝ各自被害箇所に於て復旧工事に従事した。かくて津田沼連隊を、炭水補給の機関車代用として、一日の夜から鉄道兵によつて運転をなし、鉄道従業員によつて営業をなし、市川、幕張間に不定期の運転を開始した。(中略) 二日になつて、間田大隊(鉄道第二連隊)は、東京方面に出動し、三日から東海道線品川、横浜間の復旧作業に従事した。連隊に残つてゐた隊は、前記の様な活動をすると同時に、更に東京に進み、交通の要路に当る江東橋の復旧工事に従事し、其の工を竣へ、江の東西を連絡した。/連隊長の関正一大佐は、品川に本隊を置いて東海道線の復旧工事を指揮してゐる。そして十二日には本隊を東神奈川に移して、西進した。(カッコ内引用者註)
  
 この記録によれば、相模川の馬入川鉄橋を修復したのは、津田沼の鉄道第二連隊ということになりそうだ。でも、臨時に応急修復した馬入川鉄橋は、9月24日に来襲した台風とみられる暴風雨に再び破壊されて流出した。
 東海道線の要所である馬入川鉄橋が、本格的に修復されるのはもう少しあとのことになるが、関東大震災で崩落した鉄橋の橋脚はそのまま残され、現在でも湘南電車の車窓から川面に見ることができる。東海道線が全線にわたって復旧するのは、大震災から3ヶ月後の11月になってからのことだ。
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 首都圏における私営鉄道の復旧は早く、9月の中旬には主要線がほぼ全線運転を再開している。大震災から2週間余の、9月17日の時点で全線にわたり運転をはじめているのは、東武鉄道、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)、目黒蒲田電鉄(目蒲線)、池上電鉄、多摩鉄道、西武鉄道、青梅鉄道、秩父鉄道、鐘ヶ崎鉄道、駿豆鉄道の10私鉄だ。
                                <つづく>

◆写真上:日本橋の魚河岸Click!が壊滅したため、臨時に魚市場となった竹芝桟橋。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月13日現在で判明した被害状況。多くの町が、赤文字で「全滅」「殆ど全滅」「被害大」と記入されている。は、倒壊物の少ない鉄道の線路へ逃げる避難民たち。は、横須賀線の崩壊した隧道(トンネル)。
◆写真中下は、被害が少ない市電車両を人力で車庫まで運ぶ東京市電の職員たち。は、帰国する交通手段を奪われた大使館や公使館、領事館の館員たちは日比谷公園に張られたテントで暮らした。写真は、毛布で仮設テントを覆う外国人女性。は、壊滅した横浜駅(遠景建物)の線路やホームへ避難した近くの住民たち。
◆写真下は、海中に崩落した桟橋の代りに臨時桟橋を建設中の横浜港。は、崩落した相模川の馬入川鉄橋と大震災時の橋脚がそのまま残る現状。(GoogleEarthより) 馬入川鉄橋は9月中旬に応急橋が造られたが、9月24日の台風とみられる暴風雨で再び崩落した。は、出動した鉄道連隊の作業風景だが第一連隊か第二連隊かは不明。

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